ふと知った日本の文芸作品。その作品の全体での位置を知りたいと思う。そんな時には、外国人の目と理系人間の目が参考になる。外国人の目では、ドナルド・キーン、理系人間の目では、吉本隆明だ。仲間内の評価ではない客観的評価が得られる。文学作品はみんなのものだ。そしてそのみんなには外国人も、理系人間も含まれる。

明治期の最初の近代文学の理論書は坪内逍遥の「小説真髄」であり、最初の近代小説は二葉亭四迷の「浮雲」である。これは、どんな日本文学史の本にも書かれている、定説だ。「浮雲」は言文一致体である。最初の方は少し古めかしい感じもあるが、現代文とあまり変わらない。

ふと知った文芸作品「金色夜叉」。それでは、「金色夜叉」の位置づけはと言うと、「浮雲以下でもなく、また、それを超えるものでもなかった。」(吉本隆明)という。尾崎紅葉のライバルは、幸田露伴であり、明治20年代は紅露時代とも呼ばれる。財力ある男と身近な親しい男の間で揺れるお宮と、自らも財力を目指す様になる貫一。二人は熱海温泉の海岸で有名なシーンを演ずるが、この作品が塩原温泉郷で書かれたというのは興味深い。ここで、文学作品の「意味」と「価値」について述べたい。もちろん吉本隆明の理論である。文学作品の意味とは「指示表出から見られた言語構造の全体」であり、文学作品の価値とは、「自己表出から見られた言語構造の全体」である。意味の理解の為にはじっくりと作品を読んで、登場人物の行動・心理を描かれた情景・描写から確定してゆく必要があるし、価値の理解の為には、何が新しいのか、これまで読んできた前の時代の小説からは得られなかった、どんなショックを与えてくれる作品なのかを味わう必要がある。明雄は授業で取り上げられる文芸作品に対しては深い読みが出来つつあると感じていた。
その夜、明雄は西北大学に合格した夢を見た。白い壁の蔦の絡まる古い図書館で、本を借りようとしている。貸し出し係
「いくらなんでも、古代から現代までの思想家の本を30冊も一度に借り出そうなんて、近代思想に絞るとか、もう少し対象を狭めたら?」
「いいんです、目次をコピーするだけですから。」
うまく切り抜けた。

そして、坪内逍遥の「小説真髄」 小説を読む事による4つの効用の部分を、閲覧室で突然音読し始める。
係員
「駄目だよ。ここは図書館なんだから、音読は駄目なの!音読は駄目!音読は!、、、、、」

目が覚めた。目覚まし時計が鳴っている。


吉本隆明の文学理論について記す事とする。文学史は文芸作品の歴史でもあるが、作品を発表年代順に並べれば文学史になるかというと、文学史の為の1次資料にはなるが、文学史そのものではない。吉本隆明が文学史という時、それは、文学作品の表出史を意味している。「自己表出」と「指示表出」からなる表出史である。「自己表出」とは、作品を書き上げる事からくる作者の達成感であり、作品を読む事から感じられる作者の表現したい意欲である。一方「指示表出」とは、具体的に言葉が示している言葉の意味である。「男はマッチを擦りタバコに火を付けた」という文の「指示表出」は「男」は「マッチ」を「擦り」「タバコ」に「火」を「付けた」という文字通りの内容となる。この文の「自己表出」は「寂寥」や「単なる習慣」や「物思いに耽る切っ掛け」などを表す。文学作品はこの「自己表出」と「指示表出」からなる錯綜した「構造」であり、文学史を辿る事は、作者の立場に立って書かれた作品の「自己表出」と「指示表出」を追体験する事であり、ある作者から別の作者に渡されるバトンを見つけ出す事でもある。従って文学史を継承する事は、作者から作者に渡されるバトンが存在する事を確信し、自らもバトンを受けとり、それを、後継者に渡す作業となる。作家達は先行する時代の作品の読者だったのであり、後続する者たちへの作品の作者である。作者同士の直接の接触があったかどうかに関わりなく、文学作品の歴史は創られてゆく。もう一つ重要な吉本文学理論の概念に「話体」と「文学体」がある。「指示表出」に基づいた文体が「話体」であり、「自己表出」に基づいた文体が「文学体」である。具体的な文学作品の場面を思い出してみれば、登場人物が話あっている場面が描かれていれば、その場面の描写は「話体」であり、作者の心情の露吐が長くあったり、思想が長く表現されていたりすればその場面は「文学体」である。

「自己表出」や「指示表出」は分析・解析のツールであるが、「文学体」「話体」は総合・全体評価のツールであると言える。文学史はある時代のある作品の「文学体」・「話体」から、次の時代のある作品の「文学体」・「話体」への継承・発展の歴史である。

明雄はいつか吉本隆明の理論をもっとしっかり理解できる日が来る事を信じている。