出来る限りの世界の立場における正義の哲学39マルクス編「“共産党宣言”から随想されること」5 | 三上祐一のブログ

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 独自の日本大改革案を掲げる三上祐一のブログです。 なお私はこのブログの著作の一部がウィキペディアの「三上祐一」の項に投稿されることを認める。 http://yuusukeueno.blog40.fc2.com/

 「(72)」「(73)」「(74)」
 そして日本の場合は、雄藩において様式機械工場が次々と設立され、それが官営工場として発展して行った。政治的中央集権がまずは先に存在し、政商が表われた、政商は政府の御用商人であった。それは大いに偏ったものであったにせよ、そこにおいては世界的ブルジョア階級の日本国内の被ブルジョア階級の実行支配(植民地化)、というものは見出せない。

 「(75)」「(76)」
 しかし、日本国内の政商に官営工場払い下げの事実等からして、日本国政府主導による、日本国内における実質的ブルジョア階級・プロレタリア階級の産み分けということは行われた。

 「(77)」~「(79)」
 それらの一連した社会改革が“明治維新”である。それは、自発的欧米諸国の諸制度の導入という、歴史上稀に見る椿事であった。日本国政府は無邪気に欧米諸国を信用し遣欧使節団を欧米に派遣し、欧米諸国の諸制度の導入を国を挙げて図った。それは欧米諸国に歓迎されて迎えられた。そしてかのイギリス自体にも、当時自分達の文化にはブルジョア階級・プロレタリア階級の住み分けという欠陥が内在されていて、それが是正されるべきものであると本気で思った者が誰かいるか。このマルクスの『共産党宣言』はマルクスによって、誤った著述がなされている以上は、マルクスの思想は修正主義と資本主義と共産主義の融合が成し遂げられることが不可欠である。そしてブルジョア階級・プロレタリア階級の住み分けを是正するためには、誰が、プロレタリア階級の団結によってブルジョア階級のプロレタリア階級に対する、自発的な即時的格差是正を期待するか?そんなものはほとんど期待できない。そうである以上は、プロレタリア階級は自力でそれを勝ち取らねばならぬ。高卒の親の元では、その子供達は多くの場合は大学進学を諦めねばならないだろう。しかし学歴が無いことによって、悔しい思いをした、プロレタリア階級の父親は、子のために最低限は大学の入学費・授業料は貯めて、子供に同じ悔しい思いをさせてはならないだろう。しかし私はここをもってして大学進学にはほとんど価値が無いことを公言する。それはただ個人の虚栄心を満たすものとしてだけ必要なのである。しかしそれは経験した者しか語ることができない、という問題が内在されている以上は、私がこれを公言したから、と言って、この問題は一挙に解決することは不可能である。 まずその本質的実行の道としては、発明・執筆・コンピュータプログラミング等があり、それを実現させる実務者が必要となる。プロレタリア階級が団結するのであれば、世における発明・執筆・コンピュータプログラミング等で価値があると認められるものの実務を担当し、それの実現化において団結し、その発案者に、最低の利益を与えることによって、いわば、独自のコングロマリッド企業を生み出しそれを運営することによって、成し遂げてもらいたい。そして第一に価値あるものを生み出し続けることによって、第二にそこにおいて、ブルーカラーとホワイトカラーの間の格差を出来る限り無くすことによって、第三にその事業を低価格で実現することによって、独自のコングロマリッド企業を生み出し続けてもらいたい。そして日本中の既存のものの値段は、そこにおいて実現した価格に合わせることによって、日本中の物価を下げることが可能となる、という大胆な発想もまあ一応は考慮する価値はあるであろう。そしてその実現は、それぞれの大企業が、日時を指定して、その日にある製品をいくらにするかを宣言することによって、成立可能である、ある大企業が競争相手の大企業を差し置いて、製品価格の大幅引き下げを宣言すれば、日本中の、世界中の人々はその企業の製品の購入を他の競争相手を差し置いて、選択するであろう。将来的には、日本政府が企業の製品価格を目安価格として設定することもまあ考えられはするが、これは危険思想の一つとして数え上げるべきものでしか無く、これらは一連の無益な考えであろう、今のところは。
 その発想の延長上において日本の企業は、ある国が日本と同じ性能の製品をほぼ真似によって実現し、それをその国が欧米に売りさばく、という不実に打ち勝つ可能性がある。それが人間が市場がときに人間に対して冷酷非情に機能する欠陥を乗り越える方法のアブダクションの一つである、ただし、市場の機能に手を加えることは、最も最終的な手段の一つとして考えるべきである、それは慎重をもってして慎重をはからねばならないことは言うまでも無い。

 【×:あまりに安易】そして日本人は、物価の安い国から安価な原材料を仕入れてそれによって、事業を運営することによって、日本国内に物価安をもたらすことが可能となる。
 【×:軽視される原因となりうる】また日本人は冬季はスキー場でアルバイトし、春・夏・秋は物価の安い国に移り住むことによってもそれは可能となる。その場合は私は、基本的には物価の安い国に日本のテレビのキー局が放送されていてそれを見ることが可能で、物価の安い国で日本において可能であった2つのことさえ達成できれば他に問題は無い。

