21世紀の実利道徳~教育勅語Ⅱ② | 三上祐一のブログ

三上祐一のブログ

 独自の日本大改革案を掲げる三上祐一のブログです。 なお私はこのブログの著作の一部がウィキペディアの「三上祐一」の項に投稿されることを認める。 http://yuusukeueno.blog40.fc2.com/

-------2013.05.23執筆開始------------
 013   信頼が欲しければ
 信頼が欲しければ、行動をすべきとは言えるが、執筆も行動に含まれるならば、人々はスローガンを大勢で連呼するよりも、多くの人々に有益であり、概念上の真理という面で時代の最先端であり(ということは斬新なオリジナリティーがあり、その一つ一つの文章は今までの文章よりも精緻であるということになり、感覚的要素を尊重するから常識上では矛盾が含まれる表現が許容され、その総量は膨大になり)、であるからしてとてつもなく創造的であり、多岐にわたり、オリジナリティーに溢れ、常識の範囲内で突飛であることで読者に興味を沸かせる執筆物を大勢に指し示すべきである、その場合はその著者は真剣な執筆を行い(真剣であるから遊びも含まれることとなる、そしてその真剣さに辿り着くためには一定の先天的能力と《その先天的能力とは感覚を司る脳で主に考え、言語を扱う脳は補助的に扱うことであったりもする》それを高めるための普通・多くの特別な・そして多くの人々の心情を察知できる様々な経験を経ていなければならない場合が多い、そこにおいては高度にありのままの自分・客観を知っているから、どのようにすれば大勢の人々の心を掴むことができるかが解っている)、それを理解し高評価し、大勢の人々に指し示す能力がある出版社にそれを提出すべきである。しかし、執筆と、微力な力で人々にそれを示す、ということは、行動には含まれない、と勘違いされる面がある。そしてその勘違いで、執筆と微力な力で人々にそれを指し示すことを行動ではないと捉え、それを行動と区別した場合、その勘違いにおける行動以外のことは、コアな少人数の人々の信頼を得ることはあったとしても、多くの人々の信頼を得ることは無く、その勘違いにおける非行動は多くの信頼を得ることはできず、大きな行動は信頼を得るということによって、その勘違いにおける行動は信頼を得、非行動は信頼を得ることはない、ということはある程度的を得ている、ということは可能である。
 大勢の人々に信頼を得るオーソドックスなプロセスは、それが執筆物である場合は、著者が人気を考慮し、それに迎合し執筆を行い、それが渡った出版社がそれは人気が出て売れる、と判断し、出版され、大勢の人々がそれを買うことでその執筆物の売上が上がり、その執筆物が世に浸透し、そこで大勢が人気があるから素晴らしいと考える、ということであり、その結果多くの人々がその執筆物を信頼することとなるが、その信頼は多くの場合は価値が低い。まずは著者が人気を考慮し、それに迎合し執筆を行うということが価値が低い、その場合は多くの場合は何かを褒め称えることばかりとなってしまったりする。その執筆物が渡った出版社がそれは人気が出て売れる、と考えて出版することはある程度価値が低い、最初は売れなくても価値が高いために次第に売りあげを伸ばす執筆物もある、そして世にあまりにも迎合しすぎた執筆物の売り上げはある程度までしか売れないということが現状である。出版社が、ある執筆物が充実しているのに、形式などが突飛で、全体的に、今までの執筆物よりも常識はずれである、という理由から、出版を行わない場合がある、その執筆物は革新的過ぎて最初は売れないが、少しずつ売上を伸ばし、その真価を理解し信頼するコアな価値ある読者の口コミで、最終的には爆発的に売れて、出版業界の常識から、世の中の常識をも変えてしまい、それが結果として世の中の大改革となることで総合的に保守を含めた新しい人々に広く幸せを与えることとなるものであることがある、その場合は、出版を断念した出版社は能力不足で大失態をしてしまったこととなる、それ以前に、その出版社が保守的過ぎて、大きく世の中を変えてしまうことを恐れた、という場合もある。
