Searching for Love and True Happiness -5ページ目

不思議。

やはり経験者とのシェアがいちばん効果的ですね。今日、同じような経験(親への思いとか)を持つ、信仰の先輩にお会いし、いろいろ話すことで、ほんとうに心がラクになりました。


クリスチャンのいろんな方が親身になってくださり、いろんなアドバイスをくださることは、本心では本当に感謝しています。これだけ僕なんかに親身になってくださることは、本当に素晴らしいことだと思うし、ありがたい。ただ、感情的には、特にこういう状態の時に、神に信頼することや神の素晴らしさを強調されるほど、どうしても「あなたにはわからない(こんな経験をしたことがない)からそんなことが言えるのだろう」とか、反発めいたものを覚えてしまうものです。まったく無関心に放置されるよりはるかにありがたいので、うれしいのですが、反面ある意味プレッシャーになったり、感情面でいえば、悪感情を増長させてしまう可能性すらあるのかもしれません。こんな言い方で申し訳ありません。あくまで考察、を述べているだけです。冷静になった今、本当に感謝しています。冷静になれたからこそ。


僕は感情的になると、どんどん開き直って、「これが正直な気持ちなんだから」とか適当に言い訳しつつ、非常に悪い言葉をならべて恐ろしいことをまくし立ててしまうのですが、ほんとうはたいへん無責任なことだといえます。自分でいちばん気をつけたいのは、使う言葉が悪いことです。一旦覚えてしまって自分の内面に蓄積された言葉ですから、ツイ心の中でもそういう言葉を実際に使ってしまうことは日常化しています。でも正直にいえばこれは、たいへん危険なことだと認識しています。言葉は感情を非常に増長させる。まさに悪魔の思うつぼ、かもしれませんね。


なので、我ながら気持ち悪いくらいの変わりようですが、これが「比較的正常にもどった場合の穏やかな私」が書く文章です。誰でもそれなりの多面性はありますが、僕の場合はそのレンジが相当極端なようですね。だから他人に誤解されやすい、ということも多く、自分でも、他人に出せる自分の部分のコントロールにすごく迷うことがあります。いつでも自然体でいられる人は少しうらやましい。無遠慮なのとは違うけど。


経験上とても悲しいのは、僕の「一見よさそうな、あるいはとくに女性にとって都合のよい」、穏やかだとか、優しそうとか、そういう一面だけを見て、それが全てだと思い込んで、好意をもってくれるのはいいが、「そうでない面」を見つけたときに、「あなたには失望させられた」というような自分勝手な反応をされることです。僕は通常は穏やかに人と接することができ、基本的には平和を愛する人間ですが、それと同時に「獣」である自分、という側面もあるのです。世間にはいろんな人がいるのでよく分かりませんが、誰にでもそれなりにいろんな面があるのです。「あなたにとって都合の良い面」だけではないのです。だから自分の都合や理想像だけで僕を誤認した挙句、いやになって無関心になって急に棄てることだけはやめてほしい。女性とつきあったとき、そういうことがすごく多かったので、心に傷があります。確かに僕は理解しにくい人間ではあるけど、僕だけに非があるとは思いがたい。期待だけで他人を好くのは、双方に傷を生みます。


・・・でもそういえば、いままで最初っから気負わずに、「自分の(都合の)いい面」も「攻撃的な獣の面」も出したままでも、一緒にいて好きでいてくれた子は、唯一あの子だけだったかもしれないな。とても好ましい関係ではなかったけど、ある意味自然でいられて、リラックスできて、いちばん素敵な関係だったかもしれないな、と、今更ながら数年前のことを思い出しました。大変な環境にいた彼女は、今どうしているのかしら。幸せになってほしい。

ちなみに、それは「あなた」のことではありませんよ、あなたはたぶんここを見ていないとは思うけど。最近まで振り回され続けたひとのことではなく、もう4,5年前に少しだけ一緒に居てくれた、ぼくより若く純粋だったひとのこと。


最近まで、ずいぶん引きずった「呪縛」めいた、「あなた」へのこだわりからも、なんとか一歩足を抜け出せたような気がする。まだつらいけど、何かが変わった感じだ。癒されろ。理性の理解と感情のうずきは違うからなぁ。時間がかかるよ。最近のことは。