 「(80)」「(81)」
 日本においてはそのような社会動向は一切見出されていない。多くの日本人には欧米の科学が魔法の様に見えて、その魅力が一挙な一切の想像できる商品に対する需要を多くの日本人の心に生み出したのである。

 「(82)」
 そのような、オートマティカリーな現象は日本では見受けられない。そして、現代日本でさえも、自由競争などというものは存在しない。日本では、元大名が、自分の支配する地域を国家に返上する身代りとして日本政府から支払われた資金を元出にして、企業を創出した、そこにおいては、競争というものが存在するならば大金を持つ者に限って存在した。

 「(83)」
 このような現象も日本では、一切見受けられない。自由競争によって、ブルジョア階級の経済的ならびに政治的支配があらわれた、ということも無い、自由競争が生み出されたならば、そこにおいては、競争企業の利潤が一切まるで無くなるまでの競争が続き、企業の存続は、その企業が自ずから技術革新もしくは独自の製品の開発が行われる限りにおいて、企業の利潤は生み出される、というのが、現代旧西側経済学の趨勢である。そこにおいて、現代先進国の大企業の状況は、寡占という状況が続き、大きな技術革新もしくは独自の製品の開発は見出せはしないものの、それらの企業におけるある程度の市場の独占、という状況が見出せる。

  「(84)」
 そのようなことはある程度は当たってはいるが、ある程度外れている。

  「(85)」
 ブルジョア階級がかくも巨大な生産手段や交通手段を魔法によって呼び出した、ということは無い。生まれつきの富の所有、貧乏の差こそあれ、少なくともブルジョア階級が自らの許される資産の範囲における許される額の投資を自らの企業に行うことを経て、現代諸科学の応用によって、すなわちはブルジョア階級の自助努力によって生み出された、しかしここでは生まれつきの富の所有、貧乏の差が問題であるのであるが。そこにおいてはブルジョア階級とプロレタリア階級における富の偏りが見受けられる。だからと言って私は、全ての富の子孫への継承一切を否定するわけでも無い。あくまでもプロレタリア階級は自らあらゆるものを生み出さなければならない、ともすればそれは過去に生み出されたものの応用によって生み出される可能性は存分にある。

 ※私が自分の思っている通りのことを行うとこうだ、それは戦後レジューム体制の崩壊を一方で模索しつつ、戦後レジューム体制側と日本の関係をある程度親密に保ちつつ、ドイツ・イタリアとの関係を高め(ブラジルを含めるか含めないかは、ブラジル側の出方次第)、東アジア6ヶ国協議の意義を高めつつ、インド・アフリカとの親睦も深めることを模索する、ということである。これを推し進めると、英・仏・独・韓の対立を返って深めてしまうという結果になるようである、しかしこの事実は、欧州諸国には悪いが世界の諸地域にとっては好ましい状況とは言えるだろう。そしてこれらの地域(ヨーロッパ)と運命共同体となることを自ら選んだ東アジアの笑うべき国も存在する、その国は、それらの国々を深く洞察することなく、どこかの一国をなめてかかってきた、ということでそいつら自体に咎がある、私達には言うべき権利がある、私達が過去に行ったことに咎として認められる部分があるならば、それにもそれ相応の分量があり無限ではない、ということを、そして捏造は認められないという明白な事実を彼らには教えなければならない、そしてこの事実も伝えなければならない、そこいらの猥俗な女どもの寄せ集め集団の適当に誂えた生意気な歌で、簡単にやられてしまう俺ではない、ということを、その芸能に対する考えは浅薄極まりない、そしてその適当に誂えた女集団は今後日本で芸能活動をする機会自体が存在しない、という事実を伝える。一方で『スピード・アップ』を求める一方のグループは可愛げがあり、日本に対する親善の気持ちも認められる。『スピード・アップ』という無理難題を私に向けないで欲しい、一つ一つの問題を解き明かしていく、というのが私の方針であるが、ここでやっていることが多くの人々に価値が高いと認められれば、自然と『スピード・アップ』は生じるであろう。そして捏造・咎が無限であるという妄想を元に私に怨みつらみの顔を向けた若者達は本性を現すには早すぎた、ということを伝える、そしてその面を私に向けた以上は、もう私に向ける笑顔は残されていない、つまりはその方針を人生をもってして貫く覚悟はできているんだな、と問う。なおその国は日本が行かなかったら目も当てられない国だった、それは当時の社会風俗の写真を見れば明らかである、そこでその国の人々は、日本については、悪いこともまあ、あったであろうが、いいこともあった、と評価するのが妥当なところではないか、ということを親善の気持ちを込めて伝えておく。しかし“冬のソナタ”はいいテレビドラマだったな。