 自分自身をある程度信じていて、それ以外の多くのことで信頼すべきそれぞれの事象はそれなりに信じていて、客観というものは平均値・常識で一刀両断し、そういうものだと括り語りつくすことができぬ種類であり、しかしある程度は的確に概念で表現できることであるが、それをある程度表現可能となるためには、客観を構成する要素は、客観を人間に限った場合でも、普通・特別・様々なそれぞれの人々を出来る限り多く知る経験を経てそこに辿り着けるものであると知れるようになれるだけ客観について詳しくなったから、自分の客観認知もかなり信頼できるものであるから、その客観認知により、自分自身に対する信頼もある程度高い、と説明できる人間は、それがかなり的を得たことである、とそれについてはある程度高く信頼されることが考えられる。自分に酔っているナルシストは客観性に対する深い知識が無い、しかしナルシストの中にはある程度客観を確実に捉えている場合がある、それは客観の構成員の中でそれ程能力が高い者はいない、故に自分は自分を愛しても利に適っているだろう、というものである。自己愛を高めるためには深い客観的知識が必要となる、その結果自己愛はある程度のものとなり、巡り巡って、自分が多く効率的に幸せであるためには、自分を含めた自分の特別な人々を敬愛し、出来る限り多くの人々を的確に評価し、その時代が良い時代ならば、多くの場合は人々を的確にある程度愛することとなる、しかし愛とは絶対的なものであるから、ある程度の愛、というものは厳密に表現すれば愛ではない、その絶対的愛とは、シェークスピアが作り出した愛であり、新約聖書に記された愛は、それぞれの人々に適宜に分け与えられた愛であるから、その愛はある程度の愛というものが許容されていた。ありのままの自分というものは元々の能力が高く、それが世に役立つものであれば一定の強さを持つ、ありのままの自分から大きく成長することを求め、ある程度の達観に辿り付き、自我のそれらのプロセスを忘却してしまい、無力となってしまった者は、社会的に脆い。
 やはり言葉で表現することと行動を対立概念として考えている者がいるようである、言葉で表現することは行動の一部である、大きな決断を伴わぬ執筆による言葉表現によって(言葉を選択すること自体が小さな判断である)それを人々に指し示すことによって、全てのことを漸進的に発展させ、最終的に大勢の人々に信頼されることはある、そして多くの人間と人間との対面、それ以上の複数の人間の対面における言葉のやりとり自体が大きな影響力があり、それは言葉以外の行動よりも、多くの人々を、小さなエネルギーで効率的に信頼させることが可能となる、その言語駆使者が有能な場合は。
 ここで言っておく、感覚を重視し、かつ、概念も重視した場合は、そのスタンスで真理を述べようとすると、YES OR NOでのきっぱりとした表現は不可能となり、多くの矛盾を含んだ文章表現の段階に入る、YES OR NOでのきっぱりとした表現で言葉不足の場合は、近くの文章が遠くの文章と矛盾することとなる。ある執筆家はある著書で、「最初に自分を尊敬することから始めよう」と言い、「自分の評判や評価など気にしてはいけない。他人がどう思っているかなんていうことに関心を向けては絶対にいけない」「有名な経営者や金持ちのやり方を学んできても、自分のやり方や方法がわからない」「他人のやり方が自分に合わないのは不思議なことではない」「自分を批判していくこと、人の批判を聞いていくことは、自分の脱皮をうながすことにもなるのだ」「おおかたの人間は自分に甘く、他人に厳しい」と言っている。これらの文章には説明を尽くせばそれぞれがそれぞれと矛盾することとなってしまう。それよりかは、多くの矛盾を含んだ文章でも多くの言葉を尽くして、その矛盾がリアリティーに他ならないことを説明することの方が高尚である、リアルな世界では、「ある程度Aであり、ある程度非Aである」ということが多く存在するのだ、そしてそれに言葉を尽くすと「ある程度Aであり、ある程度非Aである、とは言ったもののしかしその状況はよくよく考えれば非AとはaAであるからAの仲間である」と表現し直すこととなる。そのように言葉自体が不完全なものである、ということが今までの文章表現の常識を超えて、新しい文章表現の常識となるべきである、日本の音楽シーンにおける歌詞の上では、そのような表現は、1990年代から行われていたことである、そしてその状況は人々には深い理解可能な表現として伝わり、人々はそれをそれとして捉えることが可能なのである。hitomiというシンガーがインタビューにおいて、「自分の中にネガティブさもポジティブさも同居しているのが今の私だから」と言っている、それが、「ある程度Aであり、ある程度非Aである」ということがリアルであることの例証である、それに言葉を尽くすと、「ある程度Aであり、ある程度非Aである、とは言ったもののしかしその状況はよくよく考えれば非AとはaAであるからAの仲間である」と表現し直すこととなるのである。これは、執筆家が時間をかけていても現在進行形で執筆しているということの証であり、それは臨場感が溢れた表現に他ならない。


