東北に経済特区を作る他詳細3 | 三上祐一のブログ

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 独自の日本大改革案を掲げる三上祐一のブログです。 なお私はこのブログの著作の一部がウィキペディアの「三上祐一」の項に投稿されることを認める。 http://yuusukeueno.blog40.fc2.com/

 上述の理論がブッダの理論であるならば、それは不完全な理論である、それを超える人間の存在が考えられるからである。

 シャンカラは“本当の自分”というものを主張するが、人間というものは、経験によって、いくらでも自分自身というもの自体が変わる。

 “出家遊業”ということは親孝行に反している、そこで、中国の孔子の思想と仏教は根本的に対立する。

 シャンカラの精神は完全では無いが、平等の精神に繋がっている。しかし、その力が強くは無いから、現代のインドはカースト制を断ち切れない、というのが私が見るところである。

 平等の理由は利己主義的に説明することができる。なぜ平等は必要か?ある国があれば(今後、国という概念は地域という概念になって行くことが予想される)そこの人間全員が活躍でき幸せになり、巡り巡って、その国の人間全員が大きな現世上の幸せを掴み取ることができるからである。

 シャンカラが幼い頃師に「君は誰ですか」と聞かれ、「先生、私は地でもなく、水でもなく、風でもなく、虚空でもなく、それらの属性のいずれでもない。私は、感覚器官でもなく、統覚機能でもない。私はシヴァ神である。」という答えは、思い込みの可能性が高い。感覚器官、統覚機能は現実的に体の一部でありつつも、自分はシヴァ神以外の何ものかである可能性も考えられる。その根拠を出来れば明示してほしい。

 しかし、人間の教育機能が高くなれば、誰にでも先天的特性が無くとも、普通を含む、複数の多数の経験、ひいては一つの教育によって、誰もがシヴァ神と同じ能力と言えるようになるかもしれない、しかし、私が考えるにシャンカラは自分自身がシヴァ神である、ということを証明できていない、そこにおいて、シャンカラは説得力に欠ける。

 無明を無くすことは経験によって可能であるが、教育でも可能になるように私はしようと思うが、多くの人間は、それによって、自由に冒険できないことによって、閉塞感を感じるかもしれない、であるから、それはほどほどまでにしておくべきであるかもしれない。 “不二一元論”など逸脱した考え方であり虚妄である可能性がある、それはとどのつまりはプラス思考の一つであるということを言いたいのか?ここにおいて、私はウパデーシャ・サーハスリー批判は随時的に行うことと決定した。

 それ以前に、ウパデーシャ・サーハースリーの訳が間違っている可能性が高い。

 シャンカラは、『知識のみが無知を滅することが出来る』、と言っている。他方、シャンカラは、『行為は、知識を補助して、解脱に導く』、と言っている。また、シャンカラは、『解脱を求める者は行為を捨てるべきである』、と述べている。これらのことを私は理解不能である。

 ◎輪廻の思想も虚妄である可能性もあるであろう。それを信じる以外の形で証明できる人間がこの世に存在するか?存在しはしない。

 『バガヴァッド・ギーター』はレベルの高い著書であるかもしれない。これからは主にそれの研究とプラトン と アリストテレス について著述する。 篤実な人間は、得た情報から、有益なことを創造する、私の場合はそれらは言葉として考えないことから生じるものである。 失語症の人間は想像することが文章に翻訳するとあまりにも長大であるために陥る欠陥である可能性がある、しかし、失語症の人間には希望がひた隠れている。
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プラトン 国家 について
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 プラトンは神の存在を否定していない、そこにおいて、全てのことを考慮する、私の精神性には適っている。そして私は本格的に、適宜に“国家”において批判されるべく点について取り上げたいと思っている。私は“国家”に対抗して“地域”という本でも書いてみようかと思う。私は、現代に生まれているから、プラトンよりも、言葉で真理を表現すること、ということにおいて長けているのは、当たり前なのである。

