クリスチャンは御霊によって導かれて進む | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

教会のある兄弟から「人に頼らず、神の霊(聖霊・御霊)に頼ることばかり言うけれど、神様は結局「人」を通して教えられますよ」と反論されました。

その人の信仰も理解できます。例えば聖霊については6月14日から徐起源牧師先生がFBで「聖霊の交わりとはシリーズ」で投稿されています。

徐先生の解釈をピックアップさせてもらいますと、「主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなた方すべてと共にありますように」第二コリント13章13節から、聖霊とは神様の霊。聖書は聖霊の交わりを持つようにと言っています。

聖霊があなた方の上にのぞまれる時、あなた方は力を受けます。キリストの証人となります(使徒1、8)聖霊とはイエス様と同じ。

聖霊が来ると罪について、義について、さばきについて世にその誤りを認めさせます。聖霊様の声ではないことで悩んでいる人がいます。「私は罪人です」と苦しんでいる人がいますが、「聖霊様が言われる罪」とは「イエス様を信じないことです」

奉仕は私たちがすることではなく「聖霊」がすることです。良い証、メッセージは自分ではなく、新しい人がする。私たちはますます聖霊に教えられていく。聖霊に導かれていくという中で、自分ではない聖霊の働きによる。これがクリスチャンの歩み方なのです。

自分にはこんな能力、技術、特技があるとかではなく、聖霊によって生きていく時、私たちは力・愛・慎みがあります。「私は私を強くしてくださる方(聖霊様)によって、どんな事でもできるのです」ピリピ4章13節

聖霊様がしてくださるなら私は出来た!と信じますと、聖霊によって進んで行く。これがクリスチャンです」と聖霊の交わりについての信仰を伝えられました。

この徐先生の解釈でもわかるように「聖霊=神の霊」によって歩むクリスチャンとそうでないクリスチャンはまるで違います。そして徐先生だけでなく、ほとんどの牧師先生は「御霊によって歩みなさい」などと聖霊のことを教えられていますし、徐先生と同じ解釈をされている牧師先生のメッセージの事も思い出しました。

その時は「聖霊(御霊・神の霊)のことがいかに大切であるかを悟るのですが、いつの間にか忘れています。そして聖霊のことより他の信仰のことがコロコロと変わって行きました。

例えば韓国から「君は愛されるために生まれた」賛美が日本に大流行すると、「神に愛されている信仰だ!」となりましたし、

アメリカから「トロント・ブレッシング」が日本にも広がると、「これが聖霊様の働きです!」と額に刻印を押されるように按手を受けて後ろに倒されて、ある者は笑い続け、ある者は獣のようになって吠え、ある者は倒された時に怪我をしました。

海外から「ヤベツの祈り」が日本で流行すると「私を大いに祝福し、私の地境を広げてください、御手が共にあり、災いから遠ざけて、私が苦しむことがないようにしてください!」第一歴代4章9、10節を毎日、必死で祈っていました。

しかし、いつの間にか忘れたり、熱が冷めたりしています。それは「人」から教えられただけだからと思います。

徐先生から「聖霊の交わり」についての重要性を教えられても、今はインターネットでたくさんの情報を見聞きする時代だから、次々と「人」から教えられる信仰や御言葉によって、いつの間にか忘れていくでしょう。その繰り返しです。

しかし「私の内にある神の霊により頼み、聞き従う信仰」ですと、その御霊が教えてくださった事は、いつまでも生き続けて忘れることはありません。

神様は「人」を通しても教えてくださいますが、それだけではいつの間にか忘れたりしてしまう事が多いのです。

しかし「神様=聖霊」が直接に教えてくださったことは、その人の中で『泉』となります。
ですから、いつも「神の霊」から教えて頂く。悩み苦しみをすべて打ち明けて、御言葉と平安を頂く。

どんな暗闇の状況の中でも、私を救い喜びを与えてくださるのはイエス様です!という信仰を言い現わす。そういう信仰が「小さなことにも忠実なしもべ」と神様が喜ばれることだと思います。

「私たちは栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これは御霊なる主の働きです」第二コリント3章18節

「神の御霊に導かれる人は、誰でも神の子供です」ローマ8章14節