自分のことは客観的にとらえるべし
自分のことは客観的にとらえるべし。そして自分が大した人間では無いと感じたならば、そこから日々努力し、大きな人間になることを求めよ。しかし努力したからといって、大きな人間になれない人間もいるだろう、努力すらできない人間もいるであろう、そのような人間の根本救済が求められる、そのためには何が必要か?妄想を生まない、犯罪を生まない覚醒剤の発明が求められる。しかしそのようなものは世の中には無い。そこで言えることは、この世の中、やる気が無い者、どうやってもやる気が生まれない者、できない者は、決して救われないということである、そのような者はあの世があることを信じ、生きている自分にとって好ましいことに命を懸けて死ぬことが望ましい。そうしたならば、あわよくばこの世において活路が生み出されるかもしれない。そこで先ほど言った事を言い直せば、人間に生まれたならば、できる限り死ぬ気になって物事に取り組め、ということである。人間の平均値に合わせるのではなくて、できる限り死ぬ気になって取り組むのである。しかし死ぬ気になって生きるのはつらい、そうであるからして、先程言った特徴を持った人間は、楽しつつ自分に対する劣等感を我慢し、生きるのが無難なこととなるのであろう。しかし言える事は、人間は一週間死ぬ気になって努力すれば、大抵の事については慣れる、ということである。慣れると、その一週間でつらかったことが楽になる、そうすれば、それまで努力と思えたことが、難無く出来るようになる、そうすると、人はその人なりに分際に合った分だけ成長することができるようになる。
そこで言えることは、そのように生きた人間は日々成長し、人間性の発展においては、20代から30代の壁を越えて、老齢になるまで発展できる可能性が出てくる、ということである。現に私はそのような生活を送って来たが、老齢になるにつれて自分の能力が大きくなって来ていることを感じる。
自分のことは大したことが無いと考えると、自分以外の者に対する尊敬の念が育まれる、そうするとその人は、多くの人々に物腰の柔らかい人であると思われ、人気が出る、それは謙譲の精神に他ならない。しかしその人間の心が謙譲の精神に耐えられない場合は、劣等感で押しつぶされてしまうし、単純に自分自身を、単純に自分のことは大したことが無いと考えることは、自分自身を正確に捉える、という学問的欲求からもかけ離れる。そこで繰り返し言うこととなるが、人間は、自分のことは客観的に捉えることが最もバランスが良いこととなる。
自分が実績も無いのに自分の事を尊敬して考えることは、高慢になり、優れた他者を見失う、ということにおいて、単純にそういうわけには行かない、ということになるであろう。
自分の行動や考え方をがんじがらめに縛ってしまうことから逃れるためには
自分の行動や考え方をがんじがらめに縛ってしまうことから逃れるためには、自分とは、世の中的にはどの程度であるかを、出来る限り客観的に捉えつつ、気付くことに専念すべきである。しかし世の中には気付くことに専念できない人間も多い、そういう人間は、コーヒーを飲むことと、死ぬ気で物事を行う事を勧める、死ぬ気で一週間努力してみるのもいいであろう、そうすると前節で言ったように、苦しい努力が辛く無くなり、それを己の習慣とすることが可能となる。
悪いことをしなくて済むためには
悪い事をする前に、懲役と禁固がどれほどに辛いものかを考えるべきである。そして自分自身の楽のために悪い事をすることは止めるべきである。そして日常生活の中で楽しみを見つけ、出来る限り、その楽しみを多くできるようになるためにはどのようにすべきかを見出すべきである。そのためにはどうすればいいか?鬱病患者の特徴をメモし、自分の症状がそのような状況であることを精神科医に告げ、鬱病である、という診断書を、その精神科医に書かせ、それを理由に仕事が出来ない旨を役所のケースワーカーに告げ、生活保護を受け取る、ということがまずは考えられる。しかし、この考え方は公俗良序に反するために良くは無いが、その道でプロとなり、早いうちに生活保護をもらわずしても自活できる道を目指すべきである。そこで一般的に言えることは、コーヒーを飲むことと、必死になって仕事をやり、休暇に好きな事をやることである、仕事が順調にはかどって行けば仕事を減らして休暇を多くすることを目指すべきである。それ以前に生活保護を貰わずして、また自分が好きでもない仕事をせずに自活できるようになるために言えることは、子供のうちに自分は将来的には何をやりたいのかを見出しそれに打ち込むことが大切である。