あないそがし。
やっとのことで退屈な毎日からは解放されつつあります。でも、正しい暮らしをしているかというと、そうではありませんな。ただまぁ、今のところ、心の重荷からは少し解放されてきたようでうれしい。でも本当の解決とは言い難いからな・・・少しだけ気をつけてなくちゃね。
お金がないが、やることはある。時間はあるが、やることがある。目的はできたが、希望があるかどうかはわからない。先はまだ見えないが、光は差してきたような。だが時間がかかりそうだな、ずいぶん。
いろんな失敗をしてきたから、少しは成長したかしら。とにかく、焦りすぎて無茶にならないようには気を付けなくっちゃ。だからって、のんびりしすぎてたら、どんどん歳をとってしまう。ここが難しいよ。
まずは曲を作っていこう。悩みすぎずに、できる限りの行動をしよう。考えすぎる暇を与えないように。それに、健康になろう。できれば、幸せになりたい。
そういうことです。
情緒不安定だがいろいろある日々
斬った腕の穴が痛痒い。なんだか腕全体がずぅんと重く感じる。ばい菌が入ったのだろうか。俺の両腕は、なんの罪もないのに、持ち主のせいで傷だらけだ。いつもギターやピアノを弾いたり、生活のすべてに役立ってくれている両腕なのに、言われなき攻撃を受けて、ボロボロだ。自分の肉体は大切にしなくちゃな。
そりゃそうと、やっとこさ、新しいバンドメンバーに会う機会ができた。なかなか個性的な連中だ。ま、若い子たちだから、それなりに気を遣わせてしまったところも多々あるだろうが、でも予想外にけっこう気が合いそうな印象だった。いろいろあるだろうが、ちょっとこの先、楽しみになってきたぞ。やっぱし久々にバンドが動きそうになるというのは、自分が予想していた以上にうれしい。けっきょく俺は、歌うことが好きなのだね。
まかりなりにもこれからチームとして共同作業(この場合音楽)をしていこう、という人たちと、こうして初対面にも関わらず話が弾む、というのはなかなか稀なことだと思うので、とてもよかったと思った。自分にもうれしいこととか、わくわくするようなことがあるんだ、ということを、久しぶりに思い出すことができた。ありがたい。
でも、こういう風に、いきなりけっこう話が弾み、気が合って、盛り上がれることもあれば、全く反対のケースもある。そして俺の場合は、その差がひどく両極端なのだ。中途半端ができないのだ、ほどほどが。だからとっても困る場合がある、というか、けっこう多い。そしてその場合、尋常でない苦痛を味わってしまうのだ。我ながら、なんと厄介な性分だろうと思うのだけどね・・・「考えすぎ」といわれても、どうしようもないのだ。持ち前の性格なんだから。
何かを共同でやっていこう、というチームに対し、コミュニケーションがとれなかったり、やりづらい、と感じ、ましてや一緒にいるのが苦痛だったりするのは本当にいけない。困る。でも、今の俺は、そこを無理すると死んでしまいそうになるので、今回ばかりは無理しないで逃げることにする。あ、これはバンドの話ではないけれど。
無遠慮な人間もよくないが、とはいえ、遠慮しすぎる自分みたいなタイプも厄介だなぁ。ときどき、どんな場所でもへっちゃらで自分を出してズカズカ踏み込んでゆける人が、ひどくうらやましい。でもそういう人にじっさい接すると、けっこうむかついたりする。まったく我ながら、社会不適応な性格だ。少しずつだが、直してゆけたらいいなぁ・・・
友は良いな。
陰鬱だった日々に、少しずつ光が。LAでお世話になったけんさんと、久々の再会。なんだか前回アメリカで最後に会ったときと同じような、情けない状態の自分で申し訳ないと思いつつも、会えて本当によかった。おれはいつもみんなに心配ばかりかけている。でもみんなに大切にしてもらえてうれしい。
まったく話の合わないひともあれば、心から打ち解けるひともいる。それは僕が悪いわけでも、そのひとが悪いわけでも、ない。本当は、もしかしたら、どこかで分かり合えるのかもしれない。でも、不器用な僕には難しい。無理をすると、心が死んでしまうのだ。弱い人間だ。人に迷惑はかけたくないけど、無理はいけない。苦しいのは苦手なんだ。だからなるだけ、好きなことだけしていたい。
