「神様(主)を恐れること」について | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

旧約聖書には箴言や詩篇などで「主を恐れる」という教えが、いくつもあります。
この「主を恐れる」について、「永遠の刑罰・地獄行き」のことだと教える牧師やクリスチャンがいますが、そのような教えは非常に恐ろしいことだと思います。

なぜならば「愛には恐れがありません!全き愛は恐れを締め出します。
なぜなら恐れには「刑罰」が伴っているからです。
恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」第一ヨハネ18,19節と教えられているからです。

✩ ヨハネ3章16~31節には「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。

神が御子イエス・キリストを世に遣わされたのは、世を裁くためでなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。

信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでに裁かれている。その裁きというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光より闇を愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は「光」を憎み、光のほうに来ない。

しかし真理を行なう者は「光」のほうに来る」と教えています。

◇ つまり「御子を信じる者(信じた者とこれから信じる者)」は裁かれませんし、神の子とされて永遠の命を与えられているわけですから、

その神様の「全き愛」によって、「永遠の刑罰・地獄行き」は締め出されているのです。

ですから「主を恐れる」ことを、「永遠の刑罰・地獄行き」だと教えることは大きな間違いだとわかります。しかも、そのような教えは「神様の全き愛」から遠ざけ、「イエス・キリストは恐ろしい」と思わせることにもなるので、キリスト教の教えとは反するものです。

◆ 誤解されるのは「体を殺しても、魂を殺せない人たちなどを恐れてはなりません!そんなものより、魂も体もともにゲヘナで滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」マタイ10章28節です。

この教えは誰に、どのような状況で言われたかです。
続きに「しかし人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います」マタイ10章33節があります。

この時は12弟子がこれから迫害にあい、殺されるような状況でした。恐れに支配されて、ペテロは呪いをかけて誓って「イエスを知らない!」と3度言いますと預言されます。

「全き愛」がわかっていない弟子たちに「ゲヘナで滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」と教えていても、ムダでした。イエス様を裏切って、「イエスを知らない」と呪いをかけて誓いました。

まだ十字架の贖いが成されていない時ですから、全き愛がわからなかったのです。

◇ しかし今は「恵みの時」です。イエス・キリストの十字架の贖いによって、すべての罪は聖められ、多くの人は「義」と認められたのです。

「ちょうど一つのアダムの違反によって、すべての人が罪に定められたのと同様に、一つのイエス・キリストによる義の行為によって、すべての人が義と認められて、命を与えられるのです」ローマ5章18節

✩ ですから御子イエス・キリストを信じる者(信じた者、これから信じる者)にとって、最も大切なことは、「神様の全き愛」の深さ、広さ、高さを知り、永遠の刑罰・地獄行きの恐れは締め出されていて、恐れはないという事を教えあうことです。

「まことに、まことにあなた方に言います。わたしの言葉を聞いて、わたしをお送りになった方を信じている者は「永遠の命」を持っており、「裁き」の中には至らず、死から命の中に移っています」ヨハネ5章24節

主を恐れるということは、地獄行きについてではありません。「あらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう」第二コリント7章1節のように畏れるということです。

※ 御子イエス・キリストを信じる者(信じた者、これから信じる者)に、永遠の刑罰・地獄行きを教えるのは、福音に反しています。

道・真理・命を知っているクリスチャンは「神様の全き愛」について教え合います。