2月19日東京交響楽団 定期演奏会 ブルックナー交響曲第5番変ロ長調(前半がハイドン交響曲第101番二長調「時計」)の感想も今日で終りにしたいと思います。ブルックナーの第4楽章です。
ブルックナーの交響曲は、大抵の場合、原典から大幅に改変した改訂稿を演奏することが多い(インバルやシモーネ・ヤングのように原典版を採用する指揮者もいます)ですが、この第5番は、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュなど第2次世界大戦以前の巨匠たちは、シャルク改訂版(第3、4楽章にかなりカットのある初演版)を使用することが多かったようです。カラヤンやケンペの時代になると原典版を演奏するのが普通になりました。ブルックナー自身もこの曲に限っては、あまり手を加えなかったようなので、作曲家として絶頂期の作品だったのでしょう。この曲はその壮大なスケールの大きさから「城塞交響曲」と呼ばれることもあるブルックナーの代表作です。ブルックナーの交響曲のビッグ3は7番から9番とよく言われますが、私は未完の9番より5番をビッグ3に加えたいと思います。
さて、第4楽章はフィナーレ。アダージョ-アレグロ・モデラート。冒頭で第1楽章、第2楽章の主題が出てくるのは、ベートーヴェンの第九の影響があるそうです。ブルックナーのこの曲への思い入れの強さを感じます。この楽章の主部は第1主題、第2主題、第3主題が現れますが、これらがフーガを構成していることや金管(トランペット、トロンボーン、チューバ)による壮麗なコラール(賛美歌に由来する和声のある旋律)が大きな特徴です。とにかくスケールが大きくフィナーレにふさわしい楽章です。
指揮者のフロールは第3楽章から第4楽章の間合いを1分近くとりました。第3楽章までで1時間近く演奏していますから、呼吸を整えて、壮大な第4楽章(25分くらいかかります。)に備えたのでしょう。初めはアダージョですが、主部のフーガからテンポがアレグロに上がり、コラールになると、前にもお話したようにトロンボーンなど金管が咆哮するように大音量で演奏しました。弦楽器も負けじと応戦しますが、第2ヴァイオリンは金管が後ろにいるので、かき消されそうになります。そのためかフロールも盛んに第2ヴァイオリンを煽っていました。まさに指揮者の腕の見せ所です。この楽章はテンポの変化も大事ですが、デュナーミクがより重要に感じます。フロールと東京交響楽団は、このあたりをうまく処理して、平板に陥ることなく、バランス良く演奏したと思います。そして、終結部(コーダ)。私が参考書にしている「ブルックナー」の著者根岸一美先生が「雄大かつ荘厳に諸主題が繰り返されて結びとなる。」と表現している通りのエンディングを迎えました。
指揮者のフロールが、正面奥に鎮座しているティンパニに、タクトを槍を繰り出すように突き出したところで、全曲の演奏が終わりました。フロールはタクトを突き出したままの状態で止まっています。会場全体が息を飲んで、タクトが降りるのを待っています。その時、悪夢のような”ブラボー”の声と拍手が前列の客から飛びました。この行動は、せっかくのすばらしい演奏に完全に水を差すものです。フロールは内心怒ったと思いますが、タクトを静かに下ろすと、何事もなかったのように客席に振り向き、にこやかにお辞儀をしました。もちろん、この時は、私も含め会場全体から大きな拍手とブラボーの声が飛んでいます。その後、数回のカーテンコールがあり、フロールは照れくさそうに声援に応えていました。指揮者としてだけでなく人間としても一流です。
指揮者がタクトを下ろす前にフライイングする観客が必ずいます。これは、興ざめしますから、絶対やめてほしいので、コンサートホールは演奏開始前に撮影や電話の禁止を喚起するだけでなく、指揮者が腕を下ろしてから(タクトがない場合もあるので)拍手するようにアナウンスすべきです。今回も、これだけは残念でした。
長々と2月19日の東京交響楽団の演奏会を書いてきましたが、ハイドンも良かったので、今回も、私はたいへん満足しました。チェリビダッケや朝比奈隆などの巨匠のブルックナーが好きなファンには、東京交響楽団の一連のブルックナーは、重々しさがないので、不満かもしれませんが、21世紀の現代にふさわしい演奏だと感じています。これからもブルックナーを積極的に取り上げてほしいと思います。