 そして人間の頭脳は底流で流れる思想上に、鋭敏な思想を持ち合わせている、という状況を体現していることが考えられる。

 確かに織田裕二はかっこいい、しかしそれは大器晩成を目指した、私が求めたかっこ良さとは違う。

 しかし、プラトンの言う、“哲学者が国家を統治すべきである”、という精神性は、私は3ヶ月程前に卒業した。その私が、以前組織・運営していた、党の名前は、正義哲学党である。その私は現在は、発案意見党の管理人である。 プラトンの述べる「(不正)が利益になる(得になる)という説は完全に誤りであり、(正義)こそが人間にとって真の利益となること」という意見からして、言葉としてはそれらが細分化されていないことが考えられる。正確に表現すれば、「人間の利益を叶えることの延長上に正義を見出すことは考えられる可能性がある」というのが一つの表現である。
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アリストテレス 弁論術 について
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 ちょっとだけ読んで、やる気を無くす。がちょっとやってみよう。隠蔽(という言葉を試し書き) dialektike 弁証術は推論を中心とするが、その推論は、すべての人、もしくは大多数の人、もしくは著名な知者が抱いている見解、一般に通念(endoxa)に基づいており、その限りでは、それ自体に信が置かれる、真にして第一なる原理に基づいた論証とは区別される(『トピカ100a27-30』)。 ─ その精神性は、国語能力偏重主義者に重きを置いた見当である、と私は考える。そしてその精神性は、多数決主義・自由主義・各々の人々のそれぞれの見解、もしくは大多数の人々の統一的見解、という考えを考慮していない。 ─弁論術と弁証術 アリストテレスの思想は、普遍的なものを捉えることを目的としていることが考えられる、しかし、アリストテレスの思想は、例外の存在の現実には対処できない、という欠点を持つことが考えられる。
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バガヴァッド・ギーター について
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(シャンカラの 注 を見て感じたこと)

 それはやはり信じるということを強要するものであり、科学的宗教とは言い難い。そして暗にカースト制度を肯定している、その時点で、それは私にとっては、“否”である。

 欲望が高まり、識別知が減少するとは限らない、欲望が高まると、識別知が高まる、ここにおいて、インドが素直にイギリスの植民地になった気持ちがわかる気がする。植民地では無くなった、インドは誤った伝統に縋る以外には無いのかもしれない、それは、多分インドの人々に、明確な答えを与えるものではないであろう、ということはシャンからの思想について言ったものであるから、ヒンドゥー教について言ったわけではない。

 バガヴァッド・ギーターの批判者であるシャンカラの宗教哲学は一神教であるらしい、故にそれは私にとっては受け入れられないものである。

 人間は全ての執着を捨てる必要では無い、と私は考える、必要最低限の執着は叶えるべきであると私は思う。私には大きく考えれば、4つの執着がある、母に対する執着(それは孔子によれば親孝行であり、良いことであると考えられる)と妾と想定される人間への執着と、妻となるべき女子に対する執着と、私の現世上のささやかな成功を求める執着である。

 しかし、バガヴァッド・ギーターには、私の考えと一致する考えも見出すことができる。そこで、私は、バガヴァッド・ギーターに本気で取り組むことにする。
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 2章そのものに対する意見
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 そこにおいて、学問するということを純粋に行うことは、過去に従順になることを意味するのかもしれない。そこに真理が存在する可能性はある。そこで、言葉で考える、ということ自体が、退化である可能性もある。

 現代においては、言葉によって真理を表現する、ということが、より、妥当なことであろう、しかしそれは、絶対的真理に背いている可能性がある、私はたまたま、言葉によって考えない者に生まれた、その考え方で、真理を考え、それらをいちいち言葉に翻訳するという作業を私は行っている。それは現世上においては、民主主義における多数決主義に叶ったやり方である場合があることは、まあ考えられる。しかし、人間は、本心ではそれをよしと考えていても、言論による表現が完全に行われていなかった場合は、人間は投票上では裏をかくかもしれない。 そこで考えられることが、言葉によって真理を表現する、ということを宗とする現代においては、アルジュナの悲しみを解決するためには、出来る限り適切に考え、多くの人々が、諾と頷くことを表現し、慣習そのものを変えることが考えられる、しかし、それらのことがうまく行えたとしても、過去の人々はそれをすんなりと快くは思わないかもしれない、なぜならば、彼らが真理とすることからかけ離れている可能性が高いからである。

