出来る限りの世界の立場における正義の哲学39マルクス編「“共産党宣言”から随想されること」4 | 三上祐一のブログ

三上祐一のブログ

 独自の日本大改革案を掲げる三上祐一のブログです。 なお私はこのブログの著作の一部がウィキペディアの「三上祐一」の項に投稿されることを認める。 http://yuusukeueno.blog40.fc2.com/

 「(41)」~「(44)」
 残忍な暴力行使よりも怠惰なのらくら生活の方がまだましだ。

 「(45)」~「(46)」
 日本には牛耕があった。

 「(47)」
 今後ブルジョア時代と違う時代が訪れたとしても、生産の絶え間ない変革はあるであろう。社会状態の止むことのない動揺は、労働者と資本階級の間の格差是正が妥当であれば生じないであろう。それは労働者自らが作り出して行かねばならない。

 「(48)」
 固定した、さびついた全ての関係は、それに伴う古くて尊い、いろいろの観念や意見とともに解消する、ということは無い、新しい価値を帯びてくる、例えば、労働者自身が、労働の担い手でありつつ、あらゆることの発見・発明・意見の創出の役割も担えば、労働者自体の価値が高まる。また、新たな宗教上の発見があれば、宗教そのものが価値を帯びてくる。

 「(49)」
 新しい価値を帯びて来た諸事項は、時代の進み具合により、それらは古臭くなってしまうかどうかが決まる。例えば、労働者自身が、労働の担い手でありつつ、あらゆることの発見・発明・意見の創出の役割も担うという状況がそうでは無く、資本階級がそれらの担い手となれば、その時代の労働者そのものの価値が低まる。また、新たな宗教上の発見を覆すほどの、科学的発見・発明があれば、宗教そのものが価値を帯びているという状況は無くなってしまう、また宗教・科学にまたがる大いなる発見・発明があれば、両者共に価値を帯びて行く事になる。

 「(50)」
 発見・発明・意見の創出が労働者達によって行われるのであれば、彼らは発見・発明・意見の創出と労働を価値が高いものとするであろう。そして労働者がそのような生き方をすれば、そのリスクをへとも思わない生き方が勇気の一つの形象として尊重され始めるであろう。そして時代を作り上げて行く者は当面の間は、それが労働者であろうとも人間そのものである、ということには変わりは無い。ソ連では労働者に価値が置かれた、しかし、ソ連の労働者は、発見・発明・意見の創出という実力を帯びていなかった以上は、その地位は見せかけ上のものでしかなかった。新しい時代の労働者が、新しい時代の労働者として、自らの地位を実質的に高めるためには、労働者は力ずくでそれを勝ち取るのが相応しい。宗教上の発見があれば、新しい主体が崇められることとなる。労働者階級出身の者(父母が労働者階級出身)が資本家となることがあったとしても、営利の追求に走ること無く、労働者の立場に踏みとどまるためには、その者が格差是正が時代の趨勢であり、労働者の立場を守ることが、後の時代の歴史家から賞賛される、ということを知ってさえいればよい。

 「(51)」「(52)」
 今後の時代において、ブルジョアには、真に価値がある事業に投資する義務がある。企業家は、発案者と実務家が分かれるということが生じるであろう。

 「(53)」~「(62)」
 民族的な土台が切り崩された理由として考えられることは、世界中の国々の人々にとって、労働は、農業よりも少しだけ楽であり利益がもたらされる、ということであろうか?違う、地主が存在するのだ、そして地代が割りに合わなく高く設定されていたことが考えられる。そこで彼らは農村から狩り出され労働を強いられる。一時期はある有力な先進国にある民族は植民地化される、国が主導して中央集権の元に国内において産業を殖産興業しなければ。植民地はやがては国家としては独立する、しかし国民が労働を強いられる状況にあまり変化は見られない。そこにおいてはそれらの民族が、先進国の産業を盗み自らの国家の産業とし、民族が資本家になる隙が見出せない。そして多くの場合は自らの国家に自前の産業を持ち得たところで、その企業の大株主は、欧米の資本家達である。

 「(63)」
 実情は、民族は民族的一面性、というものは無い、まずは、民族の古世代は、地主・農奴に分かれていて、地方があり主要都市がある、民族の中に地方文学・都市文学が分かれているのが実情であるが、そこに世界的側面が加えられる、農村からの都市への労働者の流入が世界的側面であろう。

 「(64)」~「(66)」
 ここにおけるマルクスの著述は日本・中国の場合は当てはまらない。中国の場合には、アヘン戦争によって、開国を余儀なくされる。日本の場合は黒船来航によって、開国を余儀なくされる。それ以外の多くの諸国(アフリカ及びインド及び東南アジア)の場合は、国家が鎖国体制を敷いていなかったために、国民が安い価格の商品を自由意志で選択できる隙があり、そこをついて欧米列強は、それらの諸国に付け入り、簡単にそれらの諸国を植民地化できたのであろうか?それらの資料が現在のところはネット上に不足しているので、私がそれらを知ることは今のところは不可能である。ここにおいては「万国のプロレタリア、団結せよ」、という前に、「アジア・アフリカのプロレタリア、団結せよ」とまず先に言うべきであることを見出す。しかし2012年の複雑に絡み合った世界情勢はそれをそう簡単には許さない。まずは実質的に資本主義国家となった現中国共産党国家中枢部がその意見を一切採用しないだろう。

 「(67)」「(68)」
 「かれらは全ての民族にブルジョア階級になることを強制する」のではなくて、“被ブルジョア階級になることを強要した”のではないか?

