かつて日本には映画「ALWAYS三丁目の夕日」のような、高度経済成長の時代があった。

GDP(当時はGNP)が二桁成長の時代、給料は毎年どんどん上がるのが当たり前の時代。テレビは無かった。みんな映画を見た。時代劇なら「東映」、アクション映画なら「日活」、家族みんなで見るなら「東宝」、文芸大作は「松竹」、芸術映画なら「大映」と5社には特徴があった。タフガイの石原裕次郎、マイトガイ(マイトはダイナマイトの略)の小林旭、悪役専門のジョーは宍戸錠、吉永小百合に泉雅子、酒井和歌子に星由里子、若大将に青大将、とまあワクワク感のある時代だ。

 

 

 

最近相次いで、「高校」特集が経済週刊誌の表紙を飾った。週刊東洋経済10月15日号、週刊ダイヤモンド11月19日号である。常日頃から考えている事でもあり、昨日も記述したので、今日は受験生をもっと掘り下げて見たい。昨日との関係で言うと、裕福な家庭の高校生の場合、国立大学志願の経済的インセンティブは働かず、志望動機は教えを受けたい教授がいる・受験科目が合っているといった事になる。そこでは国立も、私立も純粋に高校生学業あるいは、大学の学問の内容によって志望される。ただし、国立型の浅く広く式の学習と私大式の狭く深く式の学習は、科目から見た時には、浅く広く学習した者が特定の科目に関して狭く深く学習した者よりもよくできる事が起こり得る。そのような2者がそれぞれ国立と私立に進学した場合において、私立に進学した者が学内のダブルディグリーの制度を使い、世界ランキングにおいて日本の国立大学よりも上位の大学の卒業証書を手にする事が起こり得る。ただし、その海外の大学と日本の国立大学のノーベル賞受賞者数の順位は、世界大学ランキングの順序と同じとは限らないし逆転する事も起こり得る。

大学教育費用の負担が家計に大きく依存している日本の場合、裕福とは言えない家庭に育った高校生は、大学進学時に国立か私立かの問題と奨学金の事で悩む。国立に進学して親の負担を軽くする事が出来るか、私立に進学しても特待生になれたりすれば、それ自体が親孝行になるように思える。国家人類社会に有為な人物に成長しようとする時に、その出発点において親孝行であれば、すなわち誰かの為に何かをなせば、それは卒業後の為にする行為の助走のような役割を果たす。国立大学生や私立特待生が広く国民の支持を受けているのは、この「親孝行できる人間は国家人類社会に貢献できるはずだ」という一つの仮説の真理に支えられているように思える。