 ※日本はある東アジアの国には、言いたいことを言わせておけば良いであろう。そして日本製品のコピーもやりたい様にやらせておけばいいだろう、その内に世界の人々がその姿勢を蔑視し始めるだろう。従軍慰安婦の問題も、それを導入したのは、地元の人間であり、日本人では無かったことが考えられる。竹島は、明治38年に日本領になっているという経緯があり、第二次日~協約の締結によって、日本領になったことが考えられる、あんな小さな島ぐらい、その国にやってしまえばいいだろう。しかしその国と日本はやり方次第では、仲良くやって行けるであろう。一見短所と見えることは大体長所として生かせるからである。そして幸せばかりがあったならば、それは、長い目で見れば、欠点となることもある、ということを、私は、日本の人々には伝えておきたい。しかし日本には多く問題があることも事実である。国を第一義と考えること自体を疑問視すべきである。この考えはマルクスの思想と相通じる部分がある。まずは国そのものがかなり無駄である、それは、全ての先進国についても言える。ここら辺から私は無意味な保守主義と国粋主義とはどうやらそりが合わないことを述べておくべきであろう、しかし無意味な保守主義と国粋主義に見るべき価値が見出せたならば、そのときは必ず評価するつもりである。まずは480兆円も歳出予算があるが、消費税が導入される前に、これらに無駄は無いかは徹底的に調べられるべきである。しかし、青森駅前に国が補助金でホテルを建てたということであるが、建設に9億円もかかった、ということであるが、費用が掛かりすぎである。 ※北朝鮮の主体思想というもので次の様な著述が見られた。革命的首領観「従って、革命と建設の主人公である人民大衆は必ず首領の指導を受けなければならない。首領は頭であり、党は胴体であり、人民大衆は手足と同じである。胴体と手足は頭が考えたとおりに動かねばならない。頭がないと生命は失われる。よって、首領の権威は絶対的であり、全ての人民大衆は無条件に従わねばならない。」そう言っている限りにおいて主体思想は使えない思想である。ここで謳われた指導者原理だけは、主体思想の解釈がどのように変遷を遂げても、変化していない、ということである、その限りにおいて、北朝鮮国家は無益である。「肉体的な生命は生みの親が与えるが、政治的な生命は首領が与えるもので、首領は生命の恩人であり父と同じだ。従って、父の間違いで家が傾いたと言って、父を代えることができないように、首領を代えることはできないのである。全人民は、団結して無条件に忠誠を捧げなければならない。」そう言っている限りにおいて主体思想は使えない思想である。「父の間違いで家が傾いたと言って、父を代えることができないように、首領を代えることはできないのである」とあるように民主主義と離れた思想であるように見える。そう言っている限りにおいて主体思想は使えない思想である。しかし、北朝鮮にいい部分が見出せたならば、可能な限り評価するつもりである。 ※一方で私自身は「極東文明日本文化における正義」を語っているが、狡賢い面も多分に持っている、内実は、要領主義の塊の様な面もある、それはしっかりと自覚はしている、そしてそのような面を持ち合わせていなければ、狡賢い人々を理解できないから丁度良かったと思っている、しかし本心では出来る限りのまっとうを目指している。そして『利己主義的論語解釈 ~ 論語革命』では利己主義と道徳の両立の達成の理論を明らかにしている、そこでは、一時的に東アジアにおける道徳の復権を目指している。しかし最終的には、世界の道徳を目指す。そこで予見されることが、各宗教と私の目指す道徳の対立である。

 ※独はどうやら私が認める方向と反対のことを行っているようである、それは独がシー・シェパードの代表者を捕まえたことを見てそうである、と率直に感じた。

 ※私が発明した、足腰自転車が発明されれば、将来的に車の運転にガソリンは必要なくなる。その自転車版はこうだ、自転車でステップは下の方にあり、それに両足を乗せ、サドルは従来の自転車と同じ辺りにあり、それに座る。両足を乗せたステップが浮き沈みし、ステップが浮き沈みしたときに、連動し、サドルが沈み浮きするようにする。そしてステップが一番高い位置に来たときにステップに乗る、ステップに乗っているときにはステップからステップに乗っている体重の重みが自転車の車輪に伝わり、それによって自転車の車輪が回る仕組みにする。ステップが一番低い位置に来たときに、サドルは一番高い位置に来るようにし、サドルに乗っているときにはサドルを通じて、サドルに乗っている体重の重みが自転車の車輪に伝わりそれが車輪を回転するようにする。高くなったサドルに体を乗せる、サドルが沈み低くなる=ステップの位置が上がる、高い位置に来たステップに体重を乗せ換える、ということを繰り返せば、効率的にその交互の位置エネルギーの応用だけで速く走る自転車は作ることが可能である。この運動の繰り返しによって、ギアを高く設定し、サドルとステップが沈む速度を遅くすれば、かなりのスピードでの走行が可能になるだろう。それを4人乗りの乗用車に応用すれば、乗る人数が多くなるにつれて、スピード・アップが可能となる。人は、サドルに乗る、ステップに乗るという交互の大したことの無い運動をするだけで、速く走ることが可能になる。...しかし多くの奴らはめんどくさいから、ということが主な理由でその発明を無碍とするだろう。これを発電機にも応用する。