大人になるのは、無理をすることだろうか?そうじゃないって、言ってくれ。
寝不足のなか、一日じゅうで、ちょっと疲れたけど、やっぱり、気を遣わない仲間といるときが、いちばん素敵な時間だ。合わない人間と無理にいることは、僕にはできない。ごめんなさい。
音楽や、世界や、人間のことを語らうときが、いちばん素敵な時間だ。楽しく過ごせることが、いちばん好きだ。
楽しいばかりが人生じゃないこと、それぐらい知っている。だけど、苦しいのは、ごめんだ。
礼拝に行こう。
ネットで気を付けるほうがいいこと
個人宛に書くが、ある意味で誰にでも適応されうる話をひとつ。(これは個人攻撃ではありません。)
もう二度とこのサイトに来ないかもしれないが、少し前にコメントをくれてた自称クリスチャン「のあ」さんへ:
我々は、こういうネット日記とかで、偶然、悩み苦しんでいるような人を見かけることがあります。僕自身も、まかりなりにもクリスチャンとして、また、それ以前に、ひとりの人間として、悩みある人の助けになりたいと思うことは多々あります。
でも、中途半端なやりとりは正直、逆効果だと思うのです。善意そのものはありがたいし、「悪い」行動ではないのだが。
誰かの生命に関わる問題に、たとえネット上であれ、その人の心の問題に目を留め、「何とかしてあげたい」、という気持ち、それ自体は非常に尊いものだ。だが、「本気で生涯付き合う」つもりでもなければ、やはり「中途半端」なのだ。「生涯」、は極端にしても、ネットは、自分の都合の良いところで逃げることができるのだ。たとえ中途半端に首を突っ込んでも、自分がいやになった(自分に都合のよい)時点で、いつでもそこから離れることができる、きわめて「無責任」な場所なのだ。
こっちが「なんでもいいから話をきいてくれ」と言って、それに付き合ってもらうぶんにはいいと思う。でも、それ以上にどうこう言うのは・・・なんていうんだろ、難しいな。バランスとか、きわめて微妙な問題なんだが。でも正直、今回のこの方に対しての僕の印象は、「引っかきまわすだけ引っかきまわして、突然消えていった」という思いだけだ。申し訳ないけど・・・
良かれと思ってしてくれていることは重々承知なのだが、人間、難しいもので、人からアドバイスを受けたり与えたりするのは、「信頼関係」が前提に必要だと思う。僕は正直、ネット上でそういう基本的な「信頼関係」なんて、築き得ないものだと思っている。だからせいぜい、一方的に日記を読み書きしたり、ちょっと「私はこう思いましたよ」程度のコメントを書くぐらいのスタンスがベストであって、それ以上に突っ込んだやりとりは、控えたほうがいいんじゃないかな、って思うのだ。
ブログやチャットでは、文字で気持ちを書くから、ある面では会って直接話すよりも「しっかり考えた」意思疎通ができると思う。その場の雰囲気だけじゃなく、考えながら文章が書けるから。それは素敵なことだ。でも、人間、文字だけじゃない「言語外コミュニケーション」の割合も相当高いし、文字だけでのやりとりをしている相手ってのは、あくまで完全には信頼しきってはいけないと思うのですよ。だから、世間でもよく言われていることだが、いろんな意味でネットでのやりとりは、危険性があると思う。ほんとに危険なのだ。
これまた自戒を込めて。
多少、気がかわってきたな。
縛られるのは大嫌いなんだ。俺に鎖をつけるな。おかげで胃に穴があいた。無法と呼ばれようが、自由が欲しいんだ。俺を縛るな。
というわけで、気が狂ったいきおいで、泥酔・暴走。ほんとに死ぬことは怖くてどうしてもできません。でも腕の血管がみえた。痛い。他人を傷つけるのはあまり好きじゃないので、積もり積もった怒りや恨みは、さいごには自分にぶつけるしかないのだ。周りだけが陰鬱な気分になる、陰惨かつ効果の無い復讐。
