悪魔の策略 日本では宗教に対する恐怖が広がっていることについて ⑧ | ルーク4のブログ

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「悪魔の策略 日本では宗教に対する恐怖が広がっていることについて ⑧」

 

前回記事の反響が大きかったので、さらに深堀りしていきます。

前回では佐古純一郎名誉牧師の著書「新約聖書を語る」NHK出版を取り上げました。

 

その著書の「あとがき」には「ずいぶん勝手な聖書の読み方をしているかと思います。その点は本書を読んで下さる皆さんが十分に批判してお読みくださることを願ってやみません。」と言われているので、佐古名誉牧師とは違う聖書の読み方を書かせてもらいました。

 

 

佐古名誉牧師は謙遜されていますが、佐古名誉牧師の「地獄行き」に関する聖書の読み方は、プロテスタント教会の主流だと思います。

 

特に「福音派」は絶賛される聖書の読み方です。

 

福音派の教会の「イエス・キリストの福音」の真髄は「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。

それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。ヨハネ3:16」

 

この「滅びる」とは「地獄へ行くことである。」と福音派の教会の牧師たちは確信をもって、断言して教えています。

 

佐古名誉牧師が「『滅び』というのは、私たちの感覚では、『地獄に行くこと』、と考えていいと思います。」と教えられている通りです。

 

 

さて、私たちは生きているうえで、身近に感じる恐怖は「癌」になることです。

 

その癌もステージ1期、2期、3期、4期(末期)とあります。

 

すべての癌の5年相対生存率は、1期が約90%、2期が約80%、3期が約50%、4期が約20%です。

大腸癌では、3期でも約80%の生存率です。

 

ですから、「癌」と診断されても、それぞれのステージではまるで違います。1,2期だと死ぬ心配はしなくていいと励まされますし、4期だと余命宣告される場合があります。

 

 

聖書の「滅び」に対する教えも「癌」と同じで、ステージに分かれています。

 

「滅び」「永遠の滅び」「永遠の刑罰」「永遠の火に入れ」

 

「滅び」については、第一コリント5章1~5で、このように説明されています。

 

「異邦人の中にもないほどの不品行を行なう者を、主イエスの御名によって、すでにさばきました。

 

このような者をサタン(悪魔)に引き渡したのです。

 

それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」

 

この教えはヨハネ3章18~19で教えられていることと一致しています。

 

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

 

その「さばき」というのは、こうである。

光が世に来ているのに、人々は光よりも闇を愛した。その行ないが悪かったからである。ヨハネ3:18~19」

 

 

不品行を行なう者たちは、イエスの御名によって、すでにさばかれます。

 

そして、サタン(悪魔)に引き渡されます。

 

ですが、それは彼の肉が滅ぼされて、霊は救われるためなのです。

 

ですから「滅びる」は肉の滅びで、霊は救われると聖書は教えているのです。

 

なので「滅びる」と「永遠の滅び・永遠の刑罰」「永遠の火に入れ」はまるで違うのです。

 

 

ユダの手紙にも、その違いを明確に分けて教えています。

 

「私はあなた方に思い出させたいことがあるのです。それは主が、民をエジプトの地から救い出し、次に、信じない人々を滅ぼされたということです。

 

また、主は、自分のおるべき所を捨てた天使たちを、大いなるさばきのために、永遠の束縛をもって、暗闇の中に閉じ込めました。

 

ソドムとゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、淫らな行ないにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、

 

永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。ユダの手紙5~7」

 

 

ここで、主は「信じない人々を滅ぼされた」と、「ソドムとゴモラその周辺の町の人々は、永遠の火の刑罰を受けた」と2通りに分けて教えています。

 

「滅ぼされた人々」と「永遠の火の刑罰を受けた人々」と分けているのです。

 

ですから、「滅ぼされた人々」は、肉体は滅ぼされても、霊は救われる人々であり、

「永遠の火の刑罰を受けた人々」は、地獄へ行ったと、聖書の教えから理解できます。

 

 

ところが、福音派の教会の牧師たちは「滅びる」=「地獄行き」という言葉をつけ足して教えています。

 

福音派の教会の重鎮の一人である生駒聖書学院院長の榮牧師は著書「天の虫けら」の中で、「罪の支払う報酬は罪であり、そのために地獄がある」

 

「人は生まれながらに罪人であり、神との関係では霊的に死んでおり、肉体の死と同時に滅び、やがては審され、地獄へ行く」と教えています。

 