私の場合は好きな仕事自体が文章を書くことであったので、文章家になるためにはどうすべきかを追い求めた、そこで考えたことが、出来る限り、公というものに詳しくなるために多くの経験を為し、一定の学問的成果を収めることであった。しかしこれらの考え方は、人並みに暮らせればいい、という人間にとってはどうでもいいことである、人並みに暮らしたいならば、サラリーマンになり、結婚し、家庭を築き、子を産み、そのささやかな生活の中で充分に幸せを感じられる性質なのであればそれでいいであろう。多くの金が欲しい人間は、自分の限界はどの程度かを知り、自分に合った最大限に適した形で多くの金をもらうことを目指すべきである、しかし多くの金が欲しい人間に言いたいことは、金では買えないものもある、ということである。そこで言えることは、人間は、言葉で思い浮かぶ単一的概念で物事を考え、何がいいかを考え、実行することを超えて、出来る限り多くのことで、バランス良く幸せになることを考えて行動すべきである、ということである。
人に軽蔑されずに済むためには
人に軽蔑されずに済むためには、まずは、人々の平均像というものを考えて、その平均像の人間に軽蔑されないように振舞うことが考えられる、人々の平均像というもので物事を考える、ということは、常識を追う、ということになる。今のところ常識とは、概念的であり、単一的に大衆に指示されるものである。しかし常識と現実とは違う。常識を超えるためには、人々とはどういう種類のものかを出来る限り知る経験を積み、出来る限り多くの人間の人間性とはどのようなものかを知るべきである。それを行えば、巧みな表現者になることが可能となる、それ以上に才能に恵まれた人間は巧みな創造者になることが可能となる。
生き方を変える
生き方を変える必要性が生じるならば、その前提としては、それまでの人生が悪かったことが考えられる。それまでの人生が悪かった、ということに大勢の人間がなる以前に、教育が必要となる、多くの教育は言葉の駆使によってもたらされる。小学校の低学年の頃の国語教育では、そのような実利に適う道徳教育が必要となる、究極的実利に適う道徳教育とは、現世でも宗教的にも幸せになることである、そして己自身と己と己の大切な人々と公俗良序のためのことを兼ね備えていなければならない、過去の道徳教育は、己を越えて公俗良序のために誠心誠意尽くすことを求めていた、公俗良序のためとは、すなわち国のためであった。そこにおいては己の幸せを一切省みない、ということが欠点であった。
自分の評判を気にしないためには
自分の評判を気にしないためには、あまり良いやり方ではないことが、自分の気分を紛らわせることである、自分の気分を紛らわせるならば、自分に実力をつけることに努力すべきである。実力とは、世に認められること、自分の好きなことが出来るようになること、金儲けができるようになること、自分の大切な人を振り向かせることなどがあるが、多くの概念的なことをバランス良く適えることを目指すべきであろう。他人に実力が無い場合は、その他人の評判など、どうでも良いこととなる、それでは現状の世の中では人々はどのようであろうか?現状の世の中では、人々は常識をよしとし、常識的に振舞ってはいるが、実は心の底では様々に違う事を考え、人々の能力は千差万別である、というところである。多くの人々は実は最高に幸せな事を行っているわけでは無いが、多くの幸せが人並みに生きる、ということであるので人並みに生きている、というところが実情である。私が多くの人間に言いたいことは、人並みである、という常識的な決して最高ではない幸せを超えて、リスクを背負い、もっと高い幸せを追い求めろ、ということである、そういうのは、私自身がリスクを背負いより高い幸せを追ったからである。そうすれば、より高い自尊心・独自に素晴らしいという幸せを満たせる。とは言うものの、人の幸せとは、人気と表裏一帯である面がある、常識とは人気と高い関連性を持つ。であるからして人は、人々に認められる独自に素晴らしい新しい人間となることを求めるべきである、そのためには、やはり常識は必要ではあるが、常識的に生きたからと言って、それそのものが素晴らしいとは限らない。常識的でありつつ、であるからして一定の人気があり、独自に素晴らしく新しく創造的な高みがあるから、より人気が高いという状況を追い求めるべきである。
