「自分との闘い」とは「律法との闘い」でもある | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

自分は人を愛せない!許せない!包むような優しさなどない!自分勝手で、何かに怒っていて、虚しくて、こんな自分が愛せないと思う人は少なくないと思います。


神様を信じているクリスチャンは、特にこの思考に陥る危険があります。と言うのは、聖書の教えで「他人を自分のように愛しなさい!」「汝の敵を愛せよ!」「赦しなさい!」「十戒を守りなさい!」「福音を伝えなさい!」などを行おうとするからです。


そして行っていると自負する時期と、行っていない(愛せてない、赦せていない、福音を伝えていない、など)時期の繰り返しに、一喜一憂しているようなクリスチャンが多くいるような気がします。


日本一の不良牧師と自ら認めているアーサーホーランド牧師は、牧師になってから全身を始め、背中には巨大な竜の刺青を入れたり、革ジャン姿で大型バイクで登場する型破りのゆえに、真面目な牧師やクリスチャンたちからは嫌われています。(僕個人はアーサー先生とイスラエルに行った仲良しです)


そのアーサー先生は時々、憤りながら訴えているのは「教会は必ず行いや裁きを持ってくる!どうしてもそこを象徴したい!」

「JESUSはあの十戒を守るためにあるんじゃない!おのれの罪を見せる鏡にでしか過ぎない!そして、その罪を示された時に罪を赦す存在に導く導き手が十戒なんだと!」と説いてメッセージされます。


その通りです。ガラテヤ書では使徒パウロが「人は律法の実行ではなく、ただイエスキリストへの信仰によって義とされると知って、イエスを信じました!それなのに律法(十戒を忠実に守っているかなど)を行っているかなどの行いに重点を置くようになったので、そのような信仰は間違っている!」と抗議しています。


義人はいない!一人もいないのです。あくまでも人間は自己中心で、他人を自分のようには愛せないし、赦せないのが人間です。

ただ、人を愛し赦すことが出来る十字架のイエスキリストを信じてすべて委ねることしかできないのです。その神様の愛が、その信じる者を通して流れ出すことで、愛と赦し、解放、癒しなどの神様の御業が起きるのです。


自分自身は「土の器」にすぎないのです。しかし「信仰を行うことや、聖書の教えを守っていないと裁かれる」ような教えを強調する場合がある教会が見受けられるので、律法的に信仰を行おうとして、自然体じゃないクリスチャンが多いと思われます。


こないだは生き生きしていたかと思えば、次に会った時は少し元気がないような牧師先生やクリスチャンが多い中で、アーサー先生は自然体で、生きた証も増え続けています。ヤクザやバイカーだけでなく、薬物患者や風俗で働く女性たち、有名な医者や、著名人もアーサー先生を通してキリストに出逢っています。


村上密牧師は宗教トラブル相談センターの所長さんです。よくあるのが「赦しの強制」だそうです。

村上牧師は、牧師が「赦しなさい」を神の立場に立って、赦さない人を裁いている。と言われます。


被害者は、まず「赦す」前に償いを請求する権利が聖書的であることを知っておいた方がいい。

ザアカイはイエスに「盗み取ったものは4倍にして償います」と言った。(出エジプト22章、レビ記6章など)があると言われています。


最後に個人的な信仰の見解まとめますと、まず律法的に「人を愛せよ」「赦しなさい」などの教えを守り、行おうとするのではなく、自分は罪人である。人を愛したり、赦したり、包み込む優しさを行うには不十分な人間であることを素直に認め、だから神様の愛が必要なんだ!とキリストの御前に歩む。(聖霊の風の中で)


そして神様の愛を受ければ、悔い改めて、聖められて、この土の器から、神様の愛や香りが流れが自然に流れ出されると、力を受けて、愛することや赦すことができる。福音を伝えることができるということです。


自分自身が「人を愛そう、赦そう」などの努力をする闘いをしているから、勝利できて喜ぶ時期があり、出来ずに敗北をして悲しんでいる時期の繰り返しです。その努力や闘いは「律法的な信仰」です。


自分自身は罪人です。義人ではないことを認めて、日々、神様の愛で生かされている。神様の愛の力で生きてゆくことに務める。そして神様が置かれる「祝福の道」と「呪いの道」に対しては「祝福の道」を選ぶことに努力することにより、自然体になるのです。


しかし神様に大きく用いられる時は、神様から「その心の底を知るために捨て置かれる、火の試練」もありますが、その話はまた今度に話したいと思います。