 憐憫の情は言葉によって真理を表現する精神からすれば、正しい可能性がある。

 私は死ぬときには、母親孝行を絶対的正義と考え死ぬ、そこにおいて閻魔大魔王に裁かれようが、後悔する気持ちは沸かない、現世上の精神からすれば。しかし、閻魔大魔王も、言葉でのやりとりを重視している以上は、私のやっていることは、彼らからは、陳腐であった、としても、正当性があることが考えられる、そこで私は閻魔大魔王が存在するとすれば、私は白と裁かれるであろう。

 言葉によって真理を表現する、ということを宗とするならば、人間はいずれを選択しないほうが良いであろう、より良い案を自らの力と、世界中の人々の総合力によって、導き出すべきである。以下の文章では、“言葉によって真理を表現する、という精神においては”、ということを、“私の適宜であると考える真理表現からすれば”、と表現する。
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 2章のシャンカラの注釈に対する意見
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 バガヴァッド・ギーターにおいて、カースト制度に希望が見出せれば、それでよしとする。

 悲しみや迷いには良いものと悪いものがある、と言える。

 輪廻が終わることが本当に良い事か?永久に意識を持てないのであれば不幸であるだろう、そこで、人間にとって考えられる幸せとは、極楽浄土における永久であり自由な意識の維持である。
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 反対者の意見・義務とは何か?年長者、兄弟、息子などの殺害を伴わずして、幸せは導くことが可能である。それは言葉によって(私は言葉が最善のものであると考える者ではなく、また本質的に言葉で考えない者である、また言葉には欠点があることを知っている)発案・意見することによって、可能となる。

 生物を守る精神は良いであろう。
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ヴェーダーンタ派の返答

 別様に語ることは、決して間違いではない。

 ここで考えられること、インド人は欧米思想とバガヴァッド・ギーターの思想とブッダの思想と論語の思想等を取り混ぜて、オリジナルの思想を編み出してみてはどうか、ということである。私はヴェーダーンタ派の思想は当分は取り入れない。私はどうやら、来世、つまりあの世については決定的に知りうることは出来なかった、今までは。でも、現世上で日本においてオリジナルで有益な思想を導き出した自負はある、そして、インドか中国から、次世代を担う逸材が出現することを望む、その者に私は私の立場を受け渡すつもりである、望もうが望むまいが、そして私はその者によって、私に安寧が与えられることを出来れば望みたい。

 ここで一言、イギリスの産業革命は素晴らしかった、と言えるであろう。

 カースト制は来世を信じる者、もしくは輪廻の根絶を望むものからすれば、合理的な精神であるかもしれない、しかし私は、現世での幸せもそこそこに叶えられて、来世にも行けることを望む。
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2011.07.14.12.10⑧(笑っていいとも の佐々木希プロデュース又吉を見て)
 佐々木希は私的にはOKだが、そんなに離れた人間を思うことなどは止めることを義務としたい、という気持ちがある、それ以前にその気持ちは大した気持ちでは無い、というのがある。
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 徳・不徳というものは、現世の利益を主に考えるか、終生後の利益を考えるかによって、変わって来る。

 2011年現在において、人は出来る限り、言葉によって、現世の幸せは叶えるべきである、それは、言葉による発案・意見による。終生後の利益は行為によってもしかしたら叶えられるかもしれない、それは現代においてはズバリテロという行為である、しかしそれは、現世の利益をささやかに叶えたいという人間にとっては途方も無く迷惑である、そこで将来において、私の著書に影響され、レベルの高い終生後の利益を叶えるものが出てくることを望む、そのような者が生まれたならば、私の望みを過去に遡って満足させてくれるであろうことを信じる、私に信じるという行為がもしもあるとするならば、しかし私は、本来、懐疑主義者である、しかし私はサンジャヤと同じ懐疑論者では無いようである。