 「(69)」
 ここにおいては「こうして人口の著しい部分を農村生活の無知から救い出した」としているが、決してそうとは言えない。日本の場合、その原因は、農村の著しい数の貧農の都市に向けての賃金労働者化である。都市に何がある?私は究極二点以外、都市に農村よりも秀でた部分を見出せない。

 「(70)」
 東洋を西洋に依存させた反動として、西洋の東洋への帰属に向かわせようとする動きが、東洋の大国によって一時試みられる。この動きにアフリカ諸国・インド及び世界の諸地域は冷たい。それによって、多くの欧米人は、この東洋の大国に日に日に危機を感じて行くこととなる。そして一縷の希望を表向きは一切を語らず、しかし心的には縋る思いで、アメリカ主義の進化形を社会に体現させた極東アジアの今や平和と裏腹に全ての国民が真の勇気を持つこと(それは自国の軍隊を持たずに屹立すること)を嫌が応にも求められている島国小国家に求める。そしてやがてこのアジアの大国は、世界中の全ての国家の独立に価値を認めることができない諸地域の実効支配を試み始める、ここにおいて、世界はその国家に背筋がゾッとする恐怖を感じ始めるようになる。ここにおいて、世界は漸く世界にとっては夢想的すぎる一思想家に、その東洋の大国を力でねじ伏せる思想を、選択すべきものの一つとして見出しそこに価値を置き、結果的に東洋の大国の力に対極的に配置されることとなる。しかし彼は東洋の大国に多分に宥和的に振舞ったと思いきや、ときに厳しい批判を向ける、しかしその多くが的を得てはいるものの、その思想を実現するには余りにも小さな力であるので、当のアジアの大国さえもその扱いに当惑せざるを得ない、そしてある面その者を微笑ましく見ているが、その力が大きくなりすぎるとその力の排除を志向するようになって行くであろう。しかし中国国家においては国家の漸進的改革が少しずつ進みつつあることもまた事実である。そこにおいては、中国の国家の中央集権的権力体制は崩壊しつつあり、少しずつではあるが中国の人民一人一人の力が増して行っていることも見出せる。中国の人民一人一人の力が増して行っているということは、現在の中国国内に親日派も多く存在することを見出すことによって、私はそれを判断した。
 またその執筆物が読者を飽きさせることがない、ということによって、多くの者を少しずつ啓発して行く、しかしこの思想家は手当たり次第に思想という思想に批判をして止まないので長い間、孤立を余儀なくされる、しかしその思想家は出来る限り言葉による解決を試み、一切の既存の権力を放棄する、という面がある意味評価されるが、社会の表層において絶賛されることはまず無い、その者が社会の表層において絶賛されると、その者の絶対的権力が確立されてしまう、それは為されない方がよい。
 そしてその思想家は、『コーラン』をも批判しているので将来的には、イスラム勢力との対話を求められる、そしてその思想家によって、イスラム勢力に“一神教”を絶対視することは、他の諸宗教と自然と対立を余儀なくされる、という理屈が一度は示されるものの、それはまるで受け入れられないことを見通している、その場合はイスラム勢力は世界の多神教宗教との対立を内在させつつ時代を過ごさざるを得ない、そしてそれは“一神教”としてのライバルとしての共感をキリスト教国家と共有することとなる、しかしそこにおいては、それら二者の間の決定的な仲違いの解消は不可能である、イエスを神の子とし、アッラーを唯一の神とする、というキリスト教者からすれば到底受け入れられぬ妥協案を受け入れること無くしては。そしてその点においては多くの宗教の可能性を否定しない多神教があらゆる宗教との間においては寛大である、ということにおいて勝利する。そしてその思想家は『コーラン』はアッラーを証拠をもってして論じていない、という点においては、他の“信じることを余儀なくされる”宗教と性質的には区別は見出せない、つまりは他の諸宗教と身分は同じであるに過ぎない、ということをイスラム勢力に一度は示す、しかしその試みは蔑ろにされるであろう、その主張は本質に関わるものであるにも関わらず、相手を蔑ろにしているという要素が見出される限りにおいて。
 なお、日本における、宗教の状況は、皆仏教を信奉している、ということになっているが、それは形式上だけのことで、イスラム教徒は仏教を蔑ろにしてもかまわない。

 「(71)」
 ここに著述されるような事は日本においては見出されない。まずは日本において商人は、士農工商という身分制における、四つの身分の中で最も身分の低い者(他の例外的身分も存在したが)として表われる、そこにおいては商人には実業における成功が求められる。そして江戸・大阪の人口集中は、多くの地方の人々の江戸・大阪への自発的進出がまずはあった。なおそこにおいての職業は大方職人仕事(工)であった。そしてときは経過し、日本は黒船来航があり、外圧をもってして開国を余儀なくされた。