私、神田あきらがラジオに出て、何やら話をしておりますのは、これリスナー諸氏の前途に良き事あらんと思う故也。ゆめゆめ他なる意図ありと考える事なきよう。言って聞かせ置き候。

 

さて、そうは申すものの、先ず西北大学の懐の深さに感謝せねばなるまいと思う。わたくしりつ大学は、官立大学とは違い、国の補助ありとは言え、私神田あきらの「雑草学1」を正規の授業科目として認め、決して多くはない受講生のこの科目を「廃止予定科目リスト」に加える事もなく、長い目で見守ってくれている。その事を思うと感謝の念がこみ上げて来て、ここで、私自身を語りたい気持ちが沸き上がってきた。WLMを私は主張したい。Wはワーク・仕事だね。人間生きがいを感じる仕事をして社会に接するべきである。石の上にも3年。徐々に生きがいを感じる場合もある。Lはラブ。相思相愛。Mはマネー。WLMが上手く回る事が幸福の条件だと思う。

 

 

神田あきらの話は続く、

「朱子学が、儒教が、論語が、二百年以上も日本の学問の代名詞であったのは、そこに学問の営みのエッセンスが集約されているからだ。例えば学而第一

學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。

学んで、復習する。喜ばしいことではないか。同士が遠くから語らう為にやって来る。楽しい事ではないか。認められなくても恨まない。それが君子というものではないか。

そして、為政第二 02-11

温故而知新。可以爲師矣。

古典を勉強しなさい。

為政第二 02-12

君子不器。

君子はあるひとつの事だけの専門家であってはならない。

為政第二 02-15

學而不思則罔。思而不學則殆。

学んでも、考えなかったら、道理に暗い。考えてばかりいても学ばなかったら危険だ。

為政第二 02-17

知之爲知之。不知爲不知。是知也。

知っている事を知っている事とし。知らない事を知らない事とする。これが知るという事なのだ。

雍也第六 06-18

知之者不如好之者。好之者不如樂之者。

知っている者は好んでいる者にかなわない。好んでいる者は楽しんでいる者にかなわない。

 

帝都大学出版会の本を読んでみるのは「知っている事を知っている事とし。知らない事を知らない事とする。」為なのだ。高校生なのに大学生の本を読んでみるのは、知らなくても楽しめればそれが最上だからだ。」

 

神田あきらのラジオ番組を聞いていると、毎回目から鱗が落ちる思いだ。青春の衝動・迷い・愚かさに対して「そんな考え」があったのか!「そんな行動」思いつかなかった!と言う感動の繰り返しだ。受験勉強とは決まりきった事を自分を騙し騙し(だましだまし)行うものだと思っていた。ところが、である。

「君は受験生である限りにおいて永遠に受験生である。帝都大生にも、西北大生にもなれない。なぜなら君は受験生であって大学生ではないからだ。」

「受験生である事をやめたまえ!1パーセントだけ帝都大生になりなさい。」

「1週間で2パーセントだけ帝都大生になりなさい。50週過ぎた来年の4月初めには100パーセント帝都大生になってる筈だ。」

 

確かに、神田あきらの言う事は、AとBが等しく,BとCが等しいなら、AとCは等しい式の形式論理では、正しい。ギリシャの哲学だったか論理学だったかで、確かに同様の議論があった。

 

行動は?

「帝都大学学部で使われる教科書に直接触れなさい。帝都大学出版会のテキストを読みなさい。理解できなくてよい。」

「その教科書と同レベルのテキストを読んでみなさい。理解できなくてよい。」

「その教科書を理解する為には、何が解っていなければならないかを高校の範囲からピックアップしなさい。その事項を学習しなさい。」

 

明雄はこの神田あきらの指導を実践しようとした。イメージとしては、帝都大学の教室にいる自分、よく解らない教科書が目の前に置かれている。今まさに教師が授業を開始しようとしている。そんな情景がはっきり脳裏に浮かんだ。