・・・だいぶ脱線したけど、ともかく不思議と気持ちがおちついてきた。ありがたい。

まだまだ時間はかかるし、これからもこんなんを繰り返すだろうけど、これが自分なので仕方ないや。これは諦めでも悪い意味での開き直りでもなく、「ちょっと受け入れることができた」のだと思うのです。本当につらかった。まぁ明日もそう変わらないようなことを繰り返すだろうけど、まぁ、いいや。それに、引っ越すことも考えるとしよう。


そんなわけで、数少ない読者の皆様、どうもありがとうございました。きたない言葉の数々は、削除するかどうか考えておきます。高慢な文章も、恥ずかしいから消すべきかもしれない。きちんと推敲して、言いたいことだけに改めて書き直すのも、いいかもしれないな。

なぜ僕は「なぜ」ばかりを求めるのか。答えなど無い場合のほうが多いのに

僕に関していえば、この世に、努力したり一生懸命になるような価値のあることは存在しない。かつては感情的で単純に生きていたので、無理やりそういうものがあると信じこんで、自分をけずってそれに注ぎこんできたが、終わってみれば、結局それらは無意味でしかなかった。


いろんななりゆきで、文字通り身を削る思いであれやこれやとしてきたが、ものごとは、「これをしよう」と思いながら準備をしているときが、案外いちばん気持ちが充実しているんじゃあないかしら?と思う。実際にそこまでたどりついてしまうと、3日くらいでたいしたことなくなってしまうのだ。こういう感覚を持っていることが異常なのかしら。そう、飽きてしまうのだ。なぜだね?


こんな人間だが、ときおり友人らと話していると、「そのような自由な生き方はうらやましい」などと、ありがたいような恐ろしいような言葉をかけられることがある。自由ではない。退屈だという強迫観念にかられて、おびえながら逃げ回っているだけなのであります。本当の自由を僕は知らない。「べき」ことをきちんと持っている、みんなのほうがよほどうらやましい。飽きないで、発狂もしないで同じようなことを続けられる根気のほうが、はるかにうらやましい。


かといって、強制されて「べき」を押し付けられたら、僕は殺すまで抵抗するだろう。なんと不自由なのかしら。これだけ時間がありあまっているのに。やりたいことがないなんて。これでは人間とは呼べまいね。アア退屈だ。といって何かを探す気もおきない。面倒なのです。だから寝てばかりの毎日だよぅ。ヽ(´ー`)ノ

私と神を断絶するもの

なんか一時期は妙に「目覚め」たような気がして、自分なりに一生懸命、神の素晴らしさ、なるものを人様にお伝えしようとしていた私ですが・・・それはどうやら思い上がりの勘違いだったようです。


私は正しい人間ではありません、むしろ世界の害悪だと思います。生まれてきたことを呪って生きていますし、できるだけ早く無に帰すべき存在だと思っています。なかなかそうはいかないようですが。

そのような、害悪者ではございますが、不思議とやはり、このサイトのテーマのせいでしょうか、もったいないことに、大切なお時間を割いて、胸の悪くなるような言いたい放題の駄文に感想を下さる方々がおられます。そのような方々の影響もあってか、いいかげん信仰など棄てたい私が、未だに苦悩する羽目に陥っております。


習慣なのか、何なのか、俗に「敬虔な」状態でない、むしろ無信仰の方よりも邪悪なような状態の私ではございますが、困ったことに、神の存在が「ない」とは、どうしても思えない。だからかように苦しいのですね。明白ですが、神など「ない」のが一番ラクなのです。それならば私は憤る必要も対象もないのだから。もともと世界は正しくないし、人間に生きる意義などない、悪も善もどうでもいい、ということになり、多くの苦悩から解放され、ただやりたい放題にしていればよいのだから。


ところが、いくら不満があろうが、敵対しようが、好き勝手しようが、もはや「ある」と信じてしまって10年、どうしても「ない」とは思えない頭の構造になってしまっているのです。もう少し馬鹿ならいいのに。自分のしょうもない知識枠で考えた限りでは、どうしても神の存在が「ある」のでないと、おかしいのです、感じられないのに。まじでうざい。


それにしても、「ある」なら、こんな文章を書くのを許可しなきゃいいのになぁ。面倒な。


で、ともかく「ある」と思ってしまい、どうしても「ない」と思えないので、いつも苦闘して憤る羽目になる。ホント迷惑だ。「ある」が前提だから、「いるんだから価値を与えてくれ」とか「いるなら退屈から助けてくれ」とか思うことになる。いなきゃそんな無駄なことにエネルギーを費やさないですむのになぁ。そのうち急に現れて、めっちゃくちゃ怒り狂われて、死ぬより苦しい目にあわされるのかしら、俺は。(((((;゜Д゜)))))ガクガクブル...