人は評判をある程度は考慮し、聞き耳を立て、自分を改善すべきである。人は様々なことを総合的に行うべきである、そのためには、人は、ある程度Aであり、ある程度非Aである、という状況であることを行うのが良い。人々には間違った評価をする者もいれば、ごく的確に評価する者もいる。自分が思うように、自分が望むように評価してもらうためには人は熟達しなければならない、自分が思うように自分が望むように評価してもらうためには、人は平均的にはどのように考えるかと、それぞれにどのような人々が存在し、どのようなバリエーションで人々は存在するかの両方を知ることが必要となる、そうすれば、人は人々から一定の高評価を得ることが出来るようになる。
ふつう
ふつう、ということはどうでもいい、大切なのは、ふつうと、それぞれがどのようであるかを知ることである。
腹を立てる
腹を立てないように生きると、人々は安直になりがちである、腹立つことは、成長のための肥やしとして受け入れ、それを乗り越えるべきである。評判において気になる人間は、誰かに低評価を与えられて誰かに腹を立てる、ということは、誰かを高く評価していることに他ならないということに気付くべきであり、その誰かを高く評価せずに低く評価できるようになるためには、人間は成長しなければならない、成長して、低評価を下す人間を見下せるようになるべきである。
他人がどう思っているか
他人がどう思っているかということを気にすることは、人気を取るためには必要である、人気があることとは、多くの場合は褒め称えることである、しかしそれではあまりに単調すぎる、できれば、褒め称えつつアドバイスできればアドバイスすべきである。
肩書き
本当は嫌われているのに、肩書き的に尊重されている、見せかけの幸せから逃れるためには、本当に素晴らしいこととは何かを求めなければならない。本当に素晴らしいこととは何か?本当に素晴らしいこととは、自分自身の幸せを叶えてくれることである、自分自身の幸せとは、概念的に単一的に考えるのでは無くて、総合的に出来る限り多くのことで幸せなことを考えるべきである。人並みでいいと考える者はそれ以上のことを目指すべきである。それ以上のこととは、人気があること、自分が好きなこと、自尊心を満足させること、大金持ちになること、夢を叶えること(多くの場合夢は好きなことである)。人並みとは、常識を人気があることである、と捉え、それに自分を合わせて、人気者になった気分に浸ることでもある。
反省
反省することは必要である、反省しない者は一人よがりになる。反省するためには、正しいものは何かを知らなければならない、そのためには、最低限の道徳教育が必要となる、しかし現代には正しい現代の世の中に適した道徳教育、というものは無い、そこでそれらは構築されなければならない。正しいものは何かを知るためには、人は、人々の常識とはどのようなものかを知り、それぞれの人々とはどのようなものかを知り、人気者とはどのようなものかを知り、世の中的に上流の者とはどのようなものかを知らなければならない、世の中的に上流とは、身分的に高い者が考えられる、身分的に高いとは、多くの場合は多くの金を持っていることである、そして世の中的に上流とは高学歴なこともある。マスコミでは人気取りのために芸能人であり人気者は学歴は一切関係無いように扱っているが、その人気とは、多くの人々が中学歴・低学歴であるからであり、多くの人々は本心では高学歴に多くの羨みを持つ、しかし多くの人々はそれを知っていつつ、世の扱う人気というものに迎合しているのである、その迎合者の多くは中学歴・低学歴な者達であり、それらの人間達のことは卑屈と表現できる。世の人気の迎合者のある程度は高学歴者である、その多くの者達は、常識を尊重するが故にそのように振舞う。常識とはポピュラーと表裏一体である。
反省して自分のアラが見つかった場合は、それを改良すべきである、改良することは難しい、そして鬱に陥ってしまうことさえある、鬱に陥ってしまった場合は、自分を克服しなければならない、自分を腹立たしく感じたならば、それを自分を改良するエネルギーとすべきである。多くの場合は人々は自分を改良するよりもありのままの自分でいたいと思うものであろう、自分自身に得意分野があり、それで生きて行く自信があるならば、自分を改良する必要は無い、しかし得意分野が何も無く、自分が多くの場合並み以下の場合は自分を改良し幸せを目指すことが自分のためである。
心の底から疲れたとき