 14   解釈のジレンマを出来る限り良く整理整頓すること

 物事はいかようにも解釈可能であるが、ありのままの自分、客観、客観観察から成長した自分、最大限に成長した自分というものを充分考慮し、そこから、自分の大切なもの、それはひいては自分自身、自分自身にとって大切な人々、国内の多くの人々(より健康な客観が必要だから)、世界中の人々(より健康な大きな客観が必要だから、そしてそれらは時代と関連していて、それらが幸せであると、自分自身は良い方向に向かってつまりは幸せになりがちであり、それらが不幸であると、自分自身は悪い方向に向かってつまりは不幸になりがちであり)にとって最大限に幸せが大きくなるための解釈を行うべきである。しかし戦前の尊き軍人は戦場で国のために死ぬことが幸せであり、私にとってはそれは不幸である、そして戦前の軍人で戦後を経験した人々の多くが戦後を幸せだと考えた、であるから今の時代は良い時代であると考えるが、部分々々で改善すべき戦後特有の悪しき状況も見出せるが。
 良い物事、悪い物事とは、観点の違い─例えば時代、そして政治体制─から、それらはがらりと変わる、そして現実世界では多くのことが、「ある程度良く、ある程度悪く、しかし言い換えればある程度悪いということはある程度良い、ということの仲間であるから、ある程度良く、ある程度悪いということは完全とは言えない」などと言えることから、良い物事、悪い物事は、深く観察すれば、あることが良い物事、悪い物事と言われていたが、我欲からは逆となり、古き道徳からすれば元の通りと表現できる、といくらでも解釈可能である。そこで言えることは、世の己を含めた多くの存在の最大幸福のために解釈のジレンマを出来る限り良く整理整頓すべきである。これは、善悪の彼岸を戻って、自分の謙虚な最大幸福と道徳の両方を尊重することであり、これはある意味善悪の一部となる、この観点が、私とニーチェで考え方に差異があるところである。
 自分自身が客観について詳しく知っていれば、成長した自分からは、一人よがりの解釈からはある程度解放され、出来る限り多くの総合観点から物事を捉えることが可能となる。
 物事はいかようにも解釈かのうである、その解釈を最大幸福のために行えば、解釈に縛られるということから解放される、そして価値も最大幸福のためにそれを整理すればそこから解放される、そして言葉を尽くす、ということによって、大きな価値判断から自分をある程度開放可能である。解釈を出来る限り正しい言葉使用によって行うことによって、多くの事象は、ましな始末が可能となる。これらのことによって、ジレンマから出来る限り逃れて多くの幸福に貢献可能である。


 15   自分自身には成長した自分とありのままの自分がある

 自分がどういうものかを理解する場合は、成長した自分とありのままの自分がある、自分が良い性質に成長出来なかった場合は、成長した自分が嫌いであり、ありのままの自分を好み、ありのままの自分に固執しがちになる、一方で自分が良い性質に成長できた場合は成長した自分を好み、それが理由となってありのままの自分は尊重する人もいれば、ありのままの自分などには全く無関心である場合もある、良い性質に成長できた場合は、ありのままの自分の先天性がある程度ましであったと言える、良く成長できたという点で、そしてありのままの自分に無関心な者は、ありのままの自分を忘れてしまいがちであり、自分自身の真実性を深く知っている状況からは程遠くなりがちである、しかし、自分の先天性がさほど良くなくて、多く成長した者はありのままの自分に無関心となりがちである、という気持ちもわかる、その人間は救われるべきである、そこで、出来る限りの平等に向かう格差是正というものが必要となってくる。自分の真実性について深く知るためには、自分の人生の記憶とそこからの過去の感覚と今の自分の思考状況を知り、多感であり、そこから今の自分に詳しい、というようでなければならない、それらはどう努力してもましにはなれない。それらがましであっても不幸であることが多くある、それらの先天性の多くがましであっても、元気さが無い、貧乏、人並み外ということはある、元気さが無いということは楽では無く苦痛である。それでも自分がましであったと思えてくる人間にはそのれっきとした証拠を持っていても、人気が無い、という点で不幸である、という場合もある。人気の多くが普通か普通じゃないかの評価で成立している。価値が高いかもしれない、と思っても普通じゃないから、ということが理由で低評価を下している人もいる、それらの人はある面では冷たくて、自分が常識的である、ということに熱いことが多い、そういう人達には聞きたい、常識的で人並みということに情熱的で、それらによって子供達・大切な人々に関わっているならば、それらの人々と自分の関係は凍えるように寒いばかりである、ということである、そんな人生をただ生き抜くためだけに生きているのである、より深く高い幸せを求めること無く。しかしそれらの人々もそれが精一杯であるというならば同情の余地はある、同情はその対象者を憤怒させることもある、しかしそれを超えて互いが理解して行き、近付いて行く、しかし多くの常識人は、上辺でせせら笑うならまだましか、このようなことをのたまう人間とは全く無関係である、という事を決断する、決断とは、何かの切り捨てであり、何かの偏ったことの幸せを適えることである。
 常識的なことは必要である、しかし常識を持つ人間に愛は無い、現代の愛は絶対的だからである、そして常識とはあまり良いやり方では無いから、それらを持ち出すことは多くの人々を不幸のままにしておく、当然私も常識は持つ、私の文章は常識を考慮している、しかし、常識的でありつつももっと深い出来る限り最大限の幸福を志向している。
 自分の魂を高みにあげるために常識に多く頼る者は、適当に物事を済ませていることからは逃れられない、それらの者は深い幸せとは遠縁だ、しかし常識をあまり用いずにより良き事を目指している者は深い幸せとは関連性を持つが、深い不幸とも関連性がある、しかし深い不幸をもろともしない情熱も持ち合わせている、その面ではガッツがある。常識に多く頼てばかりいる者は、適当だから、自分の魂をも適当にしか高くすることは出来ない、しかしそこにおいては適当である、ということに我慢する、という不幸が実在する、しかしそれらの不幸を習慣によって紛らわせることによってそれらの不幸を軽減している、そしてそんな生き方はある観点からすれば賢い。そのように多くのことは自由自在に解釈可能である、自由?そう、常識人は自由が少ない、そして何よりリスクを背負う勇気が無い。武士は死というリスクを背負い勇気があった、リスクを背負う勇者は新しい時代の武士だ、先祖が武士であろうが何であろうがそんなことはどうでもいい、そんなどうでもいいこととは無関係に、リスクを背負う勇者は新しい時代の武士なんだ。


