純粋な精神状態を保つ一般的な方法は、スポーツだろうか?中一の間は剣道に打ち込んだ、中二になって春陸上競技の新人戦が行われるのだが、明雄の中学には陸上競技部がなく、各部からメンバーを募る特設陸上部で、あろうことか、その高飛びの練習中に着地に失敗して腕を折ってしまったのだ。陸上はもちろんだが、剣道までも、半年の休部の結果、退部となった。そのせいかひとつの種目を生涯を通して続ける生き方はできなくなった。高校に進学してからも、山岳部1年、出版委員会1年、平和を考える高校生の会1年という状態であった。高三になると、選択科目の出席などから、自然と同じ将来設計の者同士が接する機会も増え、国立併願の方針はもっていたが、「東洋思想」「哲学」といった同好会の輪のなかに入って行った。それでも、山岳部の顧問の高木数之教諭、沖英作教諭がそれぞれ数学と英語の担任であったことから、数字を使わない数学書などは読んでいたのだった。ある教師が、例えば東京と福島の英語の平均学力が2~3点だけの違いだとしても、数十万人の生徒が母集団だとするとその違いはかなり大きいと語っていたが、実際のところ生きた英語の刺激はあまり受けたようには記憶していない。英語に関しては、週数時間の英文読解、英文法の授業があり、身近なところには英語部の英語劇、NHKのラジオ講座、大学受験ラジオ講座があり、予習復習をきちっとすれば、当時の教育事情を考えれば充分ではあるのだが、英語のリアリティがどうしても弱く、日本人だけの英語世界だったのだ。現在のようなワールドイングリッシュの時代であれば、インドの英語、フィリピンの英語、日本の英語でも充分いいのだが、当時は英国英語から、米語への過渡期にあり、イギリス人かアメリカ人の英語が求められていた。そしてその英語は直接触れる事の出来ない・聞く事の出来ない英語だった。