さすがにこの狂気にはウンザリしてきて、基地外病院へ行きたいのだが、予約がいるらしいので面倒だ。ということでけっきょく教会へ。敬愛する米田ひろしさんの歌に、感涙。「何をどうしようと私の心は動かない」という決意めいた妄想も、あえなく打ち砕かれた。歌い手が、どのような意図で歌っているのかはわからないが、ひろしさんもおっしゃっていたように、「自分のしたことが、思わぬところで用いられることってあるんですよ」である。俺の歌にも、何かを感じてくれた人たちが、かつて、あったのだ。俺は歌いたい。・・・と思っていたら、心に「子よ、なぜ歌わない」という声がきこえたのだが、自分の妄想か自分自身への期待かはわからん。
家にばかりいて人に会わないとサビシイので、ここしばらく、夜になるとチャットばかりしていた。この国には自分を含め、生き苦しい社会に悩める人もけっこう多いらしく、「メルヘン板」はお気に入りだ。多くの人が、自分に自信がなかったり、ま、それは結局、人間関係でうまくやれない、ということらしい。チャットで話せばそういう連中は概して優しく、否、優しすぎるゆえに、たいがい自爆してしまうのだ。考えなくてよいことまで、考えてしまうのだ。・・・不器用すぎて人を傷つけてしまうような椰子らも多いが、そんな連中が、たまらなくいとおしかったりする。そして、俺はどうしても、彼らに勇気と希望を与えられるような歌を、歌いたい、そう強く感じたのでありますた。
そんなわけで、毎度「出てゆけ」または「死ね」と連呼されるのも苦痛なので、なるべく早いとここの場所から引っ越すことと、その資金のことと、歌う歌と場所のことを考える必要がでてきた。やっと暇がつぶれそうだな。
今日も怒る
今日は首が痛い。朝から起きられない。怒りが体じゅうにたまっているのかしら。多分僕の心に積もり積もった恨みつらみ怒り憤り悲しみ、といったネガティブ達を一掃したら、きっとこの体は物理的にも軽くなり、あらゆる肉体の痛みも消え、病の種などなくなってしまうんだろうな。
というわけで、毎日「不当に扱われている」と妄想し怒り狂う、まさに狂人ひでです。僕の存在には価値はなく、むしろ居るのが害悪です。なぜ死ぬべきは生き、生きるべきが死なないのか、不当で不正で理不尽な世の中です。
聖書は読むが、自分と結びつかない。書いてあることは正しいと思うのだが、とにかく自分と結びつかない。神はいるが、俺には無関心。しょせん正しい奴にしか、良いことはないのだ。そうすると行動じゃないか。行いによらないのではないのかね?妙だ。神のことを考えると本当に怒りしか出てこない。仕事をしているときのほうがはるかに冷静でいられるし楽しくすらある。なんてこと。信頼できるようなことがないのに、どう信頼しろというのか。受け入れられぬものをどう受け入れるのか。できないことは、できないのです。
なぜ当時の人たちは癒されたりいろんな奇跡を体験しているのに、俺は駄目なのかしら?祈りなぞただの形であって、実際には人間がどうにかこうにか動くしかないと思うので、最終的には人間の行動にかかっている気がしてならぬ。祈りに力がある、というのは、それに感化された人間が行動するからじゃないのかね。こんな俺でも時には真剣に祈り求めることがあったが、正しいと思うことを祈ったところで通じないので、本当にがっかりさせられる。早く死にたいな。
まぁ、そういうことを考えているとほんとに不快になってきたが、最近ぼちぼちバンド探し活動をば。もう情熱も消えたかと思ったが、やはりわくわくしてくるのをみると、ほんとはいちばんこれが好きなんだろな。
ナゼだろうかね?自己顕示欲なのかね?「俺はこんなにできる」って思いたいのか?否、否。だが、やはりステージにいるとき、自己の生命の燃焼を見るのだ。それ以外はどうでもいいな。まぁWEBでの仕事は楽しいが、脳内の遊びだ。自己満足だものな。やはり、無駄に体内にエナジーがたまっているんだろうな。
それにしても、憎いことや怒りが体と心じゅうにたまっている。苦しいなぁ。まいったな。
クリスチャンの人でいやなこと
クリスチャンの人で「いやだなぁ」と思うことがたまにあるので書きますよ。
・神様は素晴らしい、と感じてうれしいのはわかるけど、そう感じられないクリスチャンだっているので、そう感じられない状態だってあるので、そういうとき「素晴らしい」と連呼されると引きます。あと精神的にまいっていると、余計いやな気分になります。まぁそれは僕がわるいのかね?