 カラムーチョはいいだろう。

 ヴェーダーンタ派のバガヴァッド・ギーターに対する意見としては、理由が2つある、ということがあるようであるが、それは良い事と考えられることである。同一人物に2種の道が存在することは可能である。そのような好ましい状況は守られるべきである。

 子どもではない人類の一人が、子どもを生まない人間の欲求を将来叶えてくれるかもしれない。

 バガヴァッド・ギーターについて、細かいことについては私はこだわらない。発想を与えてくれるものを私は求める。

 人はある特性を持って生まれ、適度な教育を受け、普通を含む特殊な複数の多数の経験を積めば、自分で創造するということが出来る、そのようなものは、多くの人々を救い出すべきである、特性を持って生まれて来たのだから、そして将来的には教育によって、そのような人物が多く輩出される可能性がある。

 現世において、「二種の内どちらが」という選択を強要することが多い。そこにおいて、ひとは客観性、というものを持ち出すが、現実的には、人によって、党派・派閥・時代によっても違い、その強要には従わない方が現世利益が多いことが考えられるし、双方甲乙付けがたし、という状況が、科学的である、と考えられることもある。

 甲乙が存在する場合、「この世には二種の立場がある」とは言い切れない場合が存在する、それは、甲乙が共通の文化を持つことによる。

 人々の文化は影響し合い、互いに交じり合う。

 行為と、認識の結合ということは考えられる、ながら作業である、タクシー運転手はタクシーを運転しながら行き先を聞き認識する。食堂で働く人は、作りながら、次の注文を受け付け、認識する。スポーツ選手は常に行為しながら認識している。生放送の司会者も行為をしながら認識している。

 人は経験による行為を行う必要がある人間がいる。そのような者は、出来る限り、無難に、出来る限り少ない範囲で煩悩を満たすべきである、というのが私の主張である、それ以外に様々なことを経験して広く知識を得なければならない、しかし、人生において、たった一人のみ愛の成就を選択する、という道もあるであろう。民主主義の現在の日本において、人々には、機会均等がもたらされるべきである。

 バガヴァッド・ギーターを読んでいると、いかに先祖は苦労を積んできたかがわかる、言葉上で理解する、という方法において、しかし、言葉上の理論において進化するということが進化の全てでは無い、であるからして、私の全てを言葉によって解決しよう、という試みは、絶対的には正しくは無いかもしれない、しかし、現代上の雑多な世の中において、それは先進性があると考えられることの一つである。そして私の場合はそれは現代人として進化した人間のDNAからして感じる正義に従うことである。そして現代人は生物多様化の問題を克服していない可能性がある。そこにおいて、私は先祖を尊敬する。そして宗教的においては過去の方が現代よりも進んでいた、という可能性も見逃せない、と言えるであろう、そう考えると元も子も無いが。

 現代においてより高い欲求を持っている者は、幼少期から青年期において、できるかぎり全てのことを知りたいと思うこともある。現代において、真のいわば“アートマン”の様な知識を得ようとすることは、高い欲求の結果である場合がある。言えば、欲求が高いからこそ、自らを〔祭祀等の〕行為に従事させる、ということはあり得る。

 バガヴァッド・ギーターを読んでいると、過去の人々はアドリブということを行えなかったことが考えられる。私は文章表現におけるアドリブ表現者となることができる。そしてそれは文章表現において、発言によるアドリブ表現者よりも、深く多様なことを表現できることが考えられる。しかし何度も言うが言葉で表現できることが絶対的真理であるとは限らない、そのような人間は現世上である程度の努力を行ったと同時に多くの運があったとも表現できるであろう、しかしそれを職と考えることは出来るであろう。そこでこれは私の考えであるが、文章表現者は身分制度を考える上において、最低の地位であると捉えることも可能であろう、それは常識的ではないが、そしてそれは現代民主主義における多数決の賛成多数にそぐわないことが考えられる、そして私はそれを明言しないでおく。