 16   不機嫌

 ほとんどの人々が不機嫌である、一度不機嫌を爆発させてみないか?それは常識人にはできない、多くの常識人は人々を上辺で褒め称えるということから逃れられないから。そして戦後現在に近付くにつれて、その傾向は強くなってきた、褒め称えられてばかりの環境で育った人々は、不機嫌を爆発されることに耐えられない、その点では多くの人々は褒め称え上げるということ・プラス思考によってがんじがらめだ。プラス思考もじっくり反省して、自分をまだまだ低いと感じたならば、自分を直視するというマイナス思考も受け入れなければならない。不満が表明されたならば、それの解決方法はある、その不満の表明者が上司であり、大したことが無いならば、部下は、その不満の表明は受け入れられない旨を決然と表明すべきである、しかし、その表明が説得力が無いならば、その点は逆に上司に指摘されてしまう、しかしその場合は、上司が有能であり、部下の幸せと上司の幸せを適えることが可能なより良き解決策を提示することが望まれる。上司が悪いならば突き上げは必要である、それは大きく会社をよりよく改善することに繋がる。しかし多くの上司は、自分も会社の悪い部分は感じつつも、それに従い長い年数働いて来た、ということが理由となって、部下の突き上げを受け入れることを拒絶する、このようにして、部下は上辺だけでは上司を褒め称え上げるということにますますがんじがらめになって行き、上司は自分も厳しくされて来たのだから、それに改善すべき悪しき部分が存在しているにも関わらずに、昔自分が部下であったときにそのころの上司に厳しくされていた改善すべき点が存在していることに従う。まずは上司は話し合いで解決できる見通しが無いならば、不満はぶちまけるべきではない、しかし部下と話し合いで解決できたならば、そこで成功した上司は、長年我慢してやってきた同僚他さらに上の上司とは敵対することになってしまう、そこで、会社というものは旧弊から逃れられずに旧弊をいつまでも続けることとなってしまう、それが会社員は常識的に生きることの原因であるとも言える。