・本気でその人に関わっていく気がないのに、中途半端に「信仰」だと思って関わって去ってゆくこと。それこそ最大の偽善だ。Jesusのいう「隣人」とはそういうものだったろうか?否、否。「自分が人の役に立っている」と勝手に思い込んでいること、無責任です。「役に立っている自分がうれしい」ために、人のことを引っかきまわすな。自戒も込めて。
・クリスチャンとばかり付き合うことをすすめるのもいやです。世間にはそうでない人のほうが多いのだ。多いから正しいわけではないことはよくわかるが、困る。
・神を賛美できないときに神を賛美させるな。できないものはできない。いったい俺だけが悪いのかね。自分の正 しくなさは百も二百も承知です。死にたい気分の時に、神よあなたは素晴らしいと連呼できますか。心が傷だらけのときに、生まれてこなきゃよかったときに、自分を造ってくれてありがとうといえますか。わかっていながらできないことが、たくさんあるのです。追い詰められるのです。アアいやだ。
虚しいね
すべては虚しい。退屈すぎる。
ささいなことを過剰に捉えすぎるこの性質もいい加減にうんざりするが、まぁもともとだから仕方ないな。これがうまく活かせれば少しはマシになるんだがな。
俺には生きる場所がない。死に場所もない。なんて虚しいのかね。
音楽はできない。作詞もだめだ。次は何をむりやり定めるね?
いらないことを知りすぎたな。
この世界は無駄だらけだ。
・・・そんな一日、ご苦労さん。
いいのかしらね。
よくもまぁ、いい歳をして、こんな自堕落な生活をゆるされているものかしら。とはたまに思いますが、やっぱり「余裕」が、ありすぎるんだろうな。正直それは、俺が悪いよ。いろんな言い訳はあるけど、ほんとはよくないんだと、思っている。でもまぁ、仕方ないさ。来月からはまた真面目にやる、仕事も決まりそうだしな。こういう時期に焦るのは無駄だと思うようになった。
というわけで、最近はいかにして暇をつぶすかが課題だ。聖書を読むのも、真剣にしすぎると疲れてむしろイヤになっちゃうから、失礼かもしれんけど、「読まないよりマシだろう」というスタンスで、だらだら読んでいる。もちろん「しかるべき心の態度」とかが存在するのはわかるが、今の僕ではできない。「できない」ことを「無理やり」にやろうとするのは苦痛になるからよす。「できない」なりの「精一杯」でいく。
昼間普通に起きていれば、いやというほど時間があるものだ。だからって「有効」に「活用」する気もない。「勉強」とか「楽器」とかすりゃいいんだが、まぁ、それも気が向いたときだけだ。今の俺には集中することはできないよ。仕方ない。
というわけで、夜はちょくちょくチャットする悪癖もついた。なぜか不思議とみんなに面白がられる。まぁしょせんあんな世界だから、言いたい放題いってりゃいいのだけど、でもやっぱり人に受け入れられたりほめられたりするのは、悪い気がしないからいけないね。たまに気が合いそうな人もいたりするからなお困る。ようするに寂しいのだ。
はやいとこ、信仰のしっかりした、健全で明るい奥さんが与えられぬものかと思ったりはするものの、自分がそのま反対をいってるのに、そんな贅沢な話もありますまい、ということで幕。
ps
「ゆるされているからゆるさなきゃ」は理想であって、現実には非常に難しいことだ。だから「でもゆるせないんです」と苦しむのも人間の姿だと思う。これは「ゆるせない」ことを正当化したいわけじゃないんですけど。
神の存在について
こんにちわ。現在の僕の神様についての感じを書きます。今日はきまじめじゃなく、いいかげんに書きます。
神が「存在しないとおかしい」と思うとき:
①目で見える全てについて少し考察したとき。森羅万象をちょっと見たら、その仕組みを見れば明白。
・「重力」また「引力」があり、ものは基本的に上のほうに落ちていくことはない。必ず下に落ちる。
・見えないけど「空気」とか「電気」があるらしい。実際ある。風とか雨とか太陽とか光もなんかすごい。
