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中華人民共和国において、問題なのは、幾多の戦乱を乗り越えて共産党精神の重要さを身をもって知ることが出来る、結党当時の人間が既に実在していない、ということである、中華人民共和国においては、結党当時を知る人間が主席であった頃は、ある程度受け入れることが可能な政治が行われていた様である、しかし、現在中国共産党内に結党当時の精神性を思い出すことができる人間が実在しないことが一つの問題と考えることができる。
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しかし、中国人民共和国の実際の人物の表情をみていると、様々な苦悩をしょいこんでいることが思い浮かぶ、そしてある程度の親しみも覚える。
そんな中でも、中国政府が艾未未氏の保釈を決めたことは、明るい話題であった、と言えるそこにおいて、中国においても一筋の光明を見出した。
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そこで次には、何が有益なことであるかが決定されなければならない、というかそれを思考し常に反省し、現在進行形で設定し続けて行かなければならない。現状の中国では、中央政権の権力増強と利権拡大が有益なこと、ということになっている節がある。何が有益なことであるかが常に議論され、常により良い<何が有益なことであるかの解釈>が選択され、更新される、常駐の特別な会議の設置が考えられる、それによって、常に、中央権力による誤った意思決定・行動は監視され<何が有益なことであるかの解釈>は是正される必要がある。
人間には、必ずと言っていい程に見落としがあることが考えられる、ゆえにそれらは常に考え出され続け、常により良い方法が選択される状況にしておかなければならない、つまり、ある時代に考え出された思想を最上のものと定義し扱う習慣は止めなければならない、と言えるであろう、これは私独自の常識から離れた考えである、ある時代に考え出された思想は常に改良されなければならないであろう。
まず、現代人は、後の時代の方がより優れている、と考える習性がある、それは止めるべきである、かといって、前の時代が優れている、という確証はないが、中国では周という国家が理想的であった、とも考えられる、しかし欧米の導き出した科学の有難さは決して忘れてはならないであろう─学ぶことが常に正しいと考えることは理論的に、前の時代が優れているという、判断を知らず知らずのうちに採用していることである(それは師弟関係から作り出される学問の弊害でもある)─、それらは時代時代において研究され、優れていることとは何かが適宜に選択されるべきである。
ある発案や意見について、発案を付け足す、意見を述べる、ということはあるだろう、そこでそれを多くの人々でやる、ということが考えられる、つまりある発案や意見が出たならばそれについて多くの人々が発案や意見を言う、ということである。そうすると、議論が限りなく広がる、要はその収集方法である、一つの考えとしては、拍手が多く集まったものを有意義なものとすることが考えられる、それはまずは党で行うことが考えられる、そして地方においては市議会レベルで行い最終的には全国大会にすることなどが考えられる。それを拡大すれば結果的には民主主義の採用ということになる。二つ目の考え方としては、有能な人間で有意義な意見はどれかを決めることである・・・、そこではまずは有能とは何かが問われなければならないことである、私はその能力とは、無難に時間を埋め合わせるトークを行う能力ではないと思う。 そこで考えられることが、中国内地域と中国外地域が形成されることである。
中国は素直に民主主義と自由を受け入れた方が楽なのにな。
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2011.07.06~07.08期2011.07.08.02:33
多くの場合愛は偽善の証である、純粋に愛を持っている人間がいるならば、私はその人間を尊敬する。私が愛を持てなかったのには、大きく考えて、二つの理由がある、まずは親孝行を第一とする、という気持ちがあった、そして多くの場合は一人の女性では満足できない、という気持ちがあった。
世界中の考え方を混ぜ合わせ、出来る限り一番素晴らしい考え方を編み出すべきである。もちろん多くの考え方が混在しているべきであろうが。現代世界人は議会制民主主義の時代から、国民全員の発案・意見のうち、有益な発案・意見が採用され、国民全員によって、広く議論が行われる世の中に移行すべきである。
ある意見があり、そして他の意見がある場合、それらの意見を統合した、よりよい意見を作り出すべきである、人類はその試みをしない。私はものごとを多数決で解決するのではなくて、それぞれの人々が、それぞれに正しい意見を持てるようであるべきであると思う。