心の底から疲れることは多くの人々の場合は無い、多くの人々は心の底から疲れる以前に一日が終了する。勉強を一日中やっても心の底から疲れるということは無い。多くの人間はガリ勉すればある程度ましな大学に行くことが出来るであろう、そして多くの場合は、低偏差値の原因は何も勉強しないからである、何も勉強しないのに偏差値50程度の人間は、小学生の頃から一日中勉強をすれば、ほとんど皆東大に行けるであろう。一日中勉強するということは辛い、しかしどんなに辛いことも、一週間習慣として続ければ、ほとんどのことは、それを習慣として克服できるであろう。
不幸でつらいことは、一日が過ぎるのがとてつもなく長くて退屈で、何もやる気が起きないことだ、そのような人間は程よく疲れることが出来ずに不幸だ。心の底から疲れることが出来る人間と疲れることが出来ずに一日がとてつもなく長く感じる人間、どちらが不幸かといえば後者である。
表現方法
自己表現とは自分の力を表すことである場合もあるが、ライバルに対してライバルを怯ませるために自分を無能に見せることであったりもする。子供は想像力に満ち溢れていると言われるが本当はそうでは無い、老齢の方が自己表現はうまい、しかし多くの経験をせずに成長せずに老齢になった人間は自己表現がうまくない、その場合は、20代30代で成長は止まる。
愛し慈しむ場合は、多くの場合はその人間に好かれたいからである、しかしそれが出来ない人間がいる、その場合は相手をけなし、いじめ、だめにしてしまう、しかし相手に根性がある場合もしくは、それを行った人間を相手が低く見くびり勝てると考え反抗した場合はやり返される、多くの場合は怨念を持たれ長期的に仕返しを受けたりする、だから、相手が愛し慈しむべき相手では無い場合でも、愛し慈しむふりをしている方が無難なのかもしれない、しかしそれではつまらない、つまらない場合は、実力をつける必要がある、その実力とは多くの場合は、多弁で相手を黙らせてしまう能力である。多弁で相手が黙らざるを得なくなる場合は、多くの場合は、その人間に従うことになる、意地悪になり反抗し続ける場合もある。しかしその実力は、社会人として生きると、肩書き・役職・年功序列という習慣によって、表現することを抑制される場合がほとんどである。表現方法においては芸能人として生きる場合は、多くの場合は面白いことを言うことだけが重視される、役に立つことを言っても多くの場合は評価されない。道徳教育とは、真に役に立つことでなければならない。常識的・当たり前と思われている事を表現した場合は多くの人にはくだらないと思われるが、反面共感され人気が出る場合がある。
一芸
一芸に秀でその一芸で生きることと、自分が好きなことで生きること、どちらが素敵かと言えば自分が好きなことで生きることである、しかし、自分が好きなことで、一級になれなければその道では生きては行けないのが実情である。一芸に秀でるためにはまずは己に打ち勝つことが必要である、その後にライバルとの対決がある、とは言ったものの、ライバルに打ち勝つことは己に打ち勝つことの延長でもある。一芸を既存では無いこととして考え出したならば、それはその人だけのものとはなるが、それで素晴らしいこと、というものを創出することは難しい。今のうちに言っておくが、言葉で物事を解決し、労働で物事を解決し、金で物事を解決するこの世の中では、ほとんどの場合はありきたりのことしか思いつかない、もう人間史は、人間の能力の飛躍的成長のためにはあまりにも長すぎて、人間は人間の能力からして今後退屈を超えて飛躍的に発展することはほとんど無いかもしれない。しかしそれはあまりに悲観的過ぎるので、一応人間には飛躍的に発展する希望はある、と言っておこう。希望は多くの場合は未来にある、しかし悲しいかな未来に人間は老いる。
一芸には幼年の頃に辿り着ける場合と、老齢になって辿り着ける場合がある、多くの場合は、一芸に幼年の頃に辿り着けるのは、その人間に才能があるからであって、老齢になって一芸に辿り着けるのは多くの経験による。
多くの人間にとっては、自分自身に本領が見つからない、その場合は好きな事を続けるべきか、諦めてその辺の企業に就職すべきか、そのどちらが幸せかはケース・バイ・ケースである。
自分の本領が何かを自分の力のみで見つけられる場合はその人には才能があった、ということになる、世間の反応を見ながら、自分の本領は何かを見出す場合は、多くの場合は、その人本人に表現力が元々あったことになる、その場合はその人は意義深いことが言える人間である、ということになる。