 ※私にも多くの人と人との多くの関係がある、しかしそれらは温存しているだけである。

 ※そしてここら辺をもってして解った事はマルクスっていう奴は相当いかれてんだろ、ということだ。その考えは、きっちりと、修正すべき点は見つけ次第修正を加えていかなければならない。しかし歴史学・経済学等の前駆物質的素材(教育上の素養)としての価値はある、そこで一般読者に求められることが、懐疑精神である。
-------------2012.05.31-------------
 「(86)」~「(104)」
 次の世代になれば有効需要が育つということが考えられる。つまりは、次の世代はより怠け者になる、より刺激を求めて便利を求める、ということ等が生じることが考えられる。

 「(105)」~「(109)」
 労働は価格変動することによって、その力は維持される。そしてこの不況は労働者が創造者に変わるための生みの苦しみの期間である。

 「(110)」~「(111)」
 プロレタリアの分業は私の発明した“自動ハンドシステム(前述)”によって、決定的に新しくなる。そこにおいては一切の労働の熟練が分業体制が、もっと細かく確立されたならば確立された上で、必要とされる。そこにおいては、完全なハンドメイドが、“自動ハンドシステム”によって、復元されることとなる。

 「(112)」
 そうであるとしても、労働者は労働を副業として、“創造的知的労働”を本業とすることによって、多くの収入を得る可能性をまずは持てるようになる。その“創造的知的労働”は労働者が“自動ハンドシステム”によって、副業を行いながら、考え事をしたり、ノートを取る余裕ができることによって、それを活用することによって出来るようになる。

 「(113)」~「(114)」
 賃金は、第一の要因として、好況(有効需要の創出)・不況の拡大(需要縮小)によって、製品の値段が上がるか下がるかで決定される。

 「(115)~「(116)」
  機械装置や分業が進むにつれて、労働の量も増加する、ということは一時的にはあるもののそうであるばかりでは無い。“自動ハンドシステム”の実現によって労働の量は激減する、しかし、その装置の管理時間は長くなる、その管理時間に“創造的知的労働”を行うのである。そこで、労働を管理する企業は労賃をある程度安くすることが可能となる。労賃が一斉に安くなって、不況の場合は、物価が安くなる、それはそれで好都合である。本業は“創造的知的労働”である者はその管理時間に生み出したものを売るのである。分業はエネルギー費が低くなるにつれて可能となる、それは私の発明した“足腰自転車”とその応用によってかなり可能になる。

 「(117)
 これはドイツで生じた本当のことであろうか?日本ではこのようなことはほとんど無かったと言っていいだろう。

 「(118)」
 私の“自動ハンドシステム”はこの「兵隊と同じように組織される」という状況を劇的に改善する。

 「(119)」
 現代においては中央集権国家体制から、地域分権化が進むべきである。

 「(120)」
 ここにおける「ブルジョア自身によって」という表現は適正では無い。

 「(121)」
 人はまずは現世上の出来る限りの幸せと宗教上の出来る限りの幸せを達成できるべきである。そのために、私の代に求められることは、人間の出来る限りの機会均等である。それと同時に行われるべきことは、出来る限りの“生物”の命の保全である、それには畜産・漁業の出来る限りの廃業とそれらの産業に関わる人々の“擬似肉”作り産業への移行が考えられる。

 「(122)」~「(124)」
 このようなことは時代において一過性のものとして表われたが、それらが社会問題化されたのであろうか、“男女雇用機会均等法”と“児童保護法”によって、その身の上は守られることとなった。
 
 「(125)」
 不況下であり賃金の値段が下がり、物価が下がり、出来る限り完全な自由競争が行われているのであれば、他の部分のブルジョア階級(家主・小売商人・質屋等々)が労働者に迫る金額も小額となる。なお現存する企業が生き残るためには、自由競争により、完全に価格競争の道が取られるよりも、各競争企業の社員が“創造的知的労働”を行い、独自色を打ち出し、共存がはかられるべきである、そうしないと企業は利潤を生み出せなくなる。なお、この理論は、“ミクロ経済学”の“完全競争企業の長期均衡”の理論から導出したものである。そこにおいては、かなりは“創造的知的労働”に必要経費は割かれ、少しだけ価格競争が行われるべきである。

 「(126)」
 ここでのマルクスの主張は妥当では無い。「これまでの下層の中産階級、すなわち小工業者、商人および金利生活者、手工業者および農民、これらすべての階級はプロレタリア階級に転落する。」、ということは無い。これらの者達でうまく立ち回っている者もしくはうまく行っていることに関わっている人々は生き残るであろう。

 「(127)」
 一概にそうとは言えない。

 「(128)」
 ある程度はそう言えるが、ある程度以上はそう言えない。

 「(129)」~「(133)」
 これらの社会現象は、これらのマルクスの著述があったからこそ実現したのではないか?また、日本の場合は、これらのプロレタリア階級の闘争は起こるべき時代である明治・大正・昭和初期の時代にはほとんど起きなかった。なお大正時代には“大正デモクラシー”が起きている。なお、ここに著述されたような社会現象の一翼は、戦後1960~1970年代にマルクスに感化された学生達によって“学生運動”として起こされ、担ったに過ぎない。