私は、くだらぬ便宜によって、ものを書いている。私は恥ずべき人間であるかもしれない、しかしその恥ずべきことは自分としては最小限に抑えてはいる。だからそれは利用価値があるならば、ほとんどただで振舞われるべきである。しかし最低限自活したい。最低限自活できれば、それ以上は求めない。そして私の著述することは、まず第一に、非常識だ、それは、多く、批判にさらされることが望ましい。
通常、尊敬の気持ちは、習慣などから起きるものである、しかしその習慣自体が根本的に無意味なものだったとしたならば、その尊敬の概念は無意味なもの、ということになる。
習慣とはあまり価値の高いものとは考えられない、しかし多くのことは学ぶ、ということによってなされる以上、私たちの生活は根本的に習慣化されているのである。現代において、学問と習慣というものを分離することは難しい。それでは、学問において習慣化されていることは何か?人文学の問題についても、科学的に捉えることや欧米文化を第一に考えることなどである、欧米文化は科学技術において優れている、それは決して忘れてはならないことである。しかし、軍事力によって物事を解決するやり方は、良いこととは言い難い。
人の気持ちというものは、国・社会・党・家などに属している気持ちなどがある、それと同時に各々の本心というものがあり、それらは、それらが相互に影響仕合って複雑な人間感情というものが形成される、そこで、リアルな人間性・気持ちというものは、言葉で一刀両断にできない性質がある。そこで例えば韓国について考えてみると、韓国人は教育によって反日の気持ちを持ちつつも、現代日本に親しみを覚えている人間も多いであろう、その程度については言葉ではほとんどうまくは表現できないが。そして日本と韓国は経済上は、敵・味方の関係である。これらの問題は速やかに解決されるべきである。そのために考えられることが東北地区において全ての経済が賄われる経済のブロック化である。
明治維新~終戦までにおいて日本が基本的に大陸に触手を伸ばしたということは、良くないことであった、と言えるであろう、それは私の独自の意見であるが、この歴史観は、歴史をもっと深く勉強することで変わる可能性はある。しかし、だからといって、中国は反日でいいのだろうか?中国が小国の日本に、66年~100年前の前世代の出来事で報復をもくろむ、というのは、大国的態度ではない。そして互いにとって有益ではない。
日本はオリジナルの思想を持てるようになって、一流である。日本は多くの良い部分は持つが、悪い部分も多くある、と言える。良いこととして考えられることは、“伝統がある”、“斬新で良いものを素直に受け入れる精神(明治維新など)”、私小説”、“漫画”、“お笑い”、“経済力”などがある。 悪い部分は、“根回し”、“多くのことについて慣例に従うやり方”、“なあなあ”、“何でもまねすれば良いという精神”、“親方日の丸”、“国家主義”、“年功序列”、“資本主義”、“コマーシャリズム”、“ミーハー”、“コネ重視”、“人種差別”などがあると言えるであろう、言葉にするのは容易いが、これらを改善するのは容易ではない。それらを解決するために、便宜に頼るぐらいであれば、そんなことなどやらない方がまし、という意見もあるだろう。
“リンゼイさん殺害”については、私は被告人のような特質を持たずに生まれてきて、幸せだ。
事態を主に言葉によって、より良く穏便に解決することは難しい。一人の人間がとことん事態を言葉でより良く穏便に解決するためには、その人間は、まずは器が大きいという特質が無ければならない、その上で複数の多くの経験をしなければならない。それによって、独自かつより正しい理念のようなもの(のようなもの、としたのはブレない理念を持つということ自体間違っている可能性があるからである)を持たなければならない。しかし、たとえ独自かつより正しい理念が導かれたとしても、普通ではない、ということで斥けられる。そしてその元となる、意見・発案を実現することは、一人では無理である、ということがある。それらは多くの人々の有益な意見・発案が付け加えられて、育て上げられるべきである。ある人間の意見・発案に反対する人間の意見も意見としては充分に価値がある、と言えるであろう。反対することから、よりよい意見・発案が導き出されたならば、その元となる意見・発案を導き出したものは、基本的によりよい意見・発案を受け入れなければならない、その際には、実現可能な具体的な対案が必要となる。
津波の被害に遇われた方は、特別な体験をした、ということで、その体験は、無駄にはならないであろう。
ADHDの人間は使い方によっては使える人間になる。
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ストーリー偏重傾向のドラマ・映画に意義はあるのだろうか?