ということで、先日ご指摘があった「どうしても主を受け入れられないような深い心の傷があるのでは?」という問題を自分なりに考察してみた結果です。が、どうもここんところ、あまり痛むような傷という感じの思いがついぞ見つかりません。そこで思いあたるのはやはり、「退屈だ」ということだけですね。「生命の充実をまるで感じない」から、信頼したくないのです。鶏か卵が先だのというやつになりますが、「信頼しなきゃうまくまわらないっぽい」し「でもうまくいってないから信頼なんかできるわけがない」という話ですね。やはり結論としては「愛しているというならもっと大事にしろ嘘吐き」という怒りへと変わります。断絶させているのは、怒りとか不信感・不満、ですね。それを私がコントロールすることはできないし、「私にはコントロールできません、どうか助けてください」なんて口が裂けても言いたくないな。頭にきてるんだから。


・・・というひどい「信仰」記事ですた。感情的に反応する奴は読まないほうがいい。

そういや最近は他人の言動に、あまり感情をもてなくなったなぁ俺は。

ヽ(´ー`)ノ

退屈は死ね

くだらないことをくどくど書いているがようするに生きているのがつまらない。つまらないことほどつまらないものはないね。なぜ早く死なないのかね。そればかりが頭にくる。不愉快きわまる。目的のない存在は無駄なのだ。俺に目的がない以上、死ねばいい。でもなかなか自分では死ねないからこれは困る。


新聞も読まないのでよく知らないけど、最近取りざたされている?らしいネット自殺する連中とかもやっぱり退屈だから死ぬんじゃないのか?うまくやれる連中はうらやましい。退屈しのぎがほしい。俺は他に悩みもないので、退屈じゃなければ多分死ぬまでの必要性も感じない。無駄に時間とか生命があるのがいやなのだ。「無駄でない」と申す者があれば理由をくれるように。


退屈で仕方ないので、最近はよく暇つぶしにYチャットのメンヘル板に行くのだが、メンヘルの連中は概して自分に自信を持っていないらしく、残念に思う。そもそも自信とはなんだ。自信がないというひとは多分自分自身のことを過小評価しすぎか、自身を誤解しているんだろう。周りの環境が悪い。そういう日本社会は死ね。人間が人間らしくのびのびと生きられるような理想郷が、この世に存在しうるわけはないのだけど、でも人間が病気になるような社会は糞だ。はやく滅びればいいのに。ゼロか100%でしか考えたくないので、100%の理想郷はできえないのを知っているので、滅びればいいという結論に達するが、俺ごときに決定権もあるわけがないのでただの愚痴。


ともかく、普通にしてりゃ問題ないような連中がこぞって心のおクスリのお世話にならなきゃならないような社会は大嫌いだ。多分、金も平和も有り余っていて退屈すぎるからおかしくなるのだ。こういうと誤解する奴が出るけどね。平和はいいが、金が間違った方向にありすぎるのはおかしくなる原因だね。パチンコ屋にめちゃくちゃ人がいるけど飢餓で死んでいる人もめちゃくちゃいるんだろ?おかしいよそれは。俺は一日一食くらいで多分必要な栄養がとれるのに、なぜか習慣的に2~3食くって、喰いすぎてもたれてるのに、栄養が足りない人もいるんだろ?だからってって、俺は自分の生活習慣から抜け出せないのだよ。日本という様式の奴隷なのだ、日本人は。


・・・今日の落書きは本当に気違いだな。どうしてこんなに怒っているのかね俺は。退屈だからだ。

たった一つでも、全力を注げるものがあれば、きっともう少し落ち着いていられるのにな。残念だ。とっても残念だ。早く死ね、退屈か俺の生命どちらか。

無法な断食は死の香り・・・されど死の際にて生命の輝きに見ゆる

いつも口ばかりで大げさなひでです。文字通り素直に読んで真に受けぬよう。


サテ今回も、生きるのが退屈だし、仕事もなくて暇だしで、じさつは怖いのであえて消極的に、絶食を試みてみました。なんだか肉の余分なものを絶つことで、神様にも対面できるかも、という話も時折見聞きするので。ときおりためします。


