現在も1970年代も、世の中は複雑だ。明雄にも時代の複雑さは容赦なくい襲い掛かる。将来の予測、どんな社会が訪れるのか、小学校時代なら、体育館の壁面に張られた東京オリンピックのポスターから何か明るい未来がやって来そうだった。学校に入る前、ラジオからは「アンポハンタイ」の叫びが騒音と共に聞こえ、喧噪の大人の世界を暗示していた。明雄が中学高校生の頃、大学はバリケード封鎖されていたり、機動隊と学生との衝突の場面が報道されていたりした。そんな世相から将来を予想するのは、賢い少年のする事ではない。賢い少年は、マスコミ報道やショッキングな見出しなど、刺激的な表現をいったん保留にするだろう。「理論武装」という言葉もあったが、頭の中を純粋な状態に保つには、数学が最適なはずだ。それも、終戦から数年経過した頃のあまり複雑ではない時代の数学がいい。高校の数学は「解析」と「幾何」だけなのだから。たった2語で数学全体が語れる古典的な時代。そしてそれが「解析幾何学」となって、数式が図形を、図形が数式を表すようになる。「集合」や「場合の数」や「確率」や「統計」はいわば、微分積分を含む解析幾何学の脇侍のようなものであって、数式と図形が頭の中にしっかりある限り、破壊的な活動に走る事も、自堕落な生活に堕ちる事もないと言っていいだろう。そしてその解析幾何学が英語で理解できていたら、あの財閥が寄付した時計塔の講堂でもっと建設的な議論が出来ていただろう。明雄にも数学が欠けていた。実践的な英語も。
純粋な精神状態を保つ一般的な方法は、スポーツだろうか?中一の間は剣道に打ち込んだ、中二になって春陸上競技の新人戦が行われるのだが、明雄の中学には陸上競技部がなく、各部からメンバーを募る特設陸上部で、あろうことか、その高飛びの練習中に着地に失敗して腕を折ってしまったのだ。陸上はもちろんだが、剣道までも、半年の休部の結果、退部となった。そのせいかひとつの種目を生涯を通して続ける生き方はできなくなった。高校に進学してからも、山岳部1年、出版委員会1年、平和を考える高校生の会1年という状態であった。高三になると、選択科目の出席などから、自然と同じ将来設計の者同士が接する機会も増え、国立併願の方針はもっていたが、「東洋思想」「哲学」といった同好会の輪のなかに入って行った。それでも、山岳部の顧問の高木数之教諭、沖英作教諭がそれぞれ数学と英語の担任であったことから、数字を使わない数学書などは読んでいたのだった。ある教師が、例えば東京と福島の英語の平均学力が2~3点だけの違いだとしても、数十万人の生徒が母集団だとするとその違いはかなり大きいと語っていたが、実際のところ生きた英語の刺激はあまり受けたようには記憶していない。英語に関しては、週数時間の英文読解、英文法の授業があり、身近なところには英語部の英語劇、NHKのラジオ講座、大学受験ラジオ講座があり、予習復習をきちっとすれば、当時の教育事情を考えれば充分ではあるのだが、英語のリアリティがどうしても弱く、日本人だけの英語世界だったのだ。現在のようなワールドイングリッシュの時代であれば、インドの英語、フィリピンの英語、日本の英語でも充分いいのだが、当時は英国英語から、米語への過渡期にあり、イギリス人かアメリカ人の英語が求められていた。そしてその英語は直接触れる事の出来ない・聞く事の出来ない英語だった。