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批判すべきことは批判し、解決策を打ち出す、というやり方もあるであろう。そして人は正当な批判については受け入れ、自分を改善させる、強い精神力が求められる。───────────────────────────────────
ところで、江沢民氏が危篤ということである、出来る限り苦しみの少ない臨終を迎えてもらいたい。私はこの後に及んで初めて、江沢民氏の早稲田大学における演説、というものを目の当たりにした。はっきり言えば、レベルの高い演説であったことを見てとった。そこで語られていることが、実践されれば、日中(中日)友好となるであろう。そこで私は反日教育の実態、というものを実際に検証してみたい。私は、日本近代史について、私なりに勉強した。その結果、私が得た結論は、日本は、たとえ欧米の文化にある程度影響されたとはいえ、軍国主義に走り、大陸に触手を伸ばしたことは、やはり良くないことであった、ということである、そのことについては日本人はしっかりと自覚すべきである、というのが私の立場である。それについては、多くの意見があるであろう、多くの意見に、日本軍国主義に与すべきことが見つかったならばそれは取り入れたいとは思っている。
今の私は、親米である、現実的には戦後66年の絆がある。しかし9.11テロを捏造したブッシュ政権は恐るべき人間達である。私はアメリカについては、オバマを支持してる。その上で江戸幕末、明治時代のアメリカには言いたいことがあるのだが、明治後半の時代に、日本の南満洲権益の独占に対して、中国の領土保全・門戸開放を訴えているが、アメリカ大陸を武力で奪取し、日本からは領事裁判権と関税自主権を奪い不平等条約を押し付けたアメリカ人にそのようなことは言われたくない、と私は正直思った。日本人は、当時の欧米の世界各地における趨勢を見て、中国大陸には触手を伸ばした、ということはあったと思う。
私にはとことん理詰めで物事の本質について知りたいという好奇心があった。そこで日本史はしっかりと勉強した。受験勉強では日本史で点数を稼いだ。世界史にはまるで興味が無かった、それは世界史編纂が欧米主義によって貫かれているであろうことが予想できたからである。私の日本史の勉強の目的は、当初はなぜ日本は軍国主義に走ったか、ということであった。物事を根本的に解決したいと思ったからである。そのような高い意志を持たぬ者に私は負ける気がしない。
最近はドラマで“イケメンパラダイス”とかいうのをやっているが、そんな、架空の学園ドラマなどに何の意義があるのかと思う。1980年代に高校生だった私達は公然と、居酒屋・ディスコに通っていた、学校に制服は無く、学校の多くの人間が思い思いにおしゃれに決めていた、そして校内におけるできごとなど、正直言って、どうでもいい、というのがあった。渋谷の街が私たちにとってはより重要なことであった。
ここいらで浮かび上がる疑問として考えられることは、資本主義は果たして正しかったのか、ということの検証である。資本主義には改善すべき余地が多くあることが考えられる。例えば一人勝ちの状況は出来る限り是正されるべきではないのか?