 過去の人間はほとんどのことを経験から知った可能性が高い。そして学ぶということはほとんど行わなかったことが考えられる。だから、論語において、学ぶことを絶対視したことは、行き過ぎであったと、現代における、言論主義における立場からは言えることである。現代社会において、人間は経験から知り学ぶことから知ることをミックスさせることが適宜である、と言えるであろう。「諸グナ(感覚器官)が、諸グナ(感覚の対象)に対して働くと考えて、〔行為に執着せずに〕ただ行為する」というのは一つの知恵かもしれないしかし、感覚器官で感じることを次元と捉えることは可能である、そうすると人間は数万次元において活動していると言える。しかし、重力と時間において、自由ではないことが考えられる。重力から自由であれば、快適であろう。時間において自由である、ということは、何次元もの時間を一気に感じることが出来ることである。時間、というか我々の住んでいる一連の歴史は、一つの帯の上に存在していることが考えられる。多次元というものを考えれば、その直前にも直後にも時代の帯が存在することが考えられる、それらは無限に存在することが考えられる。死は感覚器官からの解放なのであろうか、逆に自由度を失うことであるのか、私は現段階では、言葉で、それらの真理を完全に知覚することは出来ない、しかしそれらのものを仮説として表現することは可能である。

 真理は言葉で表現できるものであるとは考えられない、そこで「成就した者が、どのようにブラフマンに到達するか、〔それを聞け〕」ということは真理からはかけ離れたことである可能性がある。それを言葉上で表現することを宗とした場合は、知識のみによって成就したもの、行為のみによって成就したもの、双方が、言葉で真理を語れるはずである。言葉上において有利なのは、過去と未来を比較した場合は、未来なのかもしれない、しかしそれは、真理からはかけ離れている可能性がある。

 イギリス人は科学は最先端で現世上の便利を達成したが、人文学上ではインドに多くの示唆を受けた可能性はある。

 ギーター聖典での確定した意味は、唯一、真理への智慧によってのみ解脱が得られるのであり、行為と〔智慧との〕併行によってではない、ということである。この意味は、文脈にそって、我々はここかしこ、様々な部分で指摘するであろう、その可能性は高いであろう、しかし、言葉において真理を出来る限り表現する、という方法においては、我々はそれらの主旨にそぐうことを行っている、そこで考えられることは、言葉において真理を出来る限り表現する、という方法において、もしくは我々の進化(退化の可能性も有り得る)したDNAから醸し出される多数決における正義にそぐうことを行っているとは言えるであろう、その経験に則して考えられることは人間は人生上において、28歳ぐらいまでには普通を含む複数の多数の経験を行うと同時に、ある程度のことを学習し、自らが創造することによって、言葉における真理に叶うものが導かれることが考えられる。

 坊さん、というものは、洋の東西を問わず、信じる、ということによって、成立している。真の学術派は最後まで懐疑論的立場と信じるという気持ちをバランス良く持つことが要領が良い事とは考えられるであろう。

 私は人文学の古典を研究して真理を紐解く、“古典人文学から真理を紐解く学会”を立ち上げる。もしくは“人文科学刷新学会”を立ち上げる。

 ◎そして私は、国語辞典の全ての言葉から、人間の脳についての概念、言葉上でこの世界の真理を表現する。まずは、人間の心理構造の言葉上における真理を解明する。そして主に哲学から宗教を科学しようと思う、その重要書物として考えられるのが、主に“バガヴァッド・ギーター”とハイデガーの“存在と時間”である。そして私は新しい宗教哲学を創設するつもりである。その前哨戦として、行ったことが、ニーチェ・ブッダ・ムハマンド(コーラン)・孔子(論語)・キリスト(福音書)・荘子・現代の代表的作家について意見を述べることであった。プラトンの“国家”・アリストテレスの“弁論術”を研究することは副次的に行おうとは思う。そして、私には“日本大改革案”を詳細に出来る限り、議論可能な著作に仕上げなければならない、ということもある。その上で時間に余裕があれば、脳科学について研究するつもりである。しかし、現実問題解決を最重要事項とすることに変わりは無い。

