キリスト教の危険性について ② 偶像崇拝者とキリスト教 | ルーク4のブログ

ルーク4のブログ

神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「キリスト教会の危険性について ② 偶像崇拝者とキリスト教」

 

2019年12月4日にアフガニスタンの地で殉教された「中村哲」先生は、「日本の良心」として毎年、追悼オマージュが世界中でなされています。

今年ももうすぐですね。

 

日本でも特に正義と慈しみを愛する人々は、中村哲先生を尊敬して、追悼オマージュを発信する人が少なくありません。

 

その数々の発信を見ると、中村哲先生を通して「キリスト教」「内村鑑三」の教えを知って、感銘を受けていました。

 

中村哲先生は初め、プロテスタント福音派の教会に導かれて、洗礼を受けたのですが、その教会の教えが理解できずに悩んでいました。

 

そして、無教会主義キリスト教の内村鑑三先生の教えとの出会いによって、キリスト教の教えが理解できて「正しいクリスチャン」になられたそうです。

 

それから、医師の道を進むことを決心されました。

そして、アフガニスタンの地に赴任し、多くの人々の命を救うために用水路を建設されたのです。

 

ですから、中村哲先生は、無教会主義キリスト教であり万人救済希望の信仰である内村鑑三先生と、

万人和解説(すべての人は神と和解している)の信仰であるカール・バルト先生の教えに酔心している無教会(どこの教会にも所属していない)のクリスチャンです。

 

 

それゆえ、アフガニスタン人はほぼイスラム教徒ですが、クリスチャンの中村哲先生とイスラム教の信徒たちが互いに愛し合い、心から仲良くすることができるのだと思いました。

 

また、中村哲先生は、イスラム教を悪くいう外国の進駐に対して、心を痛めていました。

 

特にキリスト教(プロテスタントキリスト教会やカトリック教会の保守)のクリスチャンたちは、イスラム教を敵視していたので、そういうクリスチャンたちは、本当のクリスチャンではない。私が本当のクリスチャンです!と言われています。

 

 

しかしながら、プロテスタント福音派の教会では、「中村哲先生はプロテスタント福音派の教会のクリスチャンです。」と宣伝しているのを、いくつも見聞きしました。

 

一般の人たちはキリスト教の教えは結局どこも同じだと思う人が多いようです。

 

ですから、もし、中村哲先生を通して、キリスト教を知りたいと思った人たちが、プロテスタントキリスト教会に行けば、中村哲先生の信仰とはまるで違う信仰になってしまいます。

 

プロテスタントキリスト教会の教えは、天下に神の御子イエス・キリスト以外に救いはない!イエス・キリストを信じれば天国(永遠の命)、信じなければ地獄(永遠の火の刑罰を受ける)

 

それゆえ、他の宗教の信徒たちや無神論者は、そのまま死ねば(死んでいれば)当然に最後の審判で、裁かれて、永遠の火に投げ込まれるのです。ということを確信するものです。

 

ただ穏健派は、そうは言っても、わからないところでイエス・キリストを信じているかも知れないという、未信者からすれば訳の分からない苦しい理由をつけて、断言することは控えています。

 

 

そして、他の宗教は偶像崇拝者であり、神(イエス・キリスト)に対して大きな罪を犯し続けています。という認識です。

 

私自身も福音派の教会に所属していた時、そう信じ込まされていました。

 

ですから、寺や神社の前を通る度に、苦々しい思いがありました。

かなり古い寺や神社が多く、大きな地震がくれば倒壊しそうな感じなので、倒壊して、神の御怒りに気づいてくれたらと思ったものです。

 

ですから、無教会主義キリスト教の内村鑑三先生の教えやカール・バルト先生の教えとはまるで違います。

違うキリスト教と言っても過言ではないかもしれません。

 

 

さて、無教会の立場で、他の偶像と偶像崇拝者に対する教えを聖書から見てみました。

 

旧約聖書は、イスラエルの神とイスラエルの民の話なので、イスラエルの民がイスラエルの神以外の神を崇拝していれば、イスラエルの神が激怒されても当然だと思います。

 

それに、イスラエルの神を崇拝する王と民の時代は祝福されていますが、他の神を崇拝する王と民の時代は災いと呪いで滅びたことが明確に書かれています。

 

まさに「わたしは命と死、祝福と呪いを、あなたの前に置く。あなたは命を選びなさい。申命記30:19」と教えられている通りです。

 

その歴史をイスラエルの民はよく知っていますが、日本の民は知るはずがありません。(クリスチャンホームのクリスチャン2世、3世などの場合は別ですが)

 

ですから、イスラエルの民に対する教えと、日本の民に対する教えを同じに考えるのは突拍子もないことでしょう。

 

 

