地方と東京に差は無い | 三上祐一のブログ

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 独自の日本大改革案を掲げる三上祐一のブログです。 なお私はこのブログの著作の一部がウィキペディアの「三上祐一」の項に投稿されることを認める。 http://yuusukeueno.blog40.fc2.com/

 多くの地方出身者が、芸能人として採用されることが多かった。そして、東京人の実態は、秘事となってしまった。しかし、多くの地方の小学校・中学校・高校の実態と、東京の小学校・中学校・高校の実態はほとんど同レベルである。まず、教職員の質は同程度であることが見受けられる。多くの東京都民は、地方出身者の父親の息子である。地方出身者には、東京都民の多くがどのような生活をしているかを見る機会が与えられるべきである。そして東京都民の多くはどの程度のレベルかが見出されるべきである。東京都は地下鉄が張り巡らされている。しかしその状況が便利であったとしても、ただ便利であるだけであって、地方の人々との間に格差を生んでいるか、といえば決してそうではない。道路は便利ではあるが、それが地方の人々との間に格差を生んでいるか、といえば決してそうではない。基本的に、地方に無くて、東京にあるものが地下鉄ぐらいだろうが、それは通勤に使用されるだけである、それ以外の物で、地方に無くて、東京にだけあるものはほとんど無いであろう。109とかぐらいか?しかし地方には109と同程度のファッションビルはあるであろう。ファッション、というものについては、既に全く卒業していて、私にとってはまるでどうでもいいことである。ファッションというものは、深いものであるかと言えばそんなに深みがあるものでも無く、むしろ浅いものであるから、多くの人々は出来る限り若い年齢の頃に卒業すべきである。そして私がかなり嫌いなものがスーツとかいうものである。多くの会社で着用を義務付けられているが、そんなものに、価値は無い。東京では、地下鉄で皆同じようなスーツを着ているが、暑苦しいばかりである。着る洋服はむしろ自由であるべきである。着る洋服が自由になれば、会社には、開放感がもたらされるであろう。




 多くの人々は、本を読むが、多くの日本人は、下らない内容の本を高く評価する傾向がある。 そして、日本の出版社は、価値が高いものを見極める能力が無い。 ある出版社は、主管調と客観調という、どうでも良いことにこだわり、価値が高い執筆物に、それが出版される権利を与えなかった。
 私には、金曜日の夜にアニメを見る時間を与えられるが、それらのアニメ、というものにはまるで興味が無い。そこで高く評価される、アニメは多くの戦闘シーンであるが、はっきり言って、それらは私にとってはどうでも良いことである。 テレビ東京は、インドにアニメを価値が高いこととし、アニメがインドに浸透し定着することで、インドは文化的になる、というようなことを言っていたが、それは、あまりにインドの文化を小馬鹿にしすぎた発言である。 そして、私にとって、どうでもいいものが、声優の出す声である。そんな喋りなど、現実的にはどこにも存在しない、虚構である。 そして、アニメにおいて、その表現することのレベルが低いことの原因が、アニメ製作者は、多くのことの経験不足が考えられる。 文化庁が、アニメを日本が誇るべきものであるようなことを主張したが、文化庁自体が、価値が高いものとは何かを見極める能力を持ち合わせていないのが現状である。文化庁が、価値が高いものとは何か、ということを表現し、それらに価値があれば、私は文化庁を評価するが、そんなものを文化庁の人間は表現できないのが、現状である。 そして私が高校時代に毛嫌いしていた奴らが、紙袋に、“アニメージュ”とかいう本を忍ばせている“おたく”、と呼ばれる奴らだった。おたく、という連中に、私は一切の価値を認めない、おたくの現状は、経験不足で使えぬ奴らである、ということである。 私は、高校では、3年間、ほとんど授業を聞かずにウォークマンでひたすら洋楽を聞いていたが、その後一日12時間~14時間の勉強を行い、結果的に、私の学校で、一番良い大学に受かった。アニメージュとかいう本を紙袋に忍ばせていた連中が、いつも教室の後ろの方にいた、俺達の存在に、迷惑そうな表情をし、教室の前の方で授業を聞いていたが、結局そいつらの誰もが、いい大学には行っていないはずだ。そいつらは、俺と一言も喋ることを試みることが無かった。 しかしその大学の多くの奴らは、事実上、価値が低い奴らが多く存在した。 日本の出版社は、真に価値が高いものとは何かを見出す能力が、無い。 早稲田大学の国語で、取り上げられる、現代文の文章は、価値が低い。そして、それらと英文で書かれた魅力に溢れる名文とには、歴然とした差が存在する、質がまずは違う。 小林秀雄、という奴の文章に何の高い価値が存在するのか?私は小林秀雄の文章を低評価している。 まずは、私は日本の多くの小説を軽視している。それらは、「~がコーヒーを飲んだ」だのの無用な文章を読むことを強要する。 私は、日本の多くの小説の、中のページをぱらぱらめくるが、それらを見て、まず、その小説を読む気が失せる。そして、多くの小説がそのような状況である。 日本人の多くの出版社が、かわいい、ナイーブ、というものに無用に低い評価を下す、悪い習性が存在しているように思える。 そして多くの日本人は、書かれた文章に一つでも誤字・脱字が、あると、それを見出した時点で、そこに書かれている文章を小ばかにし、読むことを止める性質がある。そしてそこに書かれた本質的なことを読む試みを止める、これは、日本人の、浅はかな性質である。

 多くの日本人は、自分が理解できないものに、低評価を与える。

 日本人は、正義に対しては、なめてかかる。

「その軽なら許す」とか言っている、コマーシャルに出ている男について、私は価値を見出すことができない。そいつには価値が高いものとは、何かを徹底的に教えてやらなければならない。

 多くの日本人は大企業に就職し、そこでサラリーをもらうことしか選択しない。

 私は世の中で、どのように扱われているかが、そろそろ明らかにされなければならない。

 そして、高島彩が、私が喋ることにいちいち反応して、小ばかにするような状況が長い間もたらされたが、それは一体何だったのかが明らかにされなえればならない。

 私は反日の気持ちがある程度、理解できる。

 私は、私をなめてかかってくる奴がいるならば、そいつに私の実力を示さねばならない。

 日本では、こずるく、元々弱っちいやつらが、そいつらどうしで、仲間意識をもち、裏で小汚く繋がっていて、そいつらが無益に保身に走る、状況を許すことはできない。

 野田の消費税増税の方針で、支持率は、0.1%ほど、上がったが、そいつらと私は一緒にされたくは無い。

 私は日本国民であることが嫌である。日本人であることに誇りなどは一切無い。

 フジテレビが威圧的に示す、「ツタン・カーメン展」、というものはなんなのか?そこにおいてナレーションを行っている奴に対して私は激しく怒りを覚えた、そいつのことは私は一生許さない。大体においてその当時エジプトで行われていたことは奴隷制である。そしてその当時のエジプトでは、近親相姦が重ねられた、というあってはならないことが存在した。

 多くのクソ日本人は、優しくしてると、なめてかかってくる特質があるから、そいつらに対しては、怒りを表現するぐらいがちょうど、いい。

 愛ばかりが主張されるが、それらが、私が、私には愛が無い、と言ったことに対するものだとするならば、余計なお世話なんだよ、と、言いたい。愛の変わりに尊重されるべき親孝行が存在すると、何度も言ってんだろうがよく聞けよ。