 

福音派の教会の超カリスマ牧師であり、全日本リバイバルミッションの創設者で、リバイバル聖書神学校創設の際の理事長でもある滝元明牧師は、著書「こんな大きな御利益はどこにもない」の中で、このように教えています。

 

「『ヨハネ3章16節 信じる者が、ひとりとして滅びることなく』ということは、信じる者は救われ、信じない者は滅びる(地獄)いうことなのです。

 

黙示録には、信じない者は、火と硫黄との燃える池に入ると教えているのです。

 

信じない人は地獄に行く。これは大変なことだと思いました。」

 

 

榮牧師と滝元牧師もそうですが、福音派の教会の牧師たちは「ヨハネの黙示録20:13 命の書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた」を福音において最も重要視しています。

 

死後の審判で、命の書に名が記されている人々は「イエス・キリストを信じた人々」でイエス・キリストと共に千年統治する。

 

しかし、命の書に名が記されていない「生前にイエス・キリストを信じなかった人々」は、火の池に投げ込まれた。と確信して教えています。

 

 

ところがぎっちょんちょん、ヨハネの黙示録にはそんな事は教えられていないのです。

 

「地に住む者で、ほふられた小羊の命の書に、世の初めからその名の書き記されていない者はみな、獣を拝むようになる。ヨハネの黙示録13:8」と明確に教えられているのです。

 

つまり、命の書に世の初めから名の書き記されていない者が、火の池に投げ込まれたのです。

 

どこにも「イエス・キリスト(ほふられた小羊)を信じなかった命の書に名の記されていない者はみな、」というような教えは書かれていません。

 

 

そして、地に住む者で、ほふられた小羊の命の書に名の記されていない者はみな、」について、

「罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。ヨハネ第一3:8」が思い起こされます。

 

地に住む「悪魔から出た者」は、ほふられた小羊の「命の書」に世の初めから名の記されていない者なので、皆が悪魔から出た「獣」を拝むのは当然だと言えるでしょう。

 

ですが、「生前にイエス・キリストを信じなかった人々は、命の書に名の記されていない者であるゆえに、最後の審判で、火の池に投げ込まれた」と教えられると、

 

この日本では、約99%の人々がノンクリスチャン(未信者)なので、約99%の人々は恐怖で恐れおののきます。

 

ところが、世の初めからほふられた小羊の命の書に名の記されていない者は、悪魔から出た者なので、悪魔から出た「獣」を拝むようになる。

 

なので、最後の審判で火の池に投げ込まれたのです。と聖書で明確に教えられていることを正直に教えると、落ち着いて聞くことが出来ます。

 

 

このように、聖書に書かれていることは、理解しにくいところもありますが、読解力のある小学生が読んでも、安心して読める本です。

 

「神の言葉はすべて純粋。神はより頼む者の盾。

 

神の言葉につけ足してはならない。

 

神があなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。箴言30:5,6」と教えられている通りです。

 

 

聖書には「滅びる」「永遠の滅び」「永遠の火に入れ」とそれぞれ明確に書いて教えています。

 

前述したように、「滅びる」と「永遠の滅び」はまるで違います。

 

実は「永遠の滅び」と書くつもりが、「永遠」を書くのを忘れてしまった、取り除いてしまったということは絶対にあり得ないでしょう。

 

「聖書はすべて神の霊感によって書かれた」と教えられているから、原本はなく、写本であっても守られているからです。

 

そして、「神の御言葉につけ足してはならない」と警告されているのです。

 

神の言葉を曲解して教える人たちは、自分自身に滅びを招いているのです。(第二ペテロ3:16)

ちなみに滅びを招くは、地獄行きではないです。ですが、失脚して滅びるのは嫌でしょう。

 

 

旧統一教会は「先祖は地獄で苦しんでいる」と教えていますが、聖書の教えでは、そのような恐ろしい教えをしていないのです。

 

悪魔の策略は、聖書の教えを曲解して、恐怖を与えて、恐怖の力で信じさせることです。

 

もしも、キリスト教の信者という人たちから、「あなたの先祖は地獄で苦しんでいる」「信じていない人は地獄へ行く」と教えられれば、

 

「聖書にそんな事は教えていません。どこに書いているのですか?」と言って、相手にしないほうがいいでしょう。

 

神の言葉はすべて純粋であり、より頼む者の盾なのですから。