普通の人はむやみにするもんじゃないと思います。僕より必要栄養量が多い人とかは、もっと苦しそうなので。そいで、苦しみの種類ですが、(;´ρ`)ハラヘターという類のものとは異質だと思います。どっちかというと、「自分の肉体の生命力の悪あがき」により苦しめられます。僕はそういう感じ。はらがへったというよりは、生きようとする肉体の反応に苦しめられることとなります。


実際絶ったのはそんなに長い時間でもなかったんだが、昨日の昼ごろカプウドーンを食べて以来、まぁそれ以前はおとといの夜のお好み焼きだから、すでに栄養不足だったんだろうけど・・・そいで今朝目覚めたらとりあえず動悸がひどい。栄養が減ると、どうなるかというと、なんか全身が「絞りきったスポンジ」のようになるのですね。血管やら細胞のひとりひとりが「何者であろうと吸収してくれるわ!」という意気込みに萌えているような感じというか。その勢いや、普段の自分からは想像つかないようなすさまじいものとなります。


通常、僕はたぶん、体力・精神力・頭脳といった分野で、自分の持てる能力の50%くらいしか使ってないような気がするのですが(全部使うのが面倒なのとその必要性を感じないから)、断食すればそのへんの真実がよぅく見えてきます。ふだんは「力がでねぇなー(出す必要ねぇし)」と思ってますが、それなりに死に近い状態(おおげさ)にくると、肉体は思いもよらぬような活動力を見せてくれます。普段、自分は殺しても死なないだろうと思っているのは当たりです。お許しがなければ、そうそう死なない仕組みになっているものです。死ぬ必然があるなら、殺さなくても死ぬことだろうし。


・・・栄養が尽きてくると、とりあえず起き上がることができんし、下手に動くと貧血おきるし、立ち上がるのも困難です。そいでものっそい吐き気がするし。で、吐き気とともに階下に降りたら下からも洪水なので、便座に座った状態で、今度は上からも攻撃がきて、下着もズボソも汚れて(((((;゜Д゜)))))ガクガクブル...ですた。


正直いって、ぶたれたり言葉で虐げられるより、内面からくる吐き気ほどイヤなものはない。とっても疲れるので。・・・そういう感じになれますから、断食するとさすがに、いろんな世間様への恨みつらみとか、自分のクダラン悩みとか、人間関係の汚らしさとか、そういったしょうもないことはさておき、まず自分の生命と真正面から向かい合うことができます。また、少しではありますが、普段、知ってても見て見ぬふりの、「飢えた世界」の人たちの感覚を、多分足元にも及ばないだろうけど、擬似的に体験できます。そして苦しいときの神頼みもします。


ということで、これで一人暮らしだったなら、より死に近づいたことでしょうが、最終的には両親の良心により、栄養素をいただき、あっという間に復帰しました。こういう時の吸収はホント速いみたいよ。そしてまた嘘といいかげんの生活に戻るのです。真剣になるのは一時のみ。それが多くの平均的人間像でありましょう。


はっきりいって、僕は(もしかすると日本の僕らは皆)、恵まれすぎてるんじゃないだろうか、と思う。適当に働いて金もらって、っていうか身の程わきまえて無理言わなきゃ、だいたい誰でも何とか食っていけるだけの仕事があって、喰うものがあって、水があって。だからしょうもないことで悩んだふりしとる暇ができるのだ。本当は農業だけやって自分らの食うぶんだけ働くっていう世界が理想な単純なおれはそう思う。思うけど実際にどうしていいのかはわからんもんで、行動には移れない。そいでおざなり。だからいらつくのさ神様。


という今回も、以前みたいな神経質な推敲も、脳内構成も無し、責任感も無しの駄文です。だって読む人がどう感じるかはその人の責任だから。っていうか読んでくれている人がいたらありがたい。数名様感謝でございます。断食だけはしないようにね。


神様は目に見えないし声も聞こえないし、なかなか僕にはわかりやすい形で通信をしてくれないけれど、まぁそれでも、自分の肉の物理的なシステムをちょっと垣間見ただけでも、その設計者の偉大さがわかるってものですね。次は何でわかるのだろ。少し楽しみだ。いろいろ好奇心を満たしてほしいです。それでは。