私は、ある便宜については、物事を究明するために使っているのであって、決して、快楽を目的としてそれを行なっている、ということは無い、それについて、どうでもいい奴らにとやかく批判されたくは無い。大体において、日本史上で起きた重大事件を知っている者にとって、現代日本の狭苦しい常識などを無意味に押し付けられたくは無い。歴史を本気で学んだ人間は歴史大局観があり、物事を大きな括りで捉える。大志があるものは、根本的に事態を解決するために歴史にとりかかる。そのような者にとっては、現代日本社会が押し付ける、狭苦しいコンプライアンスなどというものなど、どうでもいい、余計なお世話、というのがある。
経済さえ良ければよい、などということは無い。鄧小平の「経済がほかの一切を圧倒する」という考え方は極端すぎる。歴史大局観と複数の場における経験と、物事を根本的に解決しようとする精神が、創造を生み出す。
私は世の人間を労働から開放するシステムを作った。しかし、誰も見向きもしない。
私が見るに、議会制民主主義における、リアルタイムの会話のやりとりで物事を解決しようとすることよりも、総書記長という名称からも明らかなように、著述による方が潜在能力は高い。しかし私は言葉以外の何かの構造物で物事を捉え考える人間であり、私は、それを表現するときにいちいち言葉に翻訳するという作業を行なっている。であるから、私は生後喋るのが著しく遅かった。そして私は中高生の頃は会話がうまくなかった、それによって、多くの人間につまらない人間である、と考えられた。それらのことで苦労した、その苦労は決して忘れることはできない。そしてそのような人間は、基本的に書物から学び取る、ということはせずに人生上における経験から学び取る。世の人々はリアルタイムの会話のやりとりの能力が低いからといって、それらの人間を軽く見るべきではない。ところが悲しいかな、生まれつきに国語能力が高い人間は、幼い頃から適当にやり過ごすことが出来、楽できるかわりに、根本的に事象を解決することが出来ない。それを私は国語能力偏重主義と呼ぶ。国語能力が高い者は、事象を一次元的に捉えることしかない。文章で世界を捉え、考え、文章を作り出すだけであるから広がりが無い。しかしそのような人間にはそのような人間としての役割はあるだろう。そしてそのような人間が多くの弊害を生み出す。弊害とは、言葉上のことで、対立する、ということ等である。根本的には問題解決がなされなければならない。現代日本における代議士は、国語能力偏重主義者ばかりが生き残った。リアルセンスで事象を捉えられる人間はほとんどいない。欧米や日本、中国においてはそのような者がつらい労働を強いられる現状がある。国語能力偏重主義者は、悲しいかな、言葉上における矛盾点ばかりに気が取られて、根本的に事象を解決する術を知らない。自民党の片山さつきは、民主党政権において、原発におけるストレスチェックの認識が閣内不一致であることを攻め立てたが、そのようなことなどはどうでも良い。谷垣首相は、他人の非を責め立てるばかりで、独自の政策を披露したところを見たことが無い。菅首相の打ち出した、再生可能エネルギー法案はオリジナルの考えとして評価できる、と私は見ている。世の中の人々が現実的に電気を生み出す、器具をもち揃えるだけで実利を得ることが出来るのである。
日本人は優しい人間ばかりだ、という欧米人がいたが、その認識は深くはない、日本人にも体の悪いものから、割合といいものまで千差万別である。しかしまあ、一般的日本人の特性みたいなもの、社会における中間層等─その人々は主に常識に頼って生きている、そして、常識に頼る者が多数である、ということから多数決で物事を決める政治システムの元では、それらの人間は、それらはよりよいことではないのに、多数派を形成して多くの物事を決めてしまう、という弊害がある─はまあ考えられるであろう。
