クリスチャンの最も恐ろしい罪について | ルーク4のブログ

ルーク4のブログ

神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

クリスチャンは「神様は愛」であり、心・思い・知性・力を尽くして神を愛して、隣人を愛しなさい。この2つによって律法のすべてが全うされます。と教えられているので、あからさまに隣人の罪を指摘して、さばくことはないように思います。

しかし、同性愛者だけは違います。前の記事に書いた通り、男色の罪だとさばきます。
クリスチャンになっても同性愛のままで、同性愛を罪だと思わない者は「救われていない」と断言する牧師やクリスチャンが多数いて、その教えが拡散しています。

同性愛者も隣人だから、イエス様の愛で見ますという信仰者も、考えが変わり、同性愛は恐ろしい罪であることを認めさせて、悔い改めに導くことが、正しい神様の愛であり、神の義であるという信仰となります。そのようなクリスチャンや牧師が増えてきています。

※ 最近、同性愛について調べてみました。同性愛はL(レズ)G(ゲイ)B(バイ)T(トランスジェンダー)と4つのタイプがあるそうです。トランスジェンダーは心理学的な性別と生理学的な性別が一致しないこと。性同一障害と言われています。

トランスジェンダーは胎児の時に副腎皮質ホルモンを合成する酸素が欠け、副腎皮質ホルモンが分泌されず、副腎性アンドロゲンだけが異常に大量に分泌されることが、女の胎児に発症すると、生まれてくる女の子の外性器はやや男型になり、脳も男っぽくなる。行動パターンも男型になることがわかったそうです。

またBNSTという神経細胞群が、男性のほうが大きく、女性は小さいのですが、トランスジェンダーはその逆となっていて、ジェンダーアイディンティティと特異的な関係がある可能性も指摘されているそうです。

◇ つまり、大勢のクリスチャンたちが「罪の結果で同性愛となるローマ1章21~26節」によって、すべての同性愛者をさばきますが、まるで違うのです。胎児の時に神様の御手の中で、多くの人と違うように造られた者も多数いるのです。

トランスジェンダーのクリスチャン「ルカ」さんと友達になって、話を聞きました。
ルカさんは「性自認が体と違っているなんて、面倒でしかありませんから、僕は神様に祈り求めました。しかし神様は今のままで証をすることに導かれたのです。でもクリスチャンたちから「罪」のままではダメだと言われて、苦しみました。苦しむ同性愛者はたくさん自殺しているのです。ローマ1章21~26節の同性愛者はわずかなのです。」と教えてくれたのです。

ルカさんの証によって、様々なジェンダーで苦しんでいる人々が、イエス様のもとへありのままで来ることが出来たので、喜んでいます。

今までは、同性愛者であることはイエス様が激怒されるくらいの罪。存在そのものが地獄行きの存在だと、多くのクリスチャンと牧師が言い広げていることを聞いて、深く傷つき、自殺者もたくさんいて、イエス様から遠ざかっていたのです。

☆ 聖書では、パリサイ人と取税人の関係のようです。パリサイ人は神を信じる者です。自分は神様の律法をすべて守っていて、そして、イエス様の弟子たちは守っていないと指摘します。また、取税人をさばきます。

イエス様は、こう教えられています。自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちはパリサイ人のようだ。パリサイ人は「神よ。私は他の人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな十分の一を捧げております。」と祈った。

ところが取税人は遠く離れて、「神様。こんな罪人の私をあわれんでください」と祈った。
あなた方に言うが、この取税人が「義」と認められて家に帰りました。
パリサイ人ではありません。

※ この教えは驚きです。人間の思いでは、パリサイ人は理想的なクリスチャンです。
しかし取税人は「まず取税人という悪い仕事をやめろよ!」「罪人からいいかげん解放されろよ!」「パリサイ人を見習え!」と思います。

他でもパリサイ人は、律法を守って、律法を守っていない者の罪を指摘し、悔い改めに導いている。素晴らしい信仰者だと、客観的に見れば思います。

だけど、イエス様はパリサイ人に対して「まむしの末ども、ゲヘナ(地獄行き)をまぬがれると思うな!」と激怒されているのです。

そして取税人の場合、ザアカイや、マタイ、マタイの友達の取税人をありのままで受け入れて、一緒に食事をしました。

☆ 取税人は誰の目から見ても「罪人」と判断されていました。現在では、同性愛者がそうですね。多くのクリスチャンから「罪人」と定められて、忌み嫌われています。

イエス様は、罪人と判断されている人々をあわれみます。そして、隣人の罪を指摘して深く傷つける者を「まむしの末ども」と激怒されているのです。

取税人は、取税人のままでも、へりくだって祈れば「義」と認められています。
取税人はイスラエルを支配するローマの手先となり、あらゆる荷物や通行に「税金」を科して徴収するのが仕事です。しかも高く請求して、着服していました。払えないと悪徳金貸しのように金を貸して儲けていました。貧しい者たちから、だまし取っているのです。

しかしパリサイ人は神様の律法をすべて守っていますと祈っても「義」と認められませんでした。

※ クリスチャンで最も恐ろしい罪は、このパリサイ人のような義をもつことです。自分は聖書の教えを守っていると自任し、聖書の教えによって隣人の罪を指摘し、神様の代わりに悔い改めに導くことです。

神様の慈愛が悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじて、自分が悔い改めさせるという高慢な者は、神の御怒りを積んでいます。ローマ2章5節

「もし、あなた方の義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなた方は決して天の御国に入れません。」マタイ5章20節