自分の一芸は果敢に挑戦し続ければわかる、多くの場合は、常識的に生きることが自分の一芸である、ということを見出すことになる、しかし芸は無くとも自分自身の好きなことを重ねて行くという道もある、その好きなことが、言葉における表現である場合は、その批判者が救いとなる場合がある、批判者がいる場合は、多くの場合、その意向に添う形のものを作り出せば良いものとなる、しかし表現していることが全く的を得ていてオリジナルで今まで表現されたことで無いことなのに退屈に受け取られてしまうことがある、言葉で表現できることは、奇抜ではあるがどうでもいいこと、的を得てはいるが退屈なこと、多くのことはその二通りに分けられる。人間は二通りのことを可能である、しかしその方法は秘密である、それは、自分自身で見つけたまえ。
自分の主人となること
自分の主人となることは、自分を駆使することである、一芸に秀でることは自分を駆使する場合ではなく、自分の道を敢えて狭め専心することであることがある、自分を駆使することで最高に幸せになるためには、自分に元々才能があり、努力しそのために元々やる気があり、多くの経験をしなければならない、それは総合的に多くの事で素晴らしいということであり、そうでなければならない。現在のところ表現において、一番有益なアイテムは言葉である、と私は考える、それは、多くの表現の根本が言葉によるものであることから私が考え付いたことである。言葉が根本であり、絵や動画が後に肉付けされることとなる。ある漫画があるとする、その場合、セリフ無しではあまりにもくだらない、しかし絵が無ければあまりにも味気ない、そして人間は聞こえること・絵・動画・文字によって多くのことを解釈する、この意味合いは次元として数え上げることも可能である程である、しかし悲しいかな、人間は、これ以上のことでものごとを解釈する能力が無い、その点において、現実世界は既に有限以下であって無限では無い。人間として生きている以上は、人間は、有限が無限にあることはあるが、その有限以上のことで無限である、ということは無い、それが人間の限界である。
自制ということでは限界を超えることは出来ない、限界を超えるためには、自制を超えて思い切りやらなければならない。
人間には多くのタイプの人間がいる、一日に必ず何かに気付ける人間がいれば、一日では何か自分にとって有用なことに気付けない人間もいる。一日に何か一つを断念する、それは多くの場合は一日に必ず何かに気付き、何かを決断するということである、しかし、言葉による表現者は、多くの場合は大きな決断が必要とはされない、どの単語を使って文章を書くかということは、それ自体が決断の一つではあるが、決して大きな決断では無い。
大きな決断は子供の頃に多くそれを行い、小さな決断は、老齢になって行う、それが多くの場合、子供に多くの想像力があり、老齢の人間には多くの想像力が無い、ということの原因となる。人間は多くの場合は幼年の頃に大きな決断をし、老齢になるにつれて小さな決断が出来るようになって行くそれが成長である、しかし、大学卒業時頃に大きな決断は待っている、その大きな決断のためには、多くの小さな決断の能力が必要となる、それが人生最大の決断となる。しかし人間の人生はそのように一筋縄では無い、就職は、自分が大きく成長をするために必要とすることがある、その場合は、大きな決断を既に下している場合があれば、そのときに就職という決断を超えた大きな決断がある場合がある。自分が大きく成長するために就職する場合の多くが表現者を目指すことである。大きな表現者になるためには、普通の経験をすることが必要である、普通の経験の多くが公ということを経験する、ということである、そして普通の経験として必要なことがハッピーに暮らすということであり、それが普通のハッピーとはどういうものかを知る根本となり、それが常識の根本になる、それは裏を返せば生きている時代が幸せな時代であるということを意味している、その上で人は多くの場における特別な経験が必要となる。
自分の存在理由
自分の存在理由の多くが、自分の好きなことで生きることである。しかし自分の好きな事は意義が狭いことであることはある、生まれたならば、出来る限り有意義に生きたいであろう、有意義の一つとしては文章表現者となることがまずはある、科学者になることもある。スポーツは一見無意義である、しかし、スポーツが仮想の戦争であり、ルールを決めた戦争であり、それが現実的に戦争そのものの量を少なくし、それによって多くの人々が熱狂できるのであればそれは有意義と言わざるを得ない。