 17   自己顕示欲

 自己顕示欲というものは無能な人間は極力控えるべきである、そして自分、自分の大切な人々、日本全国の人々、世界中の人々のため─その力の入れ具合は当然後者になって行くつれて薄くなって行く─になることに誠実に振舞うべきである、しかし自分の性質が悪い人間はそう一筋縄には行かない、無能な人間は自己顕示欲に従いありのままを自慢すると、虚栄心を露にしたということで小ばかにされてしまう、自己顕示欲に従い偽る者は話にならない、偽る者はありのままのじぶんである、という全く安らかな状況であるという幸せを捨て去り、つねにびくびくする、ということにがんじがらめになる、そして、偽りに関連することに答えられなければ、相手に疑問視され、それが積み重なると嘘は結局はばれてしまう、誇大表現も嘘の部類に入る。しかし正直な自己顕示欲に忠実であり、自分の欲求に正直に努力することは大いに結構なことであろう、そこでは自由に多くの人々と盛り上がるべきである、そこでは無能な人間は自己顕示欲というものを使わずに─というか使う武器が無い─気さくである、忠誠であるということで戦うべきである、しかしそれらは実は自己顕示欲の武器の部類に属するが派手さが無いということで自己顕示欲の武器としてはその面では価値が低いが、それを好み尊重する者もいることは確かだ。
 自己顕示欲の武器として評価が高いのは年収である。イケメン・美人は、努力せずに自己顕示欲を高く満足させることができる。見た目的に、あまり良くない者は、自分とは逆の性質の者を求めると、自分の欲求を高く適えて、見た目的にいい子供が生まれる、見た目的にあまり良くない者が、芸能界で美人とされるような容貌の者を求めると多くのことが不幸となる。学歴も自己顕示欲の武器としては高いアイテムである。
 自己顕示欲の高い人間の多くがそこに居合わせる多くの人々を競争相手であると考える。それぞれが別の自己顕示欲の武器で競ったならば、それぞれの人々はそれぞれがそれぞれに目立ちそれがパーティーならばそれは盛り上がる。
 しかし自己顕示欲の最大の武器は言葉である、言葉で面白く有用なことを書く執筆家はその執筆物を人々に示すことで自己顕示欲を満たし、先立つものを手に入れ、おまけに果ては権力さえ手に入れる。
 有能な者が自己顕示欲に忠実に振舞うと、そこに居合わせる無能な者は、嫉視から評価を示さず、無視し、それをないがしろに扱おうとする、そして人気というものの要素の多くは無能な者の嫉視によって構成されている、その問題は出来る限り解決されるべきである、人気の多くは無難ということでもある。人気イコール全て価値が高いこと、ということになることは難しい、そこで、価値が高い者は、当然改善不可能な種類の価値が低い人々の幸せも適える能力が必要となる、無難に褒め上げるということは、実は改善不可能な種類の不幸者を安心させる、改善不可能な種類の不幸者のほとんどの者達が、正直な価値評価を受け入れ不可能である、努力でいっぱいいっぱいの人間の多くも正直な価値評価を受け入れ不可能である。しかし努力でいっぱいいっぱいの人間は正直な価値評価が自分自身の価値を高めることであるならば、それは受け入れるべきである、受け入れるべきかどうかがわからない者は正直な価値評価によって改めるということを少しは試してみるべきである、それでましになるならば、それは受け入れ、それでましにならないならば、正直な価値評価者がその点においては無能であるということになる。


 18   好奇心

 好奇心にも種類がある、人々との多くを調和させたいと考えより高いことを考えない保守的人間の多くが常識的である、そのような人々の多くが好奇心が少ない、だから好奇なことを参考にしてそれを何か役立つことにしてみるということが少ない。調和を乱し自分勝手に振舞う人間は、その行為に対して好奇心を持つ、そのようにふるまう人間のある程度の人間はADHDである、それらの人間は救われるべきである、しかしそれらの人間の多くが大器晩成な者となる、しかしそれらの人間が多くが多くの事に常識外ということで果敢に無益な常識に反抗するために、それらのことで多くの過激な事件を経験し、それが理由となって、ある程度は物事に不感症となり、ある程度は諦めを伴う達観に辿り付き、多くの希望を失うということもあるのか、多くの場合は退屈に支配される、しかしADHDについては私は精神科の専門医ではないので、ここで記したADHDに関することの多くが推測であるということを読者の皆様には伝えておきます。
 好奇心は生かすべきである、好奇心を最大限に生かすことがまずは公を知る、ということである、科学に対して好奇心を持つこともいいだろう。多くの学校を転校した場合は、好奇心が旺盛な者の多くがその欲望を満たす、同時に不自由という苦痛も味わうが、そして普通ということに対する好奇心も満たそうとする、そして高学歴とスポーツに対する好奇心も満たし、さらに恵まれているならば、特別であるということに対する好奇心を満たし、複数の場における経験を満たし、大企業の社員という好奇心も満たそうとする、それらの好奇心を満たし、さらに欲深い者は、意義深い創造的表現者となることを目指す。
 いろいろな事柄に首を突っ込むとそれらに関する知識は増える、そこで考えるべきことが、ありのままの自分を出来る限り生かしつつ様々な経験を積むか、まだ価値評価が出来ないうちから読書によって学びそれらの受け売りを行うかどうかだが、私の場合は文章表現は好きであったが、読書は嫌いであった、そこで読書から学びそれに従うということから逃れ、書物以外の広い現実世界において経験によって成長することとなった、そこでありのままの自分が温存されつつ、一番新しい社会における経験から成長することとなった、そして先程述べた多くの好奇心の対象を経験したことで、私は私が満足できる程に成長した。しかし読書嫌いが大学受験で大きく響いた、私は高校時代のほとんどを遊びほうけていて、一年で猛勉強して志望大学を目指したのであるが、一年の猛勉強では国語という科目はあまり芳しく成績が上がることが無かった、そこで私は志望大学への合格は適えたものの、志望大学で一番難関であり、父が所属していた学部への入学は果たせなかった、しかし様々な好奇心の対象の経験によって、満足できるだけの成長が出来て、志望大学にも入れたから私としては万々歳である。
 空虚さを埋め合わせるということは好奇心では無い、悲しいかな、好奇心も先天的性質の一種であるから、好奇心が無い者が好奇心を語る資格は無い。しかし好奇心を多く持ち合わせ様々なことを行った人間の表現は面白いから、それによって好奇心が少ない者でも多く楽しみ、それらを自らの肥やしとすることは出来る。
 人間は世界の全てを見聞き出来ない、しかし好奇心によって様々に多くの物事を経験した者は、かなり多くのことを経験したこととなる、後はその人間に推測能力が備わっているかどうかが問題となる、それが具わっている場合は世界の全てを見聞き出来なくても、大方のことはかなり的確に推測可能となる、好奇心によって得た多くの事柄に関係する知識を元にして、推測の能力も駆使しつつ、意義深い創造に辿りつける可能性は高い。
 若いときに自分の道を決定してしまった場合は大きく活躍できることから離れ、それは自分自身の道を狭めてしまうことでもある、しかしその方法を取ることは賢いとは言える。しかし賢いとある人が考えていることは違う観点からの解釈次第によっては堅牢、ということとなってしまう。