今、民主党がやらなければならないことは、次期首相を誰にするかである。しかし、首相が誰であれ、良い政策を導き出す、ということは可能でもある。それは、議会制民主主義の制度を取りながら、国民全員参加型政治システムを作り出すことを可能とし、多くの有用な意見を汲み上げることを可能にした政治システムを作り出すことである。
出来る党には現実的に問題解決能力がある人材・発案及び意見を作り出す人材が必要である。それは基本的には、多くの発案・意見を汲み上げるシステムと効率的合議が行われるシステムを導入することによって可能となることが考えられる。まずは考えられることは、多くの党員・サポーターから、発案・意見を募集し、それらの中から良い案を汲み上げるということが考えられる。その次にやるべきことが合議制の採用である。国語能力偏重主義者達は、合議制の採用によって、物事を改善することは可能である。
多くの発案・意見を汲み上げるシステムと効率的合議が行われるシステムは基本構造が決定しただけであり、実用可能なものに仕上げるには、もっと多くのことを作り出さなければならない、それらは今後行って、実用可能なものを仕立て上げる。それらはまずは実験的になされるべきである。そして、それらが有用なものであることがわかったならば、それらを議会制民主主義で採用すれば良いであろう。
武士道とは基本的に士農工商の身分制度の上に成立している。できれば日本人全員が武士を名乗ることができるようであるべきである。しかしそのためには、適正な審査が必要である。しかし武士とは、よくよく考えれば人殺しである。私は武士精神とは別に、言葉でほとんど全ての物事を解決することを目指してきた。そのためには、もっと多くのことを創り出して行かなければならない。
テレビ局はもっと多く作られ、多くの企業のCMが採用されるべきである。それによって、日本中の企業に機会均等がもたらされる。例えば、日本には多くの地ビールの会社があるが、それらの会社は、基本的にはCMを流すことが出来ないから、売れる製品が作れないのが現状である。多くのテレビ局は、インターネット上に作られることが考えられる。大企業の無意味な寡占状況は、是正されなければならない。それによって、“爽快人間”などというむかつくビールのCMは無くなる。大体において、糖質0のビールなどに何の意義があるのか?
韓国の企業に競争で打ち勝つには、日本はもっと値段が安い製品を作り出さなければならない。東北地区に基本的に物価が安くそれらの経済で全てのことが賄われる経済ブロックを作り出すことは可能である。私が企業を作るならば、ブルーカラーにより多くの賃金が支払われ、ホワイト・カラーの人員は出来る限り少なくし、ホワイト・カラーの賃金は出来る限り抑えられる企業を作り上げたい。私にはホワイト・カラーとは、実際のところどのような有益な仕事をしているのかまるで想像できないのが現状である。そして単純労働は、自動ハンドシステムというロボットによって、なされるようにすることが考えられる。そして、元ブルー・カラーの人々には自動ハンドシステムというロボットを管理する仕事が与えられるべきである。
そして私は現実的に有益な会社を作り出す。そのためには、もっと多くのことを作り出さなければならない。そして簡単に人材を募集できるシステムを作り上げる。そしてできれば、多くの東北の人々に仕事をしていただきたい、それは、今のところは夢物語であるのが現状である。そのためには、もっと多くのことが決められなければならない。
民主主義・自由が実現されたならば、次に目指すべきことは、出来る限りの平等ではないか?平等はより重要なことである、と私は考える。その上で、現実的に正義とは何かが決定されなければならない。社会主義・共産主義はもっと研究されて、資本主義に代わるものが新しく作り出されることが望まれる。それを実現させるためには、人々を納得させるプロセス(シナリオ)が作られなければならない。
私は有用な特許申請中の議案が4つある。しかし、守られるべき特許申請年数は以前は7年であったのに、最近その年数が勝手に3年にさせられた、それは何故か?それは不当に決められたことであるのではないか?