有名な経営者や金持ちのやり方を学んだ場合、一旦はその人物に従うことになる、それを積み重ねることによって、自分流で有意義で斬新な創造を生み出すことが出来るようになることもある、しかし生まれながらに自分流を貫き、多くのことを学ばずにオリジナリティーを大切にし、それによって成長する場合もある、その場合は多くの場合学ぶということを軽視することとなる、多くの学びは読書である、であるからしてそれは読書の軽視ということになる。他人のやり方は、自分がオリジナリティーという観点で充分に成長した上で、学ぶということが有益な場合がある、その場合、有益でオリジナリティーに溢れていても独自ということから、人々の受けが悪い場合がある、世に有名な人間に学びそれを元にオリジナリティーを開発する、という道もあるが、多くの人々は世に有名な人間に学んだ場合その受け売りを行いそれによって人気を得るということもある。
自分のなぜ、ということは最大限にわかるためには適宜な時期というものがある、それはその最大限が課題において最大限、ということもあれば、自分に適しているということで最大限である、という場合がある。
なぜか、それ以上に何かを見つけることが有意義な場合がある、それは、人生において人々に多く貢献でき、かつ自分が好きな事は表現者となることである場合が多い、ということを見つけることであることがある、しかし科学者となることが生まれつき好きな場合もあるし、人並みに暮らすことが好きなことである場合もある。人並みに暮らすことが高く評価されているから人並みに暮らすことが好きであるということは多い。
なぜかということは、深く考えること以上に感性によって一瞬にして感じることが出来る場合が多い、その場合なぜを深く考えることは必要ではない。
人間は人生においては、好きなことをやるか、好きなことをやらずにある程度を我慢するかを決断することを迫られることがある。好きなことをやって花咲くには最低限の能力が必要とされる、文章家として必要な最低限なことは、まずは文章を書くことが好きで、文章を思い付き、それを表現できることである。最低限その能力があれば、その上で有益で斬新な文章は多くの経験の後に行うことが出来るようになれることはある、しかし先天的な最低限の能力が小さすぎて後天的に成長できる量は小さい場合もある、そこでどうするか、ということは大きな冒険の一つである、そしてその冒険は作業は小さくとも自分にとって最高に有意義であることはある。
なぜ、ということを追い求めそれを極めると、何、という答えが返ってくることがある、それは、なぜを追い求めることによって、人間世界ひいては生物の世界において最大限に有益なことは何かに気付くことである、それが私が考える有意義であり、客観的にも有意義なことである。私が考える以上は、人間として生きる上で崇高なことは、まずは表現者となり創造することであり、第二には科学者となり素晴らしい発見をすることであり、第三には発明家となり素晴らしい発明をすることである。それ以外にも実務家となることもあるが、実務家となることは、道を狭め専門家となる、という点で二義的であるから、その点でそれは同時に創造的表現者となることよりも、自由を制限されるという面において、好きな事から外れてしまうことが多い。人間は好きなことが有意義なことであれば、その人の幸せは深くなる。そして労働者となることは第三義的であるが、現代では必要とされる、しかし、有用なアンドロイドを作り出せば、人々はその第三義から逃れることができる。どの程度かは知らないが労働者には、その作業は苦労では無いが、世の中の評価としてその作業が低い評価を受けているから労働者として生きることが不幸である、ということがあるであろう。しかし労働者の中には労働が大嫌いなのに無理強いされている人がいる、その人はかなり不幸であるから救い出されなければならない。多くの地方人にとっては、東京人で無いということは、不名誉であるということでプライドが傷つけられて不幸である、その上東京で生きるということは、一見多くの経験ができるから、ということにおいて、人間的にレベルが高くなることができることであるように見えるが、東京における人と人とのやりとりのほとんどがくだらないことである。
他人の真似をすることで成長できることもある、他人の真似をすることによってオリジナリティーに辿り着く道があれば、本来の自分を大切にし、他人の真似をしないことでオリジナリティーをある程度成長させ、オリジナリティーをある程度成長させた後に、多くを学ぶ、という道もある。