 「(134)」~「(139)」
 このブルジョア階級の勝利は、歴史の一時期に生じたものである。マルクス修正主義の延長上に資本主義と民主主義の宥和的学問が生み出される、ある思想家によって。

 「(140)」「(141)」
 「プロレタリア階級は数を増すばかりではない」、「プロレタリア階級はますます大きな集団に寄せ集められ、彼らの力は増大し、また彼らはますます強くその力を感ずる。」とマルクスは言う。機械設備の開発が満足に行き、ブルジョアジーが自分自身である程度の労働作業を行うという理想的なブルジョアジー自分自身における分業が行われたならば、プロレタリア階級の数は増加する可能性がある。その場合は、最大で人口分のプロレタリア階級の数が創出されることとなる。しかし現代においては、ある程度多数の労働力は必要とされる。そしてもしもプロレタリア階級の数が増加し、そのプロレタリア階級内である者がある程度の“創造的知的労働”を行い、結果を出したならば、その者にはある程度の妥当な賃金が支払われなければならない。私が考え出した“自動ハンドシステム”は論理的に世に多くのブルジョアジーを多く生み出す。その理論はこうだ、まず、人類の叡智を結集して、“自動ハンドシステム”とその付属品を実現させる。それによって、誰もが労働を軽減させることが出来るようになる。そこにおいてはブルーカラーの職場が必ず守られる立法が、それに先立って行われるべきである。そして出来る限り今までブルーカラーとして働いていた者の賃金は守られるべきである、という立法(例えばブルーカラーの実働の量が削減できても、雇用主はその賃金を1年に10%までしか削減できない、などの具体的立法)も出来れば行われるべきである。そこにおいて、ブルーカラーの賃金が減った場合は、企業主は商品の価格にその分ある程度反映させなければならない(値下げしなければならない)等の立法が出来れば出来るのがいいだろう。そうすると、社会全体の物価が下がる。できれば自由競争によって、企業主は商品の価格にその分全てを純粋に反映させなければならなくなる(値下げしなければなくなる)べきである。
 立法の方法を取らなければ、仮想的完全自由競争を生み出すことが考えられる。仮想的完全自由競争が生み出される仕組みはこうだ、世界の労働者階級が自分達の少ない資産の幾分かを投げ打って、それを元手に大企業に対抗できる企業を設立するのである、その会社は、出来る限りの格差是正を目指すといううたい文句で運営される。そこにおいて、その新しい会社は大企業の社員をヘッドハンティングするのである。ヘッドハンティングされる大企業の社員は、“出来る限りの格差是正を目指す”、ということに会社移転の出来る限りの動機を見出す。しかしヘッドハンティングする会社はヘッドハンティングされた被雇用者に最低限同額の給料と退職金を支払わねばならない。そこにおいては、①ブルーカラーとホワイトカラーの出来る限りの格差を是正する。②“自動ハンドシステム”の導入によって、ライバルとする大企業が削減した必要経費(労賃)を商品価格に純粋に反映させた価格設定を行うのである。そうすると理論的には、削減された給料の額、物価が下落することになる。だから、賃金の下落 物価  ブルーカラーとホワイトカラーの出来る限りの格差を是正するためには、ホワイトカラーを出来る限り削減して、その削減額をブルーカラーの賃金に反映させるのである。そしてホワイトカラーは、学歴を重視せずに、完全に面接の実力だけで採用するのである、そうすると、ホワイトカラーの給料は多くの大企業が設定している額よりも減額が可能である。そうすると採用者には高い人間性を評価できる力が必要とされる。 搾取ばかり行う者が存在すると、それが株式会社に存在するならば、組織の非効率が生み出される、そこで、搾取を行う者には、搾取に見合う分“創造的知的労働”が行われなければならない。“創造的知的労働”は現在では独りで行われるものであるが、将来的には、組織における“創造的知的労働”も行われるべきである、その場合は、出来る限り“創造的知的労働”の実績が高い者から順に組織されるのが、今のところは妥当である、と考えられる、まずはそれが基本である、そこにある程度の高い能力を持つ批判者が含まれるようになるべきである。しかしこれらの組織は、ある独りの者が、多数の複数の場における経験を持ち、一人で多数の“創造的知的労働者”と“批判者”(いわゆる“ぼけ”と“つっこみ”)の人格を持ち合わせているならば、しばらくは、その必要は無い。

 「(142)」~「(148)」
  日本の1970年代の“学生運動”は日本の“ブルジョア階級”と思える者達(大企業及び資産家)に、出来る限りの“ホワイトカラー”と“ブルーカラー”の賃金の格差是正は要求してもよかったのではないか?なお、日本は戦後、米国の制度を取り入れたとしても、米国よりも、資産家とブルーカラーの格差は激しくは無い、しかし米国のホワイトカラーとブルーカラーの差もそう大したものでは無いであろう、米では資産家が莫大な資産を持っているのだ。

