「福音派と無教会の決定的な違い ⑨ 福音宣教について | ルーク4のブログ

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「福音派と無教会の決定的な違い ⑨ 福音宣教について」

 

いよいよマスク着用が緩和されてきましたが、不思議とマスクをしていない人の顔を二度見してしまうのが気まずいです。

このまま、新型コロナウイルスもインフルエンザ並みになってくれることを祈ります。

 

さて、今回は「福音宣教」についてをみていきたいと思います。

 

福音派の教会にいた頃、まず最初に「神は愛です」を全面的に言っていました。

 

そして、次のような言葉を伝えます。

「あなたはありのままで神に愛されている」

「あなたは愛されるために生まれたのです。」

「神の御目には、あなたは高価で価値がある存在です。神はあなたを愛しています。」

 

その愛の言葉を聞いた人たちが、教会に来るようになれば、最も大切なことを話していきます。

 

「すべての人は罪人である。イエス・キリストは身代わりとなり、すべての人の罪を背負われて、十字架上で死なれました。

 

イエス・キリストを信じた人は、イエス・キリストの流された血潮によって罪が赦されて、永遠のいのちを与えられます。

つまり天国に行けるのです。

 

しかし、イエス・キリストを信じない人は、罪は赦されることなく、神の御怒りがその上にとどまっていて、そのまま死ねば永遠の滅びです。

 

つまり地獄へ行き、永遠に炎の中でもがき苦しむことになるのです。」

 

 

この福音派の「福音」は、未だに理解することが出来ません。

 

イエス・キリストを信じない人は、死ねば地獄へ行かせるほど御怒りがとどまっていると教える。

 

だけど初めの教えでは、あなたはありのままで愛されているとか、高価で価値がある存在だとか、愛されるために生まれたとか、言ってたでしょう。なのに、まったく訳が分かりません。

 

神に愛されている高価で価値がある存在であれば、どうして地獄に行くことになるのでしょう?

 

それは、「罪が」というけれど、クリスチャンになっても罪は犯し続けているでしょう。ウソをつくとか、人を傷つけるとか、いろいろと罪があるでしょう。

 

そして、「イエス・キリストを信じない罪」というけれど、私が愛している祖父母や恩人など、イエス・キリストを信じることなく死んで行った人たちを地獄行きにしている事にもなる神など、どうして信じることが出来ようかと思います。

 

 

また、まず初めに「神はあなたをありのままで愛しています!」と教えながら、実は、あなたはイエス・キリストを信じていないので地獄へ行くという福音は、

 

まず初めに「必ず儲かります!」と教えておいて、実は損をするという詐欺の手法と同じような感覚になります。

 

その点、福音派の原理主義はわかりやすいですね。

首尾一貫「イエス・キリストを信じない人は地獄へ行く。」ですから。

 

なのに、福音派の中でも原理主義は正しいとされながら、その初めから地獄行きを正直に伝える福音スタイルは敬遠されたり、嫌われています。

 

いずれにしても、福音派の教会にいた頃は、家族や仲良くなった人たちに、この自分にとって「訳の分からない福音」を伝えることはありませんでしたし、教会に誘うこともしませんでした。

 

また、職場では隠れクリスチャンでした。

 

 

次は無教会の福音宣教についてみていきます。

 

無教会の内村鑑三先生は、17歳の時に、アメリカ・メソジスト教会(福音派)で洗礼を受けます。

26歳の時、福音派のハートフォード神学校に入学しますが、神学教育に失望して、退学しました。

 

福音宣教について、福音派の教えに反発して、福音派とはまるで違う福音宣教を次のように教えています。(無教会の信州聖書集会がわかりやすくしてくださったものを引用)

 

 

イエス・キリストを信じない人はすべて永遠の滅びにゆだねなければならないような、そんな絶望的な仕事に従事したくない。

 

それならば、何のための伝道か、確かに伝道ではない。福音の宣べ伝えである。

主の解放と安息の喜びの到来を告知することである。(レビ記25章)

 

また、平和の言葉と良き知らせを宣べ伝えることである。(ローマ10章)

 

罪人に向かって、私は『神は怒っておられる。だから、自分の罪を悔い改めて、神に立ち帰れ』とは言わない。

 

私はパウロに倣って言う

「神はキリストにあって世を御自分と和解させてくださった。それゆえ、わたしはキリストに代わって、あなた方にお願いする。神の和解を受け入れなさい』と。(第二コリント5:19~)

 

