まず他人の「罪」を見るか、「十字架にかけられたキリスト」を通して他人を見るか | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

クリスチャンでも、その信仰は大きく違うことがあります。
まず、他人の罪を見て、その罪を指摘し、罪を理解させて、悔い改めに導く。
すると、イエスキリストの十字架のあがないがわかって、キリストを信じるようになるという信仰です。

これはイエスキリストもバプテスマのヨハネも「神の御国が近づいた。悔い改めなさい」と言われたのが福音宣教の始まりだからというものです。罪がわかっていないと、イエス様がすべての罪を背負われたことが理解できないという認識でした。

このような信仰の牧師やクリスチャンが、日本ではプロテスタントで、かなり大勢います。
まず「罪」を見る。だから、同性愛者は罪です!カトリックは聖母マリアに祈ったり、ロザリオを持つので偶像礼拝の罪です!イエスキリストを信じないのは罪です!地獄行きです!と断罪して、悔い改めに導くというスタイルです。

☆ もう一つのスタイルは、他人を見る時に「十字架にかけられたキリスト」を通して見るスタイルです。パウロが福音宣教では「十字架にかけられたキリストしか伝えません」と言いました。

実はクリスチャンになっても、罪は住み着いたままなのです。パウロは「私は自分でしたいと思う善を行なわないで、したくない悪を行なっています。私に悪が宿っている原理を見出すのです。私は本当にみじめな人間です。だれがこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエスキリストのゆえに、ただ神に感謝します。」ローマ7章18~25節で、正直な心を語っています。

※ 例えば、アルコール中毒の人がクリスチャンになれば、「酒」はいらなくなるという人より、酒を飲みたい気持ちは変わらない人のほうが多いです。
ポルノを何時間もみていた人が、クリスチャンになっても、ポルノを見たい気持ちは変わらないという人のほうが多いです。

ただ変わったことは、以前はイエスキリストを信じなかったけど、今はイエスキリストを信じていて、イエス様に聞き従う信仰を持っていることです。イエスキリストを信じることが「神様の義」です。

自分自身にある「罪」と「悔い改め」は、イエス様がつかわされる聖霊によって、聖書の御言葉を通して、成されます。

人間は、他人の罪を指摘して、悔い改めさせようと思って行動しても、他人を怒らせたり、傷つけたりすることになる場合がほとんどです。
「偉そうに注意するけど、お前には罪がないのか!お前は絶対に罪を犯さないのか!」と逆ギレされるでしょう。
神様に信頼して、神様にゆだねることが大切です。

☆ イエス様の十字架の贖いは、無条件で、私たちが罪人なのに、まだ信じていないのに、すべての人々の罪を背負われて十字架にかけられ死なれて、三日後によみがえりました。ここに偉大なる神様の愛が明らかにされています。

他人の罪を聖書の様々な「戒め」をああだ、こうだと言って、守らせようとするのではなく、

イエス様は「これが第一の戒めである。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。第二の戒めもそれと同じくらい大切です。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。この2つの戒めに律法全体と預言者とがかかっているのです。」マタイ22章37~39と教えられました。

※ また「御国が近づいた。悔い改めなさい」の悔い改めと訳されている原語「メタノイア」は「心を変えなさい」という意味です。イスラエルの民は、アブラハム、モーセの神を知っていました。神様から心が離れていたので、心を神様のほうに変えることが出来たのです。

異邦人である「日本」とは違うのです。
「十字架にかけられたキリスト」を見る時に、心・思い・力を尽くして主イエスを愛します。そのイエス様の愛は、隣人を自分自身のように愛することができるのです。

「もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちに住まれ、神の愛が私たちのうちに全うされます。」第一ヨハネ4章12節

神は愛です。