学者
ニーチェは素直だが、ちょっと変わっている。だから多くの人々にとっては受け入れられない。でもニーチェは、既存の学問と違ってオリジナルだ。ニーチェは学者としての権威を捨てた。学者は本心で語ることが無い、学問の継承である。そしてそれらを観照している。普通の学者は昔の学説に準拠している。でもそれらの昔の学説も、昔はオリジナルで光輝いたものであった。そこら辺の学者が既存の学説に従わずに魂からの叫びをあげることは無い。しかし彼らは熟練している、その熟練で、新しいオリジナルな発想を虐げる。彼らはまるで機械のようである、コツコツと動く、しかし魂の叫びをあげることは無い。彼らは普通のことをこなしているだけだ。彼らは弱い者を見つけると直ぐに批判を始める。批判するにも慎重である。彼らは議論に勝つために詭弁も用いる。彼らの趣味にニーチェの思想は反する。ニーチェは普通の学者のやり方を以てしてもそこら辺の普通の学者よりも素晴らしかった、しかしそれが恨みを買った。そして彼らはニーチェの思想を非学問的だと批判した。そこでニーチェの思想は普通の学者からは無視されるようになった。普通の学者達はニーチェの誤謬を取り上げるので必至であった。しかしニーチェの思想は、既存の学者のそれらよりも崇高である。人間は平等ではない、公正はそう語る、しかし人々を平等に扱うのが民主主義であって、それには一定の意義がある。しかし既存のそこいらの学者達は、ニーチェの思想を受け入れる資格さえない。
詩人
人間は肉体があっての精神である。無情のものもあるが不滅のものもあるかもしれないが、現実はある程度のものがある状況である。詩人は大袈裟で、事実から乖離していることがある。ある種類の人間にはなぜと問うことが出来ない、それは本心から来ているものである。人間はその基礎的なものは若い頃に出来上がる。しかしその記憶の根源は忘れてしまいがちである。人は意見を持つ大本のことを忘れてしまいがちである。そして他者から聞き入れることもあるが、その多くが最初の内は馴染みの無いもので、自分の意見としては打ち解けないものである。しかし柔軟な者は自分の意見と他者の意見をミックスさせること、中庸を取ることが出来る。ツァラトゥストラもニーチェも正直な詩人である、正直だが、人々の意見に乖離するために多くの人々に受け入れられない。私はツァラトゥストラの意見には反対する意見も多くある、まずは民主主義を否定しているところが受け入れられない。ツァラトゥストラは信じるよりも、納得が行って貰いたいのである。詩人が嘘を付いているということは私には分からない。人間は真実を語るには余りにも物事を知らなさすぎる、ということはあるかもしれない。しかしある程度は真実の状況は把握できるのではないか?詩人でも他人の作品のモチーフなどを盗み取ることはあるかもしれないが、その分進化させればいいのではないか、そしてそれがアウフヘーベンである。人間として生きる上では、他人のモチーフを参考にすることは、多く意味があり、そこから発展させればいい。知ることが少ないから、精神の貧しいものばかりが気に入るということは無い、精神の富んだ者からは多くの事を参考に出来るから愛おしいということはあるだろう。女は精神が富んでいるか富んでいないかは、本心では関係無い、しかし、超人を生み出す為には精神が富んでいる者を重視すべきである。精神が貧しい老女の夜な夜な話をしている事を私は欲しいとは思わない、自らを高めることばかりを重視する。永遠に女性的なものを私は欲しない、甘い通俗的な敬神や道徳観などどうでもいい。知は閉ざされているか?詳しく見聞きすればある程度は分かって来る、そして民衆とその『知恵』は人というものはどういうものか?ということを知る意味で必要である。人間として生きている以上は、ある程度知れば、ある程度の真理は知りうることが出来る。人間はついつい調子に乗りやすいが、いつでも平常心を保ち、更に上を目指すべきである。世の中から、様々なことを学ぶためには才能が必要である、しかしその才能を誇るべきではない。世の中には多くの分からぬことがあるものだが、それらは年月をかけることで分かって行くものである、それが老熟である。多くの神々は人々が作り出したフィクション小説である。人間は人間の延長上として、神々を想像する。神々超人は、結局は人々が作り出した作品なので実際にあるものとは違い軽い。神はいるかいないか人間として生きている以上は実は分からない、不十分な人間から神を想像したとしてもそれは想像上の代物でしかない。今日かつてから明日と明後日といつの日かに属するあるものがある、それは私にとっては「人類の労働からの解放」である。かつての古い詩人は考え抜いてある発想を考え付いたことはある。苦悩の詩人というものがいる、それは鬱病の詩人である。詩人の中で楽音を知り抜いている者もいる、そのような詩人に我々は心を揺り動かされた。詩人はそれを深遠に見せるように、難解な表現をすることがある、しかしそれらは無意味である。詩人は理想と現実の調停者として役立って来た、それが寸足らずの不潔な存在として見えるのは高慢である。古い思想家の考えを参考にしても、結局最後は自分自身でオリジナルなことを作り出さなければ、新しい物事は作り出せない。古い思想の継承だけでは、新しい物事は作り出せない、継承するということだけをやっているのが既存の学者である。かつての詩人が新しい知見を与えることもある、しかしかつての詩人には人間性ばかりがクローズアップされることもある。詩人は虚栄心から作品を作ることもある、しかしその素晴らしいことの多くがありのままを表現することである。自然は自分自身が小さいことを教える、だから虚栄心を学ばせるのだが、それは一切必要無い。自然からは虚栄心を学ばずに、真理とは何かを学ぶべきである。詩人は自然から虚栄心を学ばずに、自然の素晴らしさを学ぶべきである。観客を求め、それに見合った作品を作っても中途半端である、不人気であってもありのままの自分の意見を述べるべきである。虚栄心を満たすことでなく、思ったズバリの事を書くべきである。詩人達が虚栄心に飽きて自分自身を見つめることを始めることは意義がある、己を知って、そこから他の事も知れるのである。詩人は自分自身を見つめ、そして他の事を知り、自分自身を高めるべきである。