退屈と感情

イヤァ、せっかく平らになってくれた感情がもどってきたら、面倒だなぁ。なんて面倒だろう。面倒なことは大嫌いなんだ。疲れているんだ、疲れがとれないんだ。いやだなぁ。


しっかし、せっかく仕事が終わって、休みに入ったっつっても、なんもやることなさすぎるよ。はよ死ねばいいのに。なんて退屈なんだ。どうにか権威ある存在が俺に「戦地で果てろ」とか命じてくれりゃあいいのにな。世の中いちいち何であろうとてめぇで動かにゃならんのが面倒だ。


なんでもいいから即答えが出るものがほしい。時間をかけてじっくり努力するなんてまっぴらだ。後先考えず、その場のことだけ反応していたい。・・・だからアイツがこれほどうらやましいんだろうな。だけどそれじゃあ幸せにはなれないぜ?っていう。でも俺みたいにじっくり考えすぎて、何もできないでいるのでも、幸せにはなれん。すると幸せとはどこだね。・・・それは一緒に探しゃいいだろう?どこにも、ここにも、あそこにもあるのさ。


それにしてもこの生命・・・なぜ頼みもしないのに心臓が打ち続けるのかしら。血管は浮き出ているのに、切ってみると案外深いところにあるのかしら?なんで体表にはびっしり毛が生えているのかしら。人間イッピキちょこっと見てみたって、その設計者の偉大さは一目瞭然だ。でも設計者の意図が見えないから困るよ。


ア゙ー・・・こんなこと言いながらも、いざ呼吸が止まりそうになりゃ俺の体は「助けて」って思うんだろうな。食事しなきゃあ腹が減って求めるんだろうな。かわいそうな体。管理者がわるいせいで。


こんな醜い感情でも、あったほうがいいんだろうか。いや、いらないよこんなのは。

こんな、どっかの単純なヤツが見たら「苦しいのはあなただけじゃないのに。がんばりもしないで何いってんの?」とか勘違い文かかれそうなことばっかり書いてたら、やっぱりそういうお叱りをいただけるのかしら?


がんばる必要なんてないんだよ。一生懸命するのは、その必要を感じるからそうするんだ。必要ないことは、できないんだ。だから、今おれは、「必要」がほしい。退屈はいらないんだ。

がっかりさせられること・人間考察編

人間というのは状況によっていろんな反応や態度が出ると思う。だから、ある人の特定の一面だけをみて「この人はこういうひとだ」と思い込むことは、誰にでもよくあることだが、それは実にしょうもないことだと感じる。

僕も他人のことを第一印象で「アアあんまし好きなタイプじゃねぇなぁ」とか「つきあうには面倒な人間ぽいな」とか「興味ねぇタイプだなぁ」とか偏見に満ちた反応をするが、そんなもんは表面的なことで、本気でそう思っているわけではない。これは以前に比べて自分でもずいぶん変わってきたんじゃないかな、とも思う。


所詮人間は自分の経験やら知識をもとに物事を判断するだろうから、今まで見聞きしてきたことや体験してきたことで何かや誰かに対する反応が決まるんじゃないかと思う。僕自身はそうだから、実際このように書いているのだ。なので、僕は他人を判断するときに、自分の多様性を基準に考える。


標準的・平均的な人間、というのをよく知らないが、というかそんなもん無いけど、見聞きしてきた印象でそれと比べると、僕は感情の波やら性格の安定性やらが、極めて極端に動くタイプのようだ。たしかに常にだいたい同じようにユターリと変わらない人のほうが多い感じを受ける。僕のように過剰に変化する人間は他人にとっては、真実を見極めるのが非常に難しいタイプかもしれんとは思う。


妙に優しくて「素敵なひと」と言ってもらえる俺もいりゃ、自分のことだけしか考える気がしなくて「もう世界は終わったらいいのに」と全てに投げやりになる俺もおるってことだよ。ものっそ自分に自信がある分野があっても、死ぬほど自信がない分野もあるってことだよ。美しい面しか持ってない人間なんていねぇだろ?それが普通だよ。それの変化する幅は人それぞれだけど、自分にとって都合いい部分だけみて、「こういう風だからいい」とか「この人こうだわ」とか言うのは人間を理解してないんじゃないか?