 19   恐怖心

 恐怖心のある程度は先天的性質からもたらされる、それは自分の内部から生み出されることであるが、ある程度は後天的に外部の事象が誘因となってもたらされる、それは外部から植え付けられることである。
 多くの悪は恐怖心からもたらされるが、それらの悪はある人々からは善であり、ある人々からは悪である、それらは解釈によっても善となるケースとして数え上げることが可能となる。例えば狼は西洋では多くの場合は恐怖心を伴って悪とされるが日本では善とされる。
 多くの恐怖心は先天的性質によってもたらされる、後天的性質によってもたらされる割合はかなり少ない。
 アメリカのイスラム諸国に対する嫌悪は、多くは恐怖心からもたらされている。しかし両者は互いが一神教であるかぎりは根本解決は理論的には不可能である、それよりましなことは両者の相手に対する侮蔑を伴った共存である。しかし相互不可侵による一神教支持から、一神教は建前としつつ、実質的にはそれぞれの宗教を認めるといった好ましい状況の実現は可能である、現に欧米キリスト教諸国と、多神教を信仰している日本とは、友好関係である、ということで、実質的共存共栄を実現している。
 多くの恐怖心は恐怖の対象が恐怖ではないことを示すことによってもたらされる、そして多くの恐怖心はパニックから誇大に恐怖心を抱き、一部の恐怖の対象を、全ての恐怖の対象とみなしてしまったりしている。それは長い歴史による互いの殺戮も要因となっていることが解決を難しくしている。
 恐怖心を解決する方法の一つが、恐怖の対象が、リアルな恐怖であるのかそうではないのかを安全な方法によって確認することである。そこで有用となるのは言葉の駆使である。多くの場合相手に対して寛大になる、もしくは仲良くなりたいと表明することによって、恐怖の対象はそうでは無くなる。
 言葉表現において短い言葉で言い切ってしまうことは、的確な例外の提示によって、そうとは限らないから完全にそうとは言い切れない、ということで否定されてしまう。アリストテレスの多くの文章はその方法で否定されてしまう、そこでアリストテレスを尊重するヘーゲルも否定されてしまうこととなってしまう、おおくのことは活用可能であるということでそれらの著者は感謝の対象となるが。