神の側にあっては、和解はすでに済んでいるのである。

それゆえ、私はこの和解に応じるように、罪人に勧めるのである。

 

すでに救われている者に、その救いを承認させようとするのである。

 

本当に容易い、本当に楽しい、本当に喜ばしい仕事である。

 

 

しかし、「もし、すべての人がすでに救われているとすれば、それを彼らに知らせる必要はない。また、彼らは罪を悔い改めない」と言う人がいる。

 

私は、そうは信じない。

すべての人に及ぶ神の普遍的な愛!どうして私は、このことを人に知らせずにいられるだろうか。

 

キリストの愛が私をとらえて離さない(第二コリント5:14)とパウロは言っているが、実にその通りである。

 

私がもし、神の愛を知らなければ、それまでのこと。

しかしながら、神の愛を知った以上は、これを人に知らせることが私の生命である。

 

福音宣教は義務ではない。熱情(パッション)である。

 

詩作または芸術に類することであって、神の愛を知った者には、せずにはいられないことである。

 

 

福音宣教は義務であり、教会の事業にしている者は、神の愛を語るに足りない。

 

 

また、「すべての人は、すでにその罪を赦されている」と聞かされると、罪人は自分の罪を悔い改めなくなる」というのは、はたして事実であろうか。

 

はたして罪人は、神の忿怒を聞いて、恐怖のあまり自分の罪を悔い改めるのだろうか

 

私はそうは思わない。

少なくとも、私の実験(実際の体験)はその正反対である。

 

忿怒は、人を絶望させるか、頑固なにする。

愛だけが罪に打ち勝つことができる。

 

少なくとも、私自身の場合はそうであった。

そして私は、すべての人の場合でも同じであると思う。

 

それゆえ、神は、恐怖をもって人に臨まれない。

 

神は、無限の愛をもって彼らを訪ね、彼らが神の敵であった時に、彼らの罪を贖い、彼らが神の愛に心を動かされて、自らを改め、神のもとに帰るようにされるのである。

 

 

無教会の内村鑑三先生は、このような「福音」を教えていました。

この教えは心に響きましたし、とても理解が出来ました。

 

「神は愛である。」と教えるのであれば、その教えには裏がなく、表も裏もなく、100%神は愛なのです。

 

 

そして、無教会では、この「神の愛」を福音派のように全面的に押し付けるように教えてはいないので助かります。

 

 

私が鑑別所や少年院を出所した少年たちの世話をする働きをしていた時です。

 

ある少年は言いました。「絶対に神はいない。もし本当に神がいるなら、僕がこんな事になってはいないはずだから」

 

その少年は生まれた時から、父親が刑務所で、母親の顔もあまり覚えていませんでした。

親や周りの大人から「愛」を教わらずに育ってきたのです。

 

その少年は言います。「もしも、親にまともに育てられていたら、鑑別所に入るような悪いことをしなかった自信があります。」

 

 

「神は愛です」と初めに教えても、神さまが本当にいて、愛してくれているのなら、どうして私の人生は苦しいことだらけなのか。

 

ただ、普通の家族に生まれ育ち、親を尊敬して、信頼できる友達がいて、安心して働ける職場が与えられて、好きな人と結婚して、皆が健康で、愛する家庭を築き上げることだけでいいのに

 

どうして、親が虐待するのか、施設や学校でいじめられるのか、ブラック企業ばかりで働くことになり、低収入で働くことになるのか、失恋ばかりするのか、健康が蝕まれるのか、

 

何が「神は愛だ!」という人たちも少なくありません。

 

そういう人たちに、ただ「神は愛です」と伝えても、訳が分からないでしょう。

 

 

神さまは、それぞれの人たちに伝える特別な言葉や行ないを用意されています。

それがわからないうちは、むやみに聖書の言葉は教えることは出来ないと思います。

 

無教会の内村鑑三先生には型にはまらない、人の思いにあった自然の流れを大切にするような教えを感じました。

 

少しブルース・リーを思い出します。

格闘技の世界で、ブルース・リーは、既成の中国拳法や日本の空手、ボクシングなど型にはまらない「ジークンドー」という格闘技を生み出しました。

 

○○派、○○流派などを超えた、戦闘のスタイルでありながらスタイルではなく、人生哲学を格闘技に取り入れたのです。

 

 

根本にあるのは「神の愛」です。しかし、誰にでも、その神の愛を押し付けるのではダメですね。

 

次は、そのことについて書こうと思います。