めちゃくちゃ悪い人には出会ったことがないけど、ものっそい悪い奴でも一瞬くらいは情があるときだってあるだろうし、どんな素敵に見えそうなやつでも、ぜったい心のどっかに悪があるときがあるだろ?それが人間てもんだろう?他人に妙にいい面だけ期待して、自分のイメージどおりでないのを見つけたときにそれを切り捨てるっていう態度を見たとき、そういう人にはものすごくがっかりさせられる。どうやって生きてきたんだろ?って思わされる。すっごく残念な気持ちになる。ひとごとなんだけど、その人は大きな損失をしているんじゃないかしらと思ってしまう。


がっかりするけど、僕はそういうことを裁きたくてこれを書いているわけじゃあない。寂しいなぁと思うだけだ。逆にいうとまさに僕自身がその人のたまたまそういう反応を見ただけかもしれんし。ものごとにはいろんな可能性があるからな。というわけで、表面上ものすごい穏やかな態度してても、心で悪鬼のような思いを持っているかもしれないし、怒り狂っている様子でも、案外それが単なるパフォーマンスであることだってあるんだぜ。・・・おれはいかにも堂々とものすごい嘘を書いているのかしら(・∀・)ニヤニヤ


ということで、私は他人様が「この人はめちゃくちゃだなぁ」と思っても、そのとおりめちゃくちゃではあるけど、「世界が滅びろ」といいながら、その実、人間というものを心の底から愛しているのだろうと自分では感じる。自分で感じることなので、他人にはそう見えなくても俺の中での事実だよ。だから俺のことを勝手に定義するな、ということだ。がっかりするから。僕が他の誰かのことをいつまでたっても完全には理解できぬのと同様、みなさんも僕のことはわかりえないのだよ。家族だって全部しってんじゃないんだから当たり前だろうに。ある人のことをもっともよく知りうるのは本人と、神だけだ。


僕は感情的にイヤだなぁと思っている相手や、実際に行動の上でも無関心になっていたり連絡してない相手とか、頭にきている相手のことでも、やっぱりそれなりに気にはかけているし、いとおしいと思っているのです。そいつらにこういう「自分内事実」が伝わろうがそうでなかろうが。伝わるわけはないが。だもんで目に見えることだけで俺を判断されるとがっかりだよ、ってことだな。べつに本気で期待してないから本気でがっかりはしないけど、案外浅はかなもんらしいなぁ。その人はその人でしかないし僕も僕でしかないので、僕を僕以外の存在だと思おうとする人はどうもこたえる。でもそういう人けっこういるのかもな。僕も他人のことを自分の独断だけで見ないようにしよ、っていうかそれをしちまうからがっかりすんだろな(笑)


・・・というぞんざいな考察。つれづれなるまま言いたい放題ですた。ヽ(´ー`)ノ

退屈すぎる

俺の退屈を満たすものはないようだな。早く死にゃあいいのに、心臓が止まらない。退屈だ。斬れば血が出るが、退屈だ。あ、少し痛い。


なんて残念だろう。俺はなんだってできるのに、魂が汚いので、できることをしたくないのだ。俺が必死になれば、何かができるだろうに・・・。買いかぶりすぎだろうか?

今まで出会った多くの人たちが、俺には能力があると言ってくれる。仕事でも、音楽でも・・・他人が評価してくれる俺と、実際の俺は同じ俺なのか。


しかし、肝心の俺自身が、その能力を、活用する価値のある出来事に出会っていないのだ。せっかくそれを注ぎこむだけの、初めて愛したいと思った女も、心が狭すぎるし。大人になれよ。今までどんな人間と出会ってきたんだ?ちっぽけなやつめ。時間が必要らしいが、待つのは嫌いなんだ。退屈すぎる。この世はなんて退屈なのだ。なぜ俺は死なないのか。なぜ神は俺を無に帰さない。寛大にもほどがある。退屈だ。正義で善で義であるならば、悪である俺を破壊すべきだ。放置してはいけない。


五体満足、家族にも友人にも恵まれ、皆に愛されて育った。そしてPCの技能も身に付け、英語も下手だが話す。弱い者を励ます。・・・だが、その魂は暗闇にあり、能力すべてを活用する気が皆無なのだ。おれ今から死ぬから、おれの持っているもの全部もってってくれよ、っていう機能がありゃいいんだが、そうもいかねぇからくだらねぇよ。退屈だ。しょうがねぇなぁ。