 「(149)」
 日本の“学生運動”のリーダーは就職する際に、“ブルジョア階級”に飲み込まれることを選択した。それは妥協であった。私は、幼稚園児の頃に、“青葉公園”で、“~反対”のデモを行っている大人の一人に“何でやってんの?”と無邪気に聞いたが、そのときにその大人から帰ってきた言葉は“金がもらえるから”だった、私は素直に“そういうもんなんだ。”と思った。そして私は、自分の住む賃貸マンションの前で、独りで何かの腕章をして“~反対!”と一人でデモってたのを覚えている。

 ※世界中が通貨の切り上げを同時に行ったら、どうなるかはSF物の延長線上として描かれるべきであろう?とりあえず目に浮かぶのは資産家の大反対だ、でもそれは、民主主義上ではクリアされるであろう。問題はリスクが高いということだ、現段階では、ほとんど100%有り得ない選択肢だ。

 ※法律が全てにおいて、優先される、という状況はどうか、いく分かは、“新アジア道徳製造株式会社”に任せてもいいんじゃないか?2012年現在において“新アジア道徳製造株式会社”は“出来るかぎりの世界の道徳製造株式会社”に変わる、なお今の表現は私の過ちであった、当分の間は100%法律は守られつつの、道徳の導入をはかるのもいいんじゃないか、が正しい表現である。なお私は、前世で作り出された、どの道徳も完璧では無いことを見出す、そこで、あらゆる道徳の長所は長所として生かし、短所は長所に変えられるものは長所と変え(それは、概念の)、短所でどうしても取り除かなければならないものは取り除いた、総合的道徳を導出してみよいのではないか?そこで、東アジアの地域でまず取り上げるべき道徳が『論語』である、が私は論語の全てを認めているわけではない。そこで欧州にも代表的道徳書の提出が求められるであろうが、それとしては、『新約聖書』と『旧約聖書』が考えられる。書が無い地域の人々は、この議論に積極的に参加し、率直に疑問と感じる部分には疑問である、と明かすことによって、その議論の意義は深まる。

 ※タイムマシンの創出の可能性として考えられることは、脳の記憶を遺伝させられるまでに進化した、生物がいるかいないかをまず見ることである。そのような生物が既に存在するのであれば、それらの生物に、全世界の様子を見て、将来にそれらの記録を伝えることが考えられる。そして将来のものが、その記録を具体的像・音声に変える術を持てばよい。

 ※まずは、単純に、全世界のあらゆる場所の映像・音声の記録、ということが考えられる。そうすると、全てのプライベートは否定される。なお、私は、声を大にして言いたい、プライベートが犠牲にされても、やるべきことがあるならば、やるべきことをやるべきで、それは、プライベートの温存、等という幸薄いことよりも断然にやりがいがあって、価値が高い、ということを。

 ※苦しい人生経験、というものは、ほとんどの場合、それを将来に価値あるものに転換可能である、反対に、楽した人生、というものは、楽した人生でしか無いが、まあ生かせると言えば生かせる、悲劇と喜劇として。しかし、人間に生まれて来た以上は、出来る限り両方を経験すべきである、苦しい経験、というものは、個人の限界の範囲内でである、楽した人生というものは、できるかぎり謙虚な形のものとしてである、しかし謙虚な形のものとして、楽した人生を経験する前に、人々には、ありのままの、出来る限り思いのままの、心理の自由が与えられなければならない。

 ※まず道徳上で最高に解決が望まれることが、『擬似肉製造株式会社』が社会に創出され、それによって、出来る限りの生物の命の温存がなされることである。牛・豚・鳥・魚の命を犠牲にした上に成立する、どんな社会にも、その社会がどのような形であれ、私達には“愛”があると、とどんなに主張しようとも、そこには愛などは実在しないのが現状である。キリストの行為、アッラーの心、肉を一切食わない文化があり、その伝統を守っていた民族以外には。この道徳を主張することに、仏教には、現世での最大の意義が見出せる。『擬似肉製造株式会社』で擬似肉は徹底的に研究され、究極の擬似肉が作り出されなければならない。なお、今まで、意義あるものとして畜産業・漁業を営んでいた人々には、優先して、『擬似肉製造株式会社』での擬似肉販売の権利が与えられるべきである。なお、・・・忘れた・・・、思い出した。

 身分制度にも価値が見出せるならば、見出そう。しかし、自由の身である以上に価値があるとは今のところは思えない。インドの身分制度では、宗教上の幸せの達成は得れるが、その代わりに、現世を楽しむことを取引され、それが蔑ろにされている。我が国の士農工商制度を作り上げた者には、寛大さが足りない。身分制度の社会で生きている者達が、その解放を望むならば、現世上のある程度の満足と、宗教上のある程度の幸せを実現させる、ということによって、その身分制度の括りから、逸脱出来る。