 宗教上の問題については、閻魔大魔王のことについては、ある程度、人文科学的に解決出来ることを証明した。なぜならば、閻魔大魔王は言葉というものに依拠しているのであるからして、私のことは白と判断するであろうことが予測されるからである。私の精神性は、古代人からすれば、諧謔精神の対象であろうことが予測される。そして私の行いは古代人に許されるであろうことを予測する、古代人にとっては、つまらぬことの一つであるからということが考えられる、もしくは超面白いものかもしれない。私は東條英樹には、一笑されて終わることであろう。
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 カラムーチョの宣伝で歌っている、主役の男性は、一回天を仰ぐ、それは、気持ち的には嫌だけど、受け入れざるを得ない、という精神性の表れかもしれない、それを私は受け入れる、どうやら、それは、踊っているその後に背を向けて歌い踊る、ある男性を見て判断したことであるようだ。

 現代の日本ドラマ、というのは、よりリアルな雑多な人間風景が鏤められていて、それにドラマとしての脚色が行われているのであろう、まあ、多くの人々にとっては、有益なものなのかもしれない。

 日本の男子サッカーの場合は、「そういうもんじゃないかよ」と肘鉄うちかます、日本人の良くない部分が見え隠れする。肉食系だけど、一人の女性のみを愛する人間というのは考えられる。

 案出・具体案・具体案・具体案・具体案・具体案・具体案・・・政府が採用・予算編制・人事 というシナリオを私は考えている。そこに至っては、採用しないものに責任問題が発生する、ということも考えられる。まあ現段階では、私がそれを詳細には表現していないことも考えられるが、しかし、議論の俎上にそれらの提案できる体裁はとっていると思う。つまりは、一人の人間で出来る限り到達できる所まで到達し、それを効率的な議会によって、作り上げていく、という状況までには、持って来ていると思う。しかし、それはスケールが大きいので、100年ぐらいの人間の幸せの達成は可能である、つまりは、少し遅れてでも、それらが実現化すれば、国の借金を全て帳消しにできる実力を持つと考えられるから、そう慌てることでもない、とも考えられるが、今すぐにでも、労働から解放されるべき人間を自由にするためにそれらは早急に施行されるべきことも考えられるが、国が発案・意見を編み出して、それによって、それらの人々の自由の実現を行うべきである、それが出来ない与党は、はっきり言って、与党失格である。出来る限り迅速に東北と他の日本の全国との格差は是正されるべきである、と私は思う。

 所詮言葉は言葉である、言葉は有限である、であるからして、表現できることは、出来る限りまで、としか考えられない。私は、ピアノを習っていたから、音楽の最先端には敏感であった、と思う、そこで私が高校時代に選択した音楽が欧米の音楽であった。

 私はスポーツについては、ある程度までしか語れない。ある程度とは、少年時代にやっていた水泳と野球と、中学時代のテニスと、高校時代のハンドボールと、スキーでである。水泳では私は3学年ぐらい上の上級生と一緒に練習をしていた。そのころは、練習はつらかった、しかしそれらの上級生達の練習に私は追いついた。プロ級には到底及ばない。
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ニーチェ 権力への意志 を問う
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 私はどうやら、歳を追うごとに深い思想を表現できているみたいだ。そこで私は、ニーチェの権力の意志における、問題提起を解かなければならない。そして出来ることならば、ヒトラーの問題にも関わるつもりである。そしてドイツ関連として、ハイデガーにも少しだけ関わろうとは思っている。
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ハイデガー 存在と時間 の意義を考える
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 私は、現世利益を叶えることばかりを考えていて、宇宙・存在・神などについては、まるで無関心であった。しかし、死後のことを意識することが多くなると、元々知識欲が大きかった私は、その問題について、気分的にも本気で関わる気になった、と言えるであろう。

 「ハリー・ポッターと死の秘法」の思想は、ある程度良いものであると考えられる。ある程度、というのは、全ての人間が生きるために何かをする、と言っているからである。しかし、より完全に考えれば、全ての生命が生きるために、と言える。

 アフリカ人は自分達の社会については、私の意見に共感してくれる気持ちがあるならば、自分達で仕上げてもらいたい、という気持ちが、私にはある、それは、出来る限り、不幸な子どもが創出されないために行うべきことである、しかし、代々の大人も、不幸な過去を背負って生きて来た、ということから、その改善はうまくはいかないかもしれない、我々日本人は、アフリカをある程度救うということは可能である、しかし、安易にそれを行っていいものか、という気持ちが私にはある、なぜならば、私は基本的に「郷に入らずんば郷に従え」という精神を採用しているからである、しかし、アフリカ人が、私の意見を採用する気持ちがあるならば、私はアフリカ、という土地を決して蔑ろにはしない、どうであろうか、そう言われると、アフリカの大人達は正直言って困るのではないか?