日本の民に対する教えは、聖書では新約聖書の「異邦人」になるということは、プロテスタントキリスト教会でも教えています

ですから、異邦人に対する「イエス・キリストの福音宣教」の聖書箇所を見てみます。

 

ギリシャのアテネの町に来たパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じました。

 

そこでパウロは、ユダヤ人の会堂ではユダヤ教のユダヤ教への改宗者や求道者のギリシャ人と論じ、広場ではそこに居合わせたギリシャ人たちと論じた。

 

それで、ギリシャ人たちは、「パウロが語っている新しい教え(キリスト教)が、いったいどんなものか、私たちは知りたいのです。」と願って来たので、パウロは新しい教え(キリスト教)について、このように教えました。

 

「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなた方を宗教心にあつい方々だと見ております。

 

私が、あなた方の拝むものをよく見ているうちに『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。

 

そこで、あなた方が知らずに拝んでいるものを教えましょう。

 

この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。使徒17:16~24」

 

このパウロの教えは、他の神々を拝んでいることを否定したり、冒涜したりするという意図ではなく、あくまでもパウロが信じている新しい教え(キリスト教)がどのような教えであるかを論じているだけです。

 

その事が、エフェソの町での福音宣教でも明らかにされています。

 

 

神は、エフェソの町で、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行なわれていました。

 

パウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けを病人に当てると、病気は癒されて、悪霊が出て行きました。

 

ところが、ユダヤ人祈祷師たちの中で「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と真似をする者があった。

 

すると、悪霊は「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」と言って、ひどい目にあわせた。

 

このことがエフェソに住むすべての人に知れ渡ったので、人々は主イエスの御名は大いに崇められるようになりました。

 

すると、アルテミス女神の神殿の模型を作って、職人たちにかなり利益を得させていたデメトリオという銀細工師たちが騒動を起こした。

 

「あのパウロは、『手で作ったものなど神ではない』と言って、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。

 

それでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりではなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界が崇めるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう」

 

これを聞いた人々は激怒して、「エフェソ人のアルテミス女神は偉い方」と叫び出し、町中が混乱した。

 

彼らは、パウロの同行者たちを捕らえて、野外劇場へなだれ込んだ。

 

そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。

 

「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミス女神の神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。

 

それを否定することは出来ないのだから、静かにしなさい。

 

諸君がここへ連れて来た者たちは、アルテミス神殿を荒らしたのでも、我々のアルテミス女神を冒涜したのでもない。

 

本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁解する理由はないからだ。」

こう言って、書記官は集会を解散させた。使徒19:11~40

 

 

この書記官が明言されているように、パウロと同行者たちは、アルテミス女神の神殿を荒らすようになることをしていませんでした。

 

また、エフェソ人たちのアルテミス女神を冒涜するような教えもしていません。

 

なので、暴動を起こしたエフェソ人たちのほうが暴動の罪に問われるのでした。

 

 

聖書の教えは、他の神々を拝む偶像崇拝者たちに対しても、「愛は寛容であり、愛は情け深く、礼儀に反しない。第一コリント13:4~5」という信仰なのです。

 

使徒パウロは、自分自身が信じている「イエス・キリストの福音」を宣べ伝えているのです。

 

幾人でも救われるために論じたり、説得したりします。

 

ですが、決してキリスト教を強要したり、他の神々を拝む者たちを否定することもなく、他の神々を冒涜することもないのです。

 

「あなた方は宗教心にあつい方々ですね。」と友好的なのです。

 

ですから、パウロは他の神々を信じる人たちが地獄行きという思想ではなかったと思います。

 

偶像崇拝者たちは地獄へ行くと信じていれば、「神殿を荒らしている、私たちの女神を冒涜している」と言われようが、

「天下にイエス・キリストの他に救いはない!他の神々を拝むのは大きな罪です!あなた方は滅びに向かっているのです!」と警告していたでしょう。

 

パウロは、そのような教えをすることはなく、他の神々を拝む人たちからすれば、脅すようにイエス・キリストを信じさせようとすることはありませんでした。

 

なので、クリスチャンは他の神々を崇拝する人たちの信仰を認め、否定することなく、他の神々を冒涜することなく、友好的に、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるのです。

 

 

しかしながら、福音派の教会では、他の神々を崇拝する偶像崇拝者は、地獄へ行ってしまうと確信しているので、他の神々を崇拝する人たちを地獄行きから救おうとします。

 

その他の神々を拝む者たちは地獄行きという教えは、

他の神々を崇拝する者たちをこれ以上ないぐらいに超絶に否定し、他の神々の神殿を超絶に荒らし、他の神々を超絶に冒涜していることになります。

 

 

なので、無教会の立場で聖書を読めば、他の宗教者たちに対しても、中村哲先生やカトリック教会のマザーテレサと同じ信仰になりました。

 

つづく