 そう言えばカナダという国があったなあ。英・仏は究極では結託する、それは、政治上の事実として明らかである。

 日本の株価が大資本家に操作されているならば、それは、市場の欠陥の一つである、それは調査され明らかにされなければならない。日本の大企業の株式が国内の人々に不人気なのは、ブルーカラーとホワイトカラーで賃金に格差があるからである、ブルーカラーとホワイトカラーの格差は出来る限り撤廃されるべきである。

 中国の歴史上の大きな通過点である、という陳光誠氏のコメントは、私達にある面で希望をもたらせてくれた。しかし、中国人全員が共産党員になれる資格があり、誰もが党内での発言を許されるならば、それはそれでいいだろう。国家が安易な多数決主義で国会で議論が行われる民主主義を選ぶよりも、人民全員が平等で、誰もが、議論に参加できる真の民主主義を目指してもらいたい。

 
 英・仏・独・露・中

 私の心理は複雑であり、純粋な概念の表明を信じようとはしない。最低限の懐疑精神を持ちつつも、見た目上は、完全に信じ切っているという矛盾を実現しているように見せかけることが出来る。私は、米については、ある面では罪があり、ある面では良かった、と考えている、そこにおいては、日本人は、米国は、大きな枠でとらえれば、かなり良かった、と考えるのが相応しいであろう。そこにおいてはある意味寛大である、国家の領土の狭さに似合わず。

 私は自民党を信じない。自民党の憲法改正案はあまりに安易だ。憲法九条についてであるが、自衛隊は自衛隊であるべきである。そして「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び」という文言は必要無い。そこにおいては、自民党は、価値の創出を行えない身の上でありながら、憲法改正に着手する、という点において、実力以上のことを行い、表面上の飾り文句を並べ立てただけではないかが疑われる。

 まずは、日本人は、国家であることが、国際社会の真の幸福のために最善かどうかを最低限まずは疑うべきである。しかし国家である状態から、他の状態に安易に移行することにおいては、社会の秩序が大いに乱れる可能性があるために、行うべきではない。国家でありつつ、他の新しいより相応しい状況を作り出す、ということが行われるべきである、より相応しい状況を作り出すことには国民の誰もが参加可能である、そこにおいては価値がある者は、価値ある者が公正に評価される状況を導き出さねばならない。





  「自国の人々・領土・自由・平等・民主主義・正義・独立などの価値あるものを守るために自衛隊を保有する。なお、日本人は、軍事力の行使は最善の結果をもたらさないこと、日本国が軍隊を放棄することによって、世界平和に貢献している、という事実を重視すべきである、自衛隊以上の軍事力を放棄し、あらゆる平和的・有益な方法(言葉・表情の利用、その他考えられる、あらゆる、有益な方法)を駆使して、事態の解決を導くべきである。そこにおいては日本人は自衛隊以上の軍事力を放棄しあらゆる平和的・有益な方法を駆使して事態の解決を導く姿勢を持つ、ということにおいて、日本人は、真の勇気を体現しているという意義が高いことを行っているということを自覚出来る」

 ある国の人々についてであるが、その実態がどのようなものかがはっきりとは解らない。多くの場合は、多くの日本人女性には、ある国の人々には、罪が深いことをやったんだから、その罪の償いをするのは当然である、というある意味自虐的な気持ちがあり、それを元にあるブームが沸き起こっている、それは好ましい状況とは考えられる。そしてその国を代表するアイドルグループは、日本国民の多くの人々に支持されるべき価値の高い表情を持ち合わせている、ということが認められる。その関係は大切にすべきである。しかしこのようなことは稀であり、トップアイドルグループであり、多くの日本国民に現実的にファンとして支持され、実質的に日本の多くの国民から特別待遇を受けているがゆえに、認められる価値が高い表情である。しかしある国では、日本については、捏造に基づいた歴史が語られ、多くの人々に行き過ぎた反日感情の存在が考えられる。私の評価では、ある国の多くの人々は、日本を憎み過ぎである、と考える。そして現実的に日本の真似をして、日本のおかげで、国にある程度の富がもたらされているのに、「ヨーロッパを向き始めた」という、私としては許しがたい事実の例を見付けたからそれを指摘したまでである。そこで考えられることは、・・・それについては私は今後それを言うことは一切やめる、ということである


 多くの日本人は建前を貫き通す。美元さんは、結婚式の次の日に仕事が入ると怒った、という事実からして、ある国の国民性として多くの人々に見出せる特長として考えられることは、その国の多くの人々は建前は言いはするものの、現実的に手に入れたら、次の日にはもう手の平を返す、という、浅はかさである、その現実は高島政伸さんの常識の想定外だったのであろう。まあ、この浅はかさ、というものは、逆に長所と受け取ることも出来る、そのような女の方が好きだ、という男も多く存在するのも事実である。一方で、高島政伸氏にも、6日でスピード婚した、ということにおいて、異文化の女性の本質を見極めるには、責任がある。


そして日本人の建前を貫き通すという面もある意味問題といえば、問題でもある。しかしこの様な特質はもはや、その国の特質とは言えず、その文化がかなり過大に評価され、その文化の移入も行われ、日本人にもその様な者が多く存在する、というのも事実である。なお、その様な特質の日本人が、過去の日本に皆無だったわけでは無い・・・

