神田あきらの話は続く、

「朱子学が、儒教が、論語が、二百年以上も日本の学問の代名詞であったのは、そこに学問の営みのエッセンスが集約されているからだ。例えば学而第一

學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。

学んで、復習する。喜ばしいことではないか。同士が遠くから語らう為にやって来る。楽しい事ではないか。認められなくても恨まない。それが君子というものではないか。

そして、為政第二 02-11

温故而知新。可以爲師矣。

古典を勉強しなさい。

為政第二 02-12

君子不器。

君子はあるひとつの事だけの専門家であってはならない。

為政第二 02-15

學而不思則罔。思而不學則殆。

学んでも、考えなかったら、道理に暗い。考えてばかりいても学ばなかったら危険だ。

為政第二 02-17

知之爲知之。不知爲不知。是知也。

知っている事を知っている事とし。知らない事を知らない事とする。これが知るという事なのだ。

雍也第六 06-18

知之者不如好之者。好之者不如樂之者。

知っている者は好んでいる者にかなわない。好んでいる者は楽しんでいる者にかなわない。

 

帝都大学出版会の本を読んでみるのは「知っている事を知っている事とし。知らない事を知らない事とする。」為なのだ。高校生なのに大学生の本を読んでみるのは、知らなくても楽しめればそれが最上だからだ。」