 20   「ために」

 複数の対象に対する「ために」を志向し、それらに対する重用を出来る限り適したように濃く薄く扱うと、それは歴史上、一番発展した形で進歩をもたらすことが可能となる場合がある。
 まずは出来る限りの史上最大の幸福の実現のためには、自分自身の「ため」を自分にとって最大に重用する、それはできる限り謙虚な大きさにとどめるのがいい、そうすると全世界の幸福からすればかなり小さな幸せとなる、そして自分の大切な人々を一番大切な人から順に尊重し少しずつその重用の濃度を薄くして、それらの人々の「ため」を志向する、それは大切な人々から順に自分自身の幸せに大きく関連しているからである、その順番は自分との現実的関わりから順番は変わる、そして同国人の「ため」を志向する、それは広く薄く重用するのである、そして世界中の人々の「ため」を志向する、それは同国人よりもさらに広く薄く重用するのである、そしてなぜ同国人と世界中の人々の「ため」を志向するのか、それは自分の客観育成のために重要であるからである、客観に対する知識を深め自分自身を成長させるのである、さらに同国人と世界中の人々の幸せは、自分の幸せに大きく関わっているからである。それらの「ため」を志向しつつ、改善すべき部分は改善すべきこととして示して、世界中のさらなる発展を求めるのである、ある個人が示した改善すべきことが示されればそれを元にして、それよりもよりよい改善策を他の誰かが示すことが可能となる、ある個人が示した改善策よりもよりよい改善策が示されれば、それらを採用すべきである、その場合は、ある個人をヒントとしてある組織がよりよい改善策を示すことが考えられる、最大限に考えられることが、多くの組織の連合体がときには建設的議論を介して、ときには共同によりよい改善策を示すことが考えられる、その場合はそれらの組織の連合体の批判組織も必要となる、それらの組織の連合体と批判組織とも充分な建設的議論を行うのである、そこにおいては時代においては最善の策が出現し、それ以上の策がしばらく出現しない状況が続けば、その策は実行すべき策と判断すべき史上最高の一番適した策ということとなり、それを断行するのである。しかしそのためのねたとなる大きな発明を私は5つ持っている、組織の連合体はそれの実現のために世界の科学の叡智を結集させ、実務処理をして、それを出来る限り早期に実現して欲しい。
 しかしこの考えのライバルが絶対愛の信奉者である、多くの人々に関わってそれぞれを大切にすべき私達人間にとってそれぞれを適宜な量で大切にすべきであり、それが現実的なことである。絶対愛はそれ以外の人間の全否定ということが理論的に言えることである。
 しかしここで言えることはそれらの複数の「ため」を志向し、多くのことの改善を目指し、それらを執筆によって為すものは貪欲である、しかし人間である以上どんな人々も私的欲求からは逃れられない、というのが実情ではないか?


 21   努力

 ある程度の努力は失敗し、ある程度の努力は成功する、それはある程度の先天的特質と後天的経験によってもたらされる、しかし失敗は成功の糧とすることは可能であるし、成功はそれを成し遂げたものが慢心し、多くの成功の維持を怠れば失敗に転ずる、そこで言えることは人々はそれぞれに分相応の幸せを求めるべきであるということである、私の分相応は、元気が無いということでかなり苦痛であるのである、それは先天的欠陥によってもたらされている、さらに少し悪いことをやったということも先天的欠陥によってもたらされている。元気で楽して生きていける人達はそこにおいては私よりも幸せである、しかしそれぞれの人々は、様々な種類で大小の不幸を持っている。そして全ての人々の分相応は平等であるとすることが相応しい、その理由はそれぞれの分相応の価値の絶対量など量ることができないからである、そして分相応の人間は優秀な子孫を作り出して行くことで、優秀な祖先として祭られることで大きな名誉が与えられることもあるからである、私は結婚と子孫を作ることはほとんど諦めなければならない状況である、そして先天的特質と先天的特質によって制限される後天性の問題はそのほとんどは解決不可能だからである、誰もが望んでそれぞれの特質を持つ人間に生まれたわけでは無い。そしてできるかぎりそれぞれの人々を尊重することが相応しいからである、新約聖書における愛はそれぞれの対象者に適宜な量が分配された、その種類の愛ならば私にだってある、とは思ったが、悪いことを行ったことがある、ということにおいてその愛も私には無いのかもしれない。そして現実的にも出来る限りの平等が達成されることが望ましくそのための金銭的格差是正が求められる、しかし多くの金銭を持ち合わせる人々の幸せは出来る限り減らないことが望ましい、その場合は減る金銭に相応しい量の別の種類の幸せが与えられるべきである。