 VS嵐 北大路さんからのありがたい意見。「今日はお会いできて良かったです」 米は世界を現実的に現金で解決する、ということでまだまだ意義がある。

 議会において求められることは、案の徹底検証である。そして案をもっと良いものに作り変えることである。そして最終的には案の実行決定である。

 今日一日の私の意見の創出によって、私はまだまだ使える者であることが証明できたのではないか?

 アルゼンチンについては、私はまるで詳しくは無い。しかし、アルゼンチンが文化が高い地域である、とするならば、経済問題を解決することだけが、幸せでは無い、ということも考えられるであろうが、この問題には深入りするつもりは無い、なぜならば、私は、ある程度の経済状況が無かったならば、現実的に、不幸であったからである。新しい証明方法、それは言語で純粋に論理的に説得力がある、意見を言えるかどうかにかかっている。ここで、論じておきたいことは、現代社会においては、私の非常識論よりも、常識論の方がまだ有効である可能性もあるということである。

 奇跡体験アンビリバボ~
 アメフトの話。「諦めなければ夢は必ず叶う」とは現実的には考えられないことである。そしてアメリカ人は皆がネバーギブアップと言っているから、無駄な競争が多く存在することも可能性としてはまあ考えられることである。そしてアメリカ人は単純構造の言葉理論を採用している国である可能性は高い、しかし良い面も多くあるであろう。

 義足はもっと発展すべきではないか?

 医学の現状も改善されるべきである。

 私はほとんどの場合、常識は採用しないが、緊急の場合はそれを用いる必要性がある。

 そこで、家族の意義が問われる、これは非常識論であって、誰にも採用されないことが考えられる。現代民主主義多数決主義の世界では、常識に頼って、生きている人々のことも考慮しなければならない、ということがある。

 私は、ここ一年で、今までよりも、より、意義深い大作を書く。

 ドラマ「それでも生きて行く」は世知辛い世の中で生きている、多くの種類の人々が存在する可能性があることを、描き切れていない。このようなドラマを視聴率目当てで作ったとしたならば、それは、罪である可能性がある。問題を解決するためには、まずは裁判の非効率性を考えるべきである、という考え方もあるであろう。

 日本は米現在進行形発言表現可能人間大評価主義の影響をもろに受けた可能性が高い。

 私は、便宜一切無しで、ある程度の文章を描ける自信がある。 当たり前を設定して、それに見合う自分を演じて、それでよしとする文化は決して良くは無い。

 人間はマンモスを食って、生きて来た、というのが考えられる。

 私の考えが世の常識になっては良くない。私の考えは、潜在的常識である、という状態であることもまあ考えられる。

 私は私の状態を自分で確認できていない以上は、最低限の収入の確保ということは考える。

 覚醒剤が本当に根源的に悪いことなのか?覚醒剤を、軍隊に使用したことが悪い。覚醒剤は、慎重に扱わなければならない問題の一つではある、しかし人々により平等を与えること、人々の能力を増幅させることが考えられる、日本では酒で救われる人間ばかりに幸せが与えられる。しかし、覚醒剤を使用することによって、人殺しの能力が上がる人間には、それは与えられるべきでは無い。

 織田信長の後の武将の戦乱では、鉄砲は一部しか用いられなかった。そこには、刀同士でやり合うのが、武士の流儀とする、という道徳が存在したことも考えられる。

 私は主には言葉で考えていない、ということの証明として、形容詞・主語・助動詞・助詞重複傾向がある。しかし私は、言葉以外の何かで考えつつ、言葉で考える、ということを行っている、それは多次元の証明の一つではないか?