私は素晴らしい著書を書き記すために孤独になり20年倦むことがなかった。20年の間に引っ越しがあり、買った私意外の者が書いた名著・著書が引っ越しの段ボールの中に入ったままで、どの段ボールに入っているか分からずそれらの著書を参照できず、ネタが尽きて書くことが無くなった。それらは既に発表されているが、もっと大々的に人々に受け入れられなければならなくなった。それらは私の見通しでは多くの人々に多くの知恵を与えると思う。しかし私は人々を愛していないから受け入れられないかもしれない。
神は死んだ、多くの人々の間では、しかし多くの人々の間ではまだ生きていて影響力を持つ。私は神を愛さない、神を信じないから。私は日本人を軽視している。勤勉勤勉と自分達を誇るが、それは誇ることでは無く、嫌々ながらの事をやっているに過ぎず、本当に好きな事が出来ていない、もしくは元々本心でやりたいことが無かったのかもしれない。人間は普通と違う事は受け入れない。私の書くことは素晴らしい事かも知れないが、普通ではないから受け入れられないかもしれない。自然の中の自由人とは本当の自由人ではない、心の底からやりたい事が出来る人が本当の自由人である。世を避け、心のおもむくままに、ひとり生きる事は私の幸せではない、私は世の人々と幸せを分かち合いたい、人々に幸せを贈与したい、それは人々への愛と言うよりかは、それが私の本心から来る事に他ならないからである。
人間は既存の人間を越えて超人となるべきである。しかし超人は普通では無いから当初は受け入れられないかもしれない。そして超人はそれまでの人間どもを嘲り嗤うからその態度が人々から受け入れられないかもしれない。その場合は乗り越えられるべき人間どもは、低い者達で結託して、超人を排除しようとするかもしれない。そして多くの人々は超人になり得る素養が元々無いからそれはしょうがないのかもしれない。しかしそうであるならばそれらの人々は超人の言う事を出来る限り受け入れるべきである。受動的な生き方と生ぬるい精神活動は普通の人々からすればどうしようもないのである、超人の思想はそれらの人々にとって厳しく受け入れ難い。そしてそれらの人々にとって心地良いのがポピュリズムである。超人の語ることとは、現実主義であり、「神は死んだ」と主張し宗教的色彩を一切認めず、一般人にとっては厳しい。人間で成功するのはわずか一握りである、それ以外の人間は低い生活を余儀なくされる、民主主義的観点・平等的観点からすれば格差是正が求められるべき事である。王政は宗教を主張し人々の気持ちをなだめた。現代社会は民主主義であるが宗教の力はまだある、超人の思想はある程度現代社会を形造った。私は死にたいと思い飢餓を目指した、それは修道僧が目指した物だった、ということである。普通の人々は生まれつき超人になれる資格が無かった、しかし超人と比べると低いその精神性は民主主義によって保護され、超人の主張は出来る限り受け入れられるべきである。しかし民主主義的観点からして超人ばかりが得をして、多くの人々が損することは有ってはならない。普通の人々は生まれつき才能が無いから、超人にはなれない、ただ超人の主張はある程度までは受け入れることが出来る。人間はその精神性が低いと内心ではそれに対して侮蔑の気持ちを持てるが、実際にそれによって損することを求めない、悪い場合は、超人を結託によって排除しようとする、それに似たケースが、ソクラテスやイエス・キリストのケースである。超人の徳は認められなければならない、しかし民主主義によって普通の人々の権利も認められなければならない。しかしある程度超人は優遇され、普通の人々の権利は抑えられなければならない。普通の人々は充分に安逸を貪る暇が無い、皆生きることだけで精一杯である。超人はその義務として民主主義・平等を志向しなければならない。多くの人々の幸せを出来る限り平等に志向しなければならない。普通の人々の正義とは、多くの人々の充分な幸福とある程度の超人の幸福とある程度の平等が志向されなければならない。
普通の人々は超人が現れたならば、それを認めなければならない、例え自分が劣っていることを認めたくなくても。そして超人は多くの人々の幸せを認め謙虚でなければならない。普通の人々が没落してはならない。ニーチェは超人が現れたならば普通の人々は全てを与えなければならない様に言っているが、民主主義を考慮しない超人など必要ない。ニーチェの思想は素晴らしいが民主主義を批判している点がどうか、と思う。
ニーチェは平等を否定するが現代は、平等の時代である。多くの畜群と呼ぶべき人間もいるが、現代の超人は平等を考慮して物事を行わねばならぬ。
悪魔も地獄も存在しない、この考え方は現代に引き継がれている。
人間が無駄だとしたら元も子もない。
自らを超人とする者は、大衆から憎まれることもある。
神は死んだとする者からすれば善さ正しさは自ずと変わって来る。
民主主義と平等を否定し自らを超人とし、人々を嘲笑することは危険な事である。一般人で共感できることもあるだろうに。
超人にも謙虚な態度は必要だろう。志が成就しても更なる困難に立ち向かうのは、高貴である。学的認識も究極のものを目指すとつらい。自分の内なる精神に新しい諸価値を内包する者は、違和感を持ちながらも気が合わない人々との付き合いを余儀なくされる。真理のためには、醜や汚れも余儀なくされる。神が居るかいないか人間には分からないとしか言えない。神的なものはかつてからの汝なすべしを求めて来るそれに否を言い新しい諸価値を創造するためには、自由が必要である。汝なすべしは多くの人々と共存するためには、必要かもしれない。小児の然りは自由な創造に必要だが、多くの人々との共存も必要である。
平等と民主主義のためには、妥協は必要だ。しかしこだわりも必要である。
神を信じる必要性は現代よりも色々と不便の多かった昔の方があったであろう。現代日本人の多くが神社にお参りすることとかあったとしても、本心では無神論者である。