 アルカイダは、まずは武器を取らずに、手ぶらで勇気を示す、という点が認められる以上は、前までのアルカイダよりはましである。ただしその黒い旗を振る、という文化は、健康的である、とは言えず、国内の多くの人々に嫌われている。黒い旗に表現されている「アッラーの他に神なし」「ムハマンドは使徒の一人」という、デモンストレーションは、多くの可能性を考える私の立場からは、そう安々と受け入れられるものでは無い。私は、一神教は一神教として、宗教学の学問的見地から、生かされるものがあればそれを見出す作業を行っている。そこにおいては、私は実質的には多くの宗教に股をかけて、4股5股を行っている、という、イスラム教のアルカイダの常識では、それは、到底許されぬ行為であろう、そうであるならば、その気持ちはまあ理解は可能である、とは伝えておこう、ここにおいては、宗教を超えた共感が見出せている。そしてそこにおいては、自分達の伝統を尊ぶ、という私と同じ価値観も認められる。そしてそこにおいては、アルカイダに勇気があることは認める。その上でアルカイダにもう一つ注文する、真に勇気があるならば、徒党など組まずに、一人で言葉をもってして表せ、と。

 多くのスポーツ選手に私が言いたいことは、運動神経が良いだけであるならば、本物の戦では、全く使い物にならない、という現実である、そこには真の勇気の欠乏が存在する。

 法廷では、道徳の応用が、法廷の欠陥を補うであろう。道徳、として第二に主張したいことは、どんなことにも可能性を考えることである。そこにおいて見出せることは、絶対視と共存という、
宗教と道徳の永遠のライバル関係である。道徳は現実世界での応用を目指し、宗教は、死後の世界を扱う、ということにおいて、守備範囲がまるで異なる。

 マクドナルドが、牛肉と偽って、ミミズの肉を売っていたならば、実質的には価値が高いだろう、なぜならば、ミミズには、意識があるかどうかさえもわからないぐらいに能力が小さいから、多くの痛みが発生しないから。それは私としては珍しい常識の採用である、それは、大きい方が能力が高い、痛い、という。

 ここにおいては、宗教・形而上学・科学・道徳は、それぞれに守備範囲が違い、共存が可能である事実を見出す、なおこれらのものの中においてやはり一番価値が高いのが科学であろう。

 「世界についてわれわれが知りうることはすべて、必ず感覚器官のうちに現れるものであり、われわれの感覚器官が進化すれば、いまとは違った関数的依属関係のうちにあらわれてくるかもしれないと考えた。」それはまずは無い。軽視できないものとして頭脳が抜けている、という、あきれる程の欠陥を内在させているから。



 日本バレーボール界の悲劇。日本バレーボール選手は、日本国内では、一番背が高い種類に属する、ということにおいて、バレーボール向きであった。しかし世界においては、我が民族の人々は身長が小さく、身長差ということのみによって、悲劇がもたらされている、

 ここにおいては、対戦する、背が高い民族の表情には、何の価値も認められなかった。身長が小さい者が身長が高い相手と戦ったところにおいては、明らかに、身長が高い者達にばかりに有利である、という無価値が見出せる。無価値という逆境を与えられた、我々日本人の一つ一つのプレーには、弱者の強者への朝鮮、という意味合いが含まれていて、その点で、日本人選手のプレープレーにおける表情意義を帯び光輝く。ここにおいて、我々が主張すべきことは、バレーボールは、身長階級制にしたらどうか?ということである、そうなれば、日本人選手は誰もがトッププレーヤーであろう。しかし単にそのような物を主張しても面白味が無い。そこにおいては、西洋がまるで無視し、何の価値も認めずに、油断していた、道徳自体がもはや、軽視できない力、となっている事実を見出す。そして、オリンピックにおいて、日本が出場できなければ、彼らの弱者いじめの欲求を満たすことができなくなり、ただ虚しい大会となる。

 仏教における、不立文字とは、かなり確実である。概念を概念を扱う脳みそで処理するのでは無く、概念をそれ以外を扱う脳みそで扱い、眺め、捉えることを運命として与えられた者は、その運命は生かすべきである。

 心理学的誤謬や一般にこの領域での鈍感さは人間性を助けて前進させることもあるし、後退させることもある。又、敏感さが人間性を助けて前進させることもあるし、後退させることもある。

 ドイツのメルケル首相 と フランス大統領オランド氏 とどちらを応援するか、と言えばオランド氏である。ギリシャが経済大国になるまで猶予を与えてもいいであろう。有益な発明と執筆とコンピューター・プログラミングと作曲を生み出すまで。そして、その債務超過が誰によってどのように生み出されたかが明らかにされるべきである。なお、私の発明を実現させたい国があるならば、それぞれの国の人々に、私の発明を応用することを私は認める。それがギリシャで実現されれば、ギリシャ人は債務への借金の返済が可能となるであろう。