生きるに値する人間らは生きりゃいいんだよ。生きていても無駄な俺は死にゃいいのに、死なないのがおかしい。なんで剛丈みたいな未来ある人間が死んじまって、俺みたいな糞がいまだに生きてやがんだ?頭にくるぜ。不公平だなぁ。なんで仕事が欲しい人間がいるのに、俺ぁ仕事あってもしたくねぇんだ?不公平だなぁ。ったく世の中つまらんよ。秩序も常識もねぇよ。糞だらけだ。


※誤解があるらしいから注釈。「これは一時的な投げやりな気持ちを正直に書いただけです」とでも言やぁわかるか?多分無駄だろぅ。でも本気。子供じゃあるまいし字づらだけで鵜呑みにすんなよな。文章ってのは本人から出るものだけど、本人すべてではないのだ。小説の登場人物の全ての性格を、作家自身が持ち合わせているわけじゃないだろ?気づけ。

自分に正直に生きなきゃな。

俺は嘘吐きではあるが、かといって、自分の感情には相当正直だよな。頭にくるときははっきりそう感じるし、信じられないものを妄信できるほど素直な脳はお持ちじゃない。感情をコントロールなんて言葉があるが、たしかにコントロールはできないな。振り回されることが多いかもね。でも今はわりかし、以前よりは大丈夫になってきたんじゃないか?


ものには順序ってもんがあって、俺みたいな特別製の問題児の場合、修理に時間がかかるってこった。わからんやつはよぅく覚えておけ。


・・・とのっけから乱暴な言葉だけど、これが自分に素直な私です。都合に合わせて嘘はつくが、ここでは本音を書いてナンボの日記だよぅ。


ひどく拒絶されて、さすがにこたえて、それからなのか何なのか、無感情だった僕に激しい感情の波が戻ってまいりますた。のでうれしいよ。カッとなったり、マターリしたり、ハァハァ(;´Д`) したり、いろんな気持ちはいとおしい。僕は以前、自分が変わりたいと強く願っていたので、そのこと自体に逆に縛られて正直息苦しかった。でも今は、「これが俺だわ」という開き直りがあり、前よりラクなのかもしれない。部分部分での自分の反応には、自分としては明らかに変化がみられる。


しかし優れた芸術作品に触れることは、やはり魂にとって必要なことだ。それを忘れるんじゃあない。

ぼくはしたくないことはしないし、強制されるのも嫌いだ。したいことをする。


拒絶されりゃ悲しいし、本当のことを分かっていない人は寂しい。怒りを見るのは苦しいし、悲しみを見るのは切ないさ。だからこれから僕はなるべく、少しずつ、周りの空気に愛を添える存在になっていけたら嬉しいと思うけど、できなくたって知るものか。自然になるようにしかならん。あとはまかせたぜ。



という、心の断片を乱暴に並べた日記。めちゃくちゃだ(笑)

極めて危険な状態なんだろな・・・

この「全部どうでもいい」な気持ちは・・・なんだろう。苦痛はない。以前のような苦しい思いはずいぶんと減ったのだ。だって、悩んだところで意味はない。でも、生きていることにも意味がない。楽しみも、喜びも、なにもない。俺は虚だ。

 

今まではよく、苦しい思いや悲しい思いがいっぱいあったんだけど・・・今はもっと空っぽだ。なんだこりゃ?

むやみに死にたいとか思わないぶん、そうそうイヤというほどではないが、でも「はよ死にゃあいいのになぁ俺」と思うのはあまり自然ではないよなぁ。サァどうする。

 

といってこんなもんは俺がどうこうできる次元ではないので放置だ。せっかくだいぶ前に作りかけていたマイサイトの「クリスチャンとしての私」ページも、もう続きを書く必要なんて感じない。だって無意味だもの。

サァ、この空な魂、どうするか。虚しい。

 

何をやっても、一生懸命やろうが、いい加減にやろうが、どうせ死ぬのだ誰もが。だから必要を感じなきゃそれをしないし、やりたくなきゃやらない。苦痛を感じるほど努力するのはたくさんだ。だから努力もしない。現状で十分だ。がっかりさせられるのは御免だ。幻滅は。だから期待はしない。つまり全てに諦めているのだ。期待させるほうがおかしいのだ。

 

うれしいこともないし、かなしいこともない。もっと平らだよ。全て一時的だし大したことはないよ。

・・・と、そういう感じだ。こりゃやはり気が変なのかしらね。