もう自分の目で自分の道がはっきりと見えているのだから、あとは歩いて行けばいいだけ、ということは無い、有意義か無意義かが大きな問題となる。しかし悲しいかな、有意義に世に貢献できるためには、才能に左右される場合が多い、しかし確かに言えることがある、それは主に二つである、それは、人間はその人間なりにある程度成長できる、ということである、そしてその成長は有益な助言者がいれば大きくなることが多い、ということがある。
行為
自分の行為、というものは他人に気付かれないところで行っていれば、他人に影響を与えることは無い、大きな行動で無くても、小さな決断の積み重ねでも、他人に大きな影響を与えることがある、それは文章を書き、それを人に示すということである、その対象となる人は、その文章を多くの人々に示す能力を持つ人であることが望ましい。
当たり前に考えて、自分の行為を他者に示した場合、他者は影響を受けて、それが未来に繋がっている場合がある、しかし、その示したことがくだらないことであるならば、とどのつまりの将来は違うものとはなるが、有意義性においては相似形となる、それは、ボールの形のものがあり、そこには重力があり、そこにあるそれぞれの液体状の分子の位置は変わり、それらは数種類あり、それらはそれぞれが激しく化学反応を起こし合っているのに、遠くの場所では何も起きないことでもある、しかし、そのボールの影響を受けて、そこから遠いところで生物が生まれ、進化し、生物は限りなく進化し続けるならば、そこに有意義は見出すことはできるが、生物が絶滅すれば、未来の全ては閉ざされ身も蓋も無い、という状況となり、元の木阿弥となる。
現代は永遠に繋がっている、とは一言では言えない、永遠に繋がっている可能性があるとは言える、しかし永遠で無くても、ある程度有限な将来であっても、それらの将来の生物がかなり成長していて、それらの生物に助けられることで、来世に生きることとなることはあるかもしれない。
自分
自分についてごまかしたり、自分に嘘を付いたりしてやり過ごすことが必要なことがある、それは、生まれながらの自分を生かしつつ、さらに成長するために、生まれながらの自分に対して行うべき事である場合がある。多くの場合、教育は幼年の頃は好奇心が旺盛であり、生まれながらの自分のままでいられる、しかし教育は後の方になるにつれて、自分についてごまかしたり、自分に嘘を付いたりしてやり過ごさなければならなくなる、それは勉強するということに他ならない、勉強せずにありのままの自分のままに生きるべきだという人もいるだろう、しかしそれで成功できるのはレアなケースであり、そのケースとして考えられることは、プロスポーツ選手となることが考えられる、しかし勉強せずにありのままの自分のままに生きた人間の多くは労働者となるはめになる、そして勉強した場合は、食うには困らない充分な賃金を受ける職業に就けることも多いし、勉強は経験の礎として有益であり大きく成長するためには絶対不可欠であると断言できるかもしれない。
自分に対してはいつも誠実であればいいというわけでは無い、自分というものは、一刻々々成長し続けているのである、その成長し続けている全ての時点における自分が自分なのであるから、生まれながらの自分だけが大切である、というわけでは無い。
ありのままの自分というものは、一体どういう人間であり、どういう癖があり、どういうどういう考え方や反応を示すのか、ということは、その多くは人々の中に生き、様々なことを経験し気付くことによってわかる、それが後天的に成長することである。人間は先天性は重要ではある、しかし後天性も重要なのである。先天性に従い、ありのままに生きることを勧める、ということの多くが人々を結局は労働者に貶めることになってしまうから、その傾向がある説教者は、説教を止めるべきである。しかしその説教を元にもっと良い説教者が生まれるならば、その説教者は生かされることとなる。良い説教者と悪い説教者、その多くの場合は悪い説教者は言葉が少なく、概念と概念を大雑把に結び付けている、良い説教者はそれを元に言葉を尽くし、有益な言説を生み出す、しかしその場合は良い説教者は悪い説教者をねた元としている、ということにおいて、悪い説教者を感謝すべきである。
自分を良く知らぬがために、生まれながらの自分に相応しくない誰かを愛することはある、しかしその場合は本人は生まれながらの自分を知らずして幸せである、ということになる。多くの結婚はそのようなものである、そして多くの人々は結婚によってお互いを成長させる、成長することによって、本来の自分とはどのようなものかを客観的に知りつつ、違う自分になって行く。自分を知らずして、相手を知ることは可能である、成長して、遠い将来において。
新しい自分