私には法学、ということに何の意義があるのかが良くわからない。特に刑法についてはまるで興味が無い。つまりは人に刑罰を加えることについては副次的になされることである、と私は思っている。そこで、刑事というものに高い意義があると私は思っていない。そこで、絶対零度などというドラマについてもまるで興味が無い。現実的に生きている人間に利益をもたらす者の方がより意義深い、と私は思っている。
これは極論であるが、日本において、覚醒剤取締法と大麻取締法は、どのような理由で公布されたのであろうか?不良学生が高い能力を持つことがけしからぬ、という理由でそれが公布されたのであれば、それは多くの人間の潜在能力を高める権利を奪った、と言える。イギリスでは、アンフェタミンは瘠せ薬として普通に処方される。普通の人々が易易と手に入れることができるという事実がある。英ではMDMAの服用も社会的に事実上認められている。日本でのMDMAの扱いは異常である。現に、英首相のチャーチルはアンフェタミンによって、自分の健康を維持していた、という事実がある。欧米では、覚醒剤とマリファナの個人的な所有は認められている。英国はアヘンを中国に売っていたぐらいだ。なぜ、日本人は、覚醒剤絶対反対の姿勢に固執するのか、その正当な理由が私には正直言ってわからない。日本では覚醒剤については、あまりにも恐怖のイメージを増幅させる政府広報のCMキャンペーンが流されていた、どうやら日本人は、その恐怖のイメージが覚醒剤絶対反対の理由であるのであろう。日本人は自分達が作り出した恐怖のイメージによってやられてしまっているのである。太宰治は、薬の服用によって、高い文学を作り出した。日本は酒で楽しめる奴ばかりが得をする世の中である。これはかつての私の兄の意見であるが、日本人には、酒で純粋に楽しめる人間と、マリファナが体にあっている人間がいる、ということであった。そんな兄も現在ではコンプライアンス重視で、自転車一本やりである。私の兄は大麻取締法で逮捕されたことがある、もう26年も昔の話である、しかし、そのイメージによってまるでスポンサーがつかないというところが現状である。そんな兄にはスポンサーが付いてくれることを心の底から祈る。覚醒剤絶対禁止の考えは、人間の潜在能力を高める可能性を半減させ、それによって救われるべき人間に不幸をもたらせた。現に戦時中の日本の軍隊が強かった理由は覚醒剤のおかげであった、ということもある。最近はテレビではビールの宣伝ばかりだ。はっきり言って、うっとうしい。私は酒ではまるで純粋に楽しめない人間である。酒を飲むと、顔が真っ赤になって、通常は二日酔いを起こすのである。私にとっては酒などはどうでもよい。そして、私は酒によって、有益な考え方などは作り出すことができない。そのような、不要なコンプライアンスなどどうでも良い。法令遵守主義等どうでも良い。大体において、誰が日本の法律が遵守されるべきことと決めたのか?どんな法律にも、悪い要素が含まれている可能性があり、人間は、常に最高に良い法律のようなものはどのようなものかが研究されなければならない。はっきり言って、法律という形態よりもより多く人々に幸せをもたらせる形態のものがある可能性もある。覚醒剤など、薬の一種であるだけである、人間にとっては便宜上の問題であることが妥当である、と私は思う。そしてうつ病患者からはなぜリタリンの処方が奪われたのか、その明確な根拠もわからない。私は覚醒剤は使用してはいないが。
“大人のなんちゃら”という宣伝があまりにも多い。大人がどうした?というのが現状である。そういう人間は、頼むから私の作り出したものを一切読まないでくれ。
そして“イケメンパラダイス”の人間達は私の決定的な敵である可能性が高い。一切私には関わって来ないでもらいたい。こんな人間達を甘やかせている日本社会など所詮は腐っている、ということが考えられる。山田という男は魅力があるが。しかし、“イケメンパラダイス”の人間達のコメントを聞いているうちにまあ価値がわかる人間達である、ということがわかる。世の普通の大人どもは、つまらぬ人生を送っているのが現状である。