・「音」も見えないけど聞こえるな。
・「自分」をみるといちばんわかりやすい。なんか思ったとおりに指が動いたり、勝手に目標に向かって目が向いたりしている。手の表面には細かい毛が生えているし、なんか血管も通っている。血管の中には血が流れているらしく、心臓なる、胸の真ん中らへんが、頼みもしないのにいつもせわしなく動いているようだ。気づくと鼻から空気が出入りしているし、動いたりするとそれが速くなったりする。感情が変わっても、変化するようだ。それに音声に発しない場合でも、頭のなかで音声で言葉で考えたりする。観察してみると気持ち悪いんだが、こんなものが自然発生だったら恐ろしい。造った者がいるのだ。
②神がないなら希望はない。ぜんぶ無意味になるので死んだほうがまし。いつか死ぬのに生まれてくるのだろう?気が狂う。それぐらいなら、まだ「お前を造りましたよ」という見えない存在があったほうがありがたいではないか。嘘でもいいから信じたくなる。ただし唯一で絶対で完璧な存在じゃないとこまる。複数居たり、あてにならないようなやつはいらない。嘘もいらない。
神が「助けてくれたんじゃないかしら。違うかも知れんがそう思っていいだろ」というとき:
①なんか家族は何度か死んでてもおかしくない状況だが助かっている。とくに母親は癌手術とかその後の経過で、確率としては死亡のほうが高いんじゃないだろうか。でも妙に元気だ。姉もなんか死ぬような手術がある。やはり人が死ぬんじゃないかというときにはツイ祈ってしまうし、それで助かると、「助けてくれてありがとう」と思わざるをえない。
②自分が極限のときに、目に見えて不思議なことはぼちぼち起きる。なんかごほうびみたいな類の。とくに記憶に新しいのは、留学ホームシック中に、飛行機の予約がいっぱいでも取れたり、絶望しているときに限って飛行機で友達ができたり親切にされる。「話しかけたいが引っ込み思案なのでどうするかね」と思っていると、矢先にだいたい話しかけてもらえる。とても親切な人ばかりに。
③自分があまり魅力的な人間かどうか疑わしいが、その割にはずいぶんたくさんの人に大切にしてもらっている。そういうのは魅力とか能力に関係ないのかもしれんが、まぁこんな困った子をみんなが大事にしてくれるのは、何かしら、助けてもらっているのかしら?と思う。一人ではやっていけないので、沢山味方をつけてくれるのかね?いろんな人がいるけど、不思議と僕のことは大事に思っていてくれるような気がするし、僕もみんなが大事だな。
神が「いないんじゃないかしら」と思うとき:
①まぁ基本的には感情的にひどい目にあったとき。極めて自分に都合のよい話「なんだ、居るならこうしてくれないと困るじゃないか」と勝手に思う。あと妙な期待をしたりするとき。極端な例「あの子が好きなのであの子も僕を好くといいのですが」・・・相手にも意思がある。全部のことが僕の思い通りになったら恐ろしい。
②直接に会話したり声が聞こえたり目に姿が見えたことは一度もない。なんかそんなことがある人もいるとは聞くが、よくわからん。逆にあったらあったで嬉しいだろうけど、ビクーリするか、信じられないか、場合によっては悪魔に騙されてんじゃないかしら?と思いそうだ。だから下手に「物理的に神とコミュニケーションしたいができないじゃないか」と思うと、「やっぱりいないかねぇ」と思ってしまう。どうもそれは求めすぎないほうがよさそうだ。そういうことがある場合もあるらしいが。
こんな感じです。「神様はすばらしいのよ!」を期待してた人は他をあたるように。全員が完璧な信仰を持ちえたら、既に世界はよりよくなっているだろう。そうじゃないけど、それでも救いがある、というほうが、僕の場合にはまさに「救いのある」話だ。完全に信じきることは理想だが、そうでなくてもよいのだよ、というほうが、優しい言葉だと思う。信仰は強要されてはいかんよ。人が他人に「こうしろ」というものじゃないのだ。