自分は新しいからといって、有意義であるとは限らない、それは新しくてもくだらないことである。
世間知らずでも有意義になれる場合がある、その世間とは大企業である、それだけ大企業での経験は無意味である、とは言えるとは思ったものの、大企業での経験はくだらないからこそ有益なことに辿り着けることも考えられるから、その点では無意味であるとは一概には言えない。
若い頃の自分を生かす場合の多くは、道を狭めることであり、それは好きな事であることもあるであろうが、意義が無く、本当の自由からもかけ離れている。
若い頃の自分が多くの場合成長した自分よりも良い場合がある、それは悪い時代である。
人間にとって真実というものは変わりがちである、必要であったから真実であるということは無い。そして信じるということは現実社会においては、真実を具現化することから遠のくことであると言える、それは真実に迫りその具現性を得ることから離れることである、であるからして、現世で出来る限り幸せになりたいならば、信じるということからはかけ離れている方が良い、信じるという行為は自分で何かを出来なくなる可能性が高くなったときに必要となる、それは死を確信した後である、しかし死後に自分で何かを出来る可能性が出てくることもある、その場合は死を超えて、もう一度信じる、ということが必要では無くなる。
人間は常に脱皮して行くとは限らない、ありのままの人間を尊重するあまりにありのままの自分以外の他のことを軽視し続ける場合は脱皮出来ない、それは客観的底面をまるで持たずに主観オンリーで生きる、ということである。そして自分を批判すること、人の批判を聞くことは、ありのままの自分として生きるだけでは出来ない、世を知り有意義なことは何であるかを知り、ありのままの自分を客観的に改善して行くことが必要となる、それが成長である。
ありのままの自分で生きることは放埓であり続けることである、しかしその放埓が許される場合があるがそれは極めて稀なケースである。人間は放埓と改心の二つの相反することが必要である。
俯瞰
自分に甘く他人に厳しい場合、大きく成長できない、その多くの場合は自分の先天性を頼りとすることである。
多くの場合自分のことなど俯瞰する必要は無い、自分を俯瞰することなどは、常に感覚的に行っていて、どっぷりとその俯瞰に嵌っていて、自分の俯瞰の概観を良く知っているからである、しかしこれは良い性質の人間について言えることである、しかしそれは同時に自分を飽きる程に知っていて、自分について退屈すぎることである、これは不幸である。望遠鏡で覗いたような自分に飽きること無く、他者について関わることに興味を持たずに、それでいて楽しい者は幸せでもある。脳のつくりが良いのにドーパミン・セロトニンの分泌が少ない場合がある、その場合は、その人間は自分を常に俯瞰できてはいるが自分について飽き飽きする程に知っていて、自分を知れば知るほどに成長を求め、他者に関心を持ち、他者を多く知ることに努力し、その結果、多く他者について知り、結果的に自他共に飽き々々しているのではないか?反対に脳のつくりが悪く、ドーパミン・セロトニンの分泌が多い者は主観的で、ありのままの自分に忠実であるのではないか?犬のように、しかし犬であっても、人間は自分よりも有意義であり、自分は人間よりも下であるから、人間に服従すべきである、ということを知りうる程に客観的であるから、それを犬であるようであると形容することはある程度的を外れているであろう。
出来る限り有意義に言葉で表現する、ということは、人間中心世界では、人間的に有意義か有意義でないかということにおいて客観的であるということである、人間的に有意義か有意義ではないかという制限を外れて真に客観的であるわけでは無い。
多くの場合は近くから物事を眺める、もしくは近くにいたい、という欲求は好きであるからである、好きであるから近くにいて、時間の経過とともに多くの部分部分を知り、結果的に好きなものの全体像を知るとこによって、その客観性とは何かを結果的に知る、それでも相手が好きであるならば、それは愛である可能性はあり、それで嫌いになった場合は、それは愛では無く、好きであった、ということ自体が間違いであった、ということになる。
他人に対する興味は、自分を改善したい、成長させたいと考えた時点で沸く、他人を多く細かく観察することに時間を費やせば、自分について無関心にならざるを得ない、自分について無関心になったならば、必然的に自分自身に対して冷静となることとなり、他者を多く深く知ることと相俟って、自分を客観的に見ることとなる。