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何度も言うが、私に愛は無い。愛とは、結婚相手を世界中で一番大切な人とすることである。私には愛に準ずるような気持ちがあったとしても結婚相手を一番大切に思うという状況を作り出せないから愛では無い。現実的に考えて、私は41年も一緒に生きてきた母を一番大切であると考えることを止めることはできない、それは恩知らず、ということで絶対に受け入れられない。そして親孝行を実現しなければならない。もしも私が、結婚するならば、結婚相手を世界中で二番目に大切である、とすることは可能である。そして、私は、結婚するならば、世界中である特定の人以外は考えられない。しかし、その現状は現実的には世に全く受け入れられないし、現状では、はっきり言ってキモイ思いである。そこで、私は現実的に大物にならなければならない。そして私が大物になり、それによって、結婚が実現できたとするならば、その代わりに、結婚相手も私のことを世界中で2番目に大切な人としてもらい、もしも子供が生まれたならば、お腹を痛めて生んだ子供を世界中で一番大切な人、としてもらいたい。まあそこで、現実的には、結婚は実現できないであろう。
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2011.07.14
解像度がもっと大きいディスプレイを作って、計画案を俯瞰できるようにする。
まずは計画を作る、その上で人事案を作成する、その上で予算を計上する。
まずは現行の予算案を公開する。そしてそれら一つ一つの意義を問う、意義が無ければ削除する。それらを3年スパンで全て決める。国民全員が意義が無い予算に一票入れれるようにする。
沢穂希は世界中の男性から、好かれる潜在能力を持っている。そこで考えられることが沢穂希が、イケてる日本男児を結婚の想定として考えていることである。
言語理論の普遍的偏りは将棋の理論の存在によっても明らかであろう。
改革将棋を創り出すことが考えられる。
案出・具体案・具体案・具体案・具体案・具体案・具体案・・・・政府が採用・予算編制・人事というやり方がある。
自動ハンドシステムを使えるものにするためには、実際の人間の背の縮みを自動ハンドシステムに反映させることである。宗教科学を創設すべきである。
宗教科学を創設すべきである。そうなると人間は懐疑的になるであろう。人間は宗教では信じるという行為を行うことなく、死後を科学的に解明すべきである。それができなくて、個人的に死を直前に迎えたならば、人は信じるのが良いであろう。しかし私は、死の直前で死後の世界を信じることができないだろう。
科学上で解明すべきこととしては以下のことがあるだろう。
・DNAの解明・神経&血管接合技術作成
人間はどこからどこまでが個体なのであろうか?人間は脳の中心が個体であるとするならば、ある一人の人間の人体を技術力でコピーして、脳の中心を移植したならば、生命が継続するかもしれない。・原子を人間に適度な分量に合成する作業。今後科学上で解明されるべきこと2 原子の中に、また宇宙があるかもしれない、その宇宙の中にまた原子がありその内部がどこかの宇宙のかもしれない。それがめぐりめぐって、原子の内部が大きいと思われていた宇宙に繋がっているかもしれない、そのようにして、宇宙は有限のループ状のものである可能性もある。その場合は、現世上の原子内部に入り込むには、時空の一つ(時点)を選択しなければならないのかもしれない。そしてその場合は、決して、小さいものが、大きいものに常に打ち勝つとは限らない、という状況も考えられる。
現世では、同じとき、というものが一つだけ存在する、そして歴史、というものは一つしか存在しない。
私達は三次元と、あるひとつの帯状の一つの歴史だけを持ち合わせている。皆一瞬(今)しか存在することができない。
例えば、この世界が四次元であるとすれば、ひとつの帯状の一つの歴史が無数に存在するかもしれない。そこでは、別の生き物・ものなどが主役かもしれない。
私達この世に生きる全ての生物(人間・動物・植物)が同じ時点に同居している、ある三次元空間の中の、全ての時空は無限であり、現在進行系の現在をその瞬間にとどまらせた場合、一瞬前の時点、一瞬後の時点が存在する、そこに生きる生物は私達の世界とはまるで違うしくみをもってして生きているかもしれない。
生物として生きている間は発言・行動の選択決定の可能性は有限上において、無限の分岐点がある。故に人間は中性子・陽子・クォーク・レプトンを超えた無限の可能性を持つ、生きている以上は。そこで科学と同じぐらいに人文学が大切なものと考えられる可能性もある。
人間が、肉体から解放されたならば、宇宙全体になるのかもしれない(しかし、それが、意識の主体となり得るかどうかは不明)、そこで、今までの人間とは逆の発想と思考を持たなければならなくなるのかもしれない。
斎藤佑樹はもっと沢山変化球を覚えるべきではないか?
電子は点と考えられているのであるから、電子の超集合体は無限に作り出せるのではないか?