 22   友人

 私にとって友人はある程度しか必要が無かった、というか大学卒業以降は友人を作ることは出来なかった、その理由はその機会が無かったし、その能力も私には無かったからである、学校では同学年の人間達が皆平等であり、同郷に住んでいるということで多くを共感できたからである。学校卒業以降は忙しい仕事のために友人を作る暇が無かった。友人では無くても、やりとりを交わした人間達からは、それらの人間の言動によってより深い経験が与えられることが重要であり、その点で友人が必要では無かったことがあり、同い年の人間と一緒になることが皆無であったからである、とは思ったものの、ある長期アルバイトにおいては親しい仲間はいた、しかしそれらの人間とかなり高いレベルで己の胸襟を開いて打ち解けあうことが無かったから、彼らを友人と言うことは相応しく無い。そして私は大学時代、かなりもろに自分を深く人々に示していたのであるが、私の先天的欠陥が原因で、友人にかなり無理な不幸に付き合わせたことが、原因でその友人にはその不幸の10倍ぐらいの復讐をされた。私は先天的欠陥からかなり裏表が激しかった、そしてくだらないことを多くの友人に話していた、そして大勢の面前で適宜なことを適宜に話す能力が欠落していた、その多くの要因が私は元々が批判者である、ということであった、その学校ではある組織に所属していた、私はNo.2であったが実質的No.1であった、そしてNo.1はかなり、私がかなりの不幸を与えた人間と結託し、私を不幸に貶めた。その多くは私の欠陥に対する当てこすりとか、各種様々なことであった、私が実質的No.1であった理由はその組織の幸せに出来る限りのことを行っていたからであるということも多少はあるが、あることで私はとてつもなく特別に恵まれていたからであった、それ以外に多くの大小様々なことで私は恵まれていた、それに対する嫉視から、彼らは私の不幸を実現した。しかしその組織に所属していたのはもう20年前であるが、私がその気になれば、そいつらを不幸にするだけのそれらの敵以上の多数の仲間を温存している、が今はその必要は無い。そして私は小学校2校にいて、それらの学区外の中学校にいて、またそことは別の地域の高校にいて、その後の学校にいたことがあった。それらの人脈は活用可能な状況であるが、今はその人脈は必要では無い。


 23   持ち家

 私が持ち家を持つことはほとんど不可能であろう。それだけの金銭が私に与えられることはほとんど無いであろう、しかしそれを得る一縷の希望はある、その一縷の希望を目指し私は活動しているが、私は好きなことで活動できるということで今のところは幸せだが、将来はかなり不安である。
 まずは私は方々の国々を旅する必要が無かった、かつ不可能であった。方々の国々で日常生活を語る外国語を語る能力が欠如していたし、それらの機会をどうやって得ればいいのかも解らなかった。そして偶然に出会う少数の外国人とのやりとりによって、その外国を評価するよりも俯瞰から眺める外国の情報によって、外国を知ることの方が適宜であると思ったし、何よりも一番レスペクトしていた国を旅行した際に、その国のある人に、ここでも後から思い起こせば私の多少の先天的欠陥から、怒鳴りつけられたことによって(その当時はその理由が解らなかった)、その国で現実的に暮らす人とは意地悪なのだ、と当時は考えることによって、その国の人間に失望していたことがある程度の原因となった、しかしその外国の人が私に対して怒鳴りつけたことも今となってはよくわかる。
 それ以上に私は私が第一志望の学校に入学できたこと、とてつもなく恵まれたある特別なこと、それ以外の多くの恵まれたことを理由に私はその学校に合格したときに、生まれたからには、史上最高に素晴らしいことをやってやろうと決意した、そこで重視すべきは第一に日本の内政と第二に重視すべきは諸東アジア諸国との関係改善であり、私の代では私はそれ以外の先進国と下手に関わる暇が無いと本気で考えたからである、今でも史上最高に素晴らしいことをやってやろうという気持ちは変わらない、多くの人々はそんな私を小ばかにした気持ちをもってして大笑いするであろう。それに対しては私は安定した気持ちを維持できる寛容さが具わっている。


 24 豊かさ

 まずは同じものは大量にある場合がある。
 そして豊かであるということについて私はある程度は関心があるがそれ以上は関心が無く、必要が無い。ある程度自分の分際よりもかなり謙虚な量の豊かさを得ることが出来たならばそれで満足である。それを元に私の一番大切な人をまずは充分に満足させたい、必要ならば、今のところは二番目に大切な人が生きるために必要な分の富を差し上げたい、その富を元に私が幸せに生きられるようにしたい、それ以上に余裕があれば、結婚したい、結婚相手にはその人物が満足できるだけの富を実現したい、そして子供は私が適えられた最高学歴までにかかる費用を充分に与えられるだけの富を実現したい。しかし私は妻は世の中で二番目に大切なものとする、だけどとてつもなく幸せにすることを約束する、そのかわりに、妻も私を二番目に大切な人間とし、その妻は生まれて来る子供を世界で一番大切な人として欲しい。だけどもう私は自分の子供を産めるだけの能力が無いかもしれない。