発明:大きなモニターを前にして室内で動かない自転車に乗り、発電するシステム。
私は、大きなモニターを前にして撮影された風景を見ながら、室内で動かない自転車に乗り、自転車を漕ぐと、モニターの風景が前に前進し、ハンドル操作をして、方向転換して様々な道の風景を楽しみながら発電するシステムというものを考え出した。
日本の文化構造の大転換(明治維新)には多くの人命が犠牲になった。現代においては、それはあるべきではない。
地デジ化によって生放送に2秒ぐらいの誤差が生じるという問題は速やかに解決されなければならない問題であろう。
人間の問題は、ある程度は、言葉の論理によって成立させ、他の理論は将棋などの異次元の論理で考える、という方法もあるであろう。
桑田佳祐のDOCOMOの宣伝で雨に振られて、女の子に首拭くように指示しているのを見てそんなに繊細なんだ、と思った。私など水が降りかかろうがそんなことはどうでもよい、大体今までハンカチを持って外出したことが無い。
超理論には懐疑精神を持ってして辿り着く可能性が高い。
物理学は、人文学を完全論理化し、それを物理学に応用する、ということをなぜしないのか?
人間が現世で発見した偉大な発見は、あの世から見れば、分かり切ったことである、といえるのかもしれないし、そうではない、とも言えるかもしれない。はっきり言えば生きている人間には死後のことは分からないのである。そこで、信じる、という行為を勧める者は超学術的である、そこから、学術派と宗教家の根本的な対立が考えられる。学術派が一歩進むためには、習慣で考える、ということから脱却することである。習慣で考えることとは、主に2点ある、一つは科学で考えることであり、一つは欧米主義で考えることである。超ひも理論も何もかも、その宇宙の外に宇宙があると考えられるならば、意義が無い。それは懐疑派が取れる、考え方であり、半信半疑である、という状態である、そこで言えることは、人間の感覚を次元と捉えれば、人間は幾万の次元を感じている、ということである、それは、生きている人間が絶対的に言えることである。
現代人は、思い出せない話はビデオ映像として撮っておいて、後で話す、ということが考えられる、それによって、失語症の人間であるが、その人間を素晴らしい人間として活躍させることができる。それは人類にとって、有益である可能性がある。
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三上祐一、シャンカラ:ウパデーシャ・サーハスリー批判 入り三上祐一 著━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
参考文献 岩波文庫 シャンカラ著 前田専学訳 ウパデーシャ・サーハスリー
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私は全ての先祖にまずはある程度の敬意を表する。
六道輪廻をあらわしたチベット仏教の仏画がある。恐ろしい形相をした「死」が輪廻世界を支配している。それはチベットがどういうところかを断片的にではあるが、表している、と言えるであろう。それを見るに、チベットとは不自由な世界であったことが考えられ、胡錦濤のチベット弾圧には、中国なりの正義が存在するのかもしれない。しかし欧米の正義とは対立する。
◎大体において、輪廻があると、誰が決めたのだ?輪廻は無い可能性がある。
自我を知ることのみが世界の摂理を知ることと言える、というのは少々御幣がある。自我を知ることのみが世界の摂理を知ることと言える者は、悲しいかな、よく世の中のことをわかっていない可能性がある。その先天的特質を持ちつつも、普通ということを含めた複数の多数の経験を経て人間は良い状況に辿り着ける。
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苦楽中道
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html より以下の文章を参照
輪廻の究極の原因は欲望であるとされていたが、そうではなく、その欲望を引き起こす根源的なものがまだ奥に控えている、それは、ふつうの人間が自覚すらできず、したがって、ほとんどコントロール不能な根本的な生存欲であると、ゴータマ・ブッダは見たのである。そして、その根本的な生存欲を、渇愛とか、癡とか、無明とかと呼んだのである。(「無明」という語の真の原義やその語義解釈をめぐる議論には、まだ最終的な決着はついていないようであり、わたくしもその点では非力であるが、少なくともゴータマ・ブッダのいう無明とは、文脈的に、根本的な生存欲ないしその根本的な生存欲を自覚できていないことを意味することは明らかだと考える。)
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