所用のため自由ヶ丘に用が出向いたので、ついでにさらっと史跡をまわりましたので更新します。

 

 

自由ヶ丘駅から。

まずは奥澤神社へ。

 

 

(奥澤神社 歴史、見どころ)

 

 

 

室町時代創建。

この辺りを治めていた吉良氏の家臣の大平氏。彼らが奥澤城を築城するにあたり、守護神として八幡神を勧請したのが始まりとのこと。

その他の特記すべきこととしては、江戸時代中期に疫病が流行した際の伝説。ここの名主の元に「大蛇をつくって村内を巡回せよ」とお告げがあり、それに従って実際に藁で大蛇をつくって練り歩いたところ、たちまち疫病が治ったというエピソードがあると。

これに由来し、現在でも毎年9月の例大祭で「大蛇お練り」が行われている。

 

 

ここで祀られている八幡神…まずは、これについて少し考えてみる。

 

(八幡神とは 歴史)

 

 

 

元々は今の大分県あたりの地方の神でしかなかったが、奈良時代に「奈良の大仏を建立をサポートするよ」とお告げをしたらしく、大仏の建立を機にバズった。

その後、平安時代に神仏習合が進むと、日本の神の中でいち早く「菩薩」に昇格。

以降も順調に昇進し、源氏の氏神として名を馳せ、1180年にあの源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮を整備したことから、さらに人気急上昇。そして、鎌倉時代になると「武運の神」として、全国の武士の間で爆発的にまたバズった。

現在、全国に「八幡宮」が多いのは、この時にバズった結果らしい。

 

「八幡」というと、個人的にはどうしても「前九年、後三年の役」で活躍した「八幡太郎、源義家」

 

が頭に思い浮かぶが…

 

 

 

(八幡太郎義家はなぜ八幡太郎というか)

 

 

 

なるほど。

彼自身が自分の成人式を京都の石清水八幡宮で行って、「八幡大菩薩の申し子」と称したから。

 

そしてもう一つ気になる点。

 

 

(奥沢神社が大蛇を祀る原因となった江戸時代中期に流行した疫病は何か?)

 

 

 

江戸中期なら時代的にコレラはないですけど…

まぁやっぱり天然痘、麻疹あたりが妥当ですかね。

 

そして、奥澤神社に凸しました。

 

発展した自由が丘の中で、遠目にも見える立派な木々。

 

 

残念!

入り口は閉まってました。

現在18時過ぎ。

 

 

鳥居に『大蛇』がいました…

こういうの初めて見たかも。

 

 

塀から中を少し覗きましたが…

よく見えない。

 

 

通行人に少し怪しまれたので長居せず退散。

 

 

 

次は「熊野神社」へ。

 

 

(熊野神社 歴史、見どころ)

 

 

今から800年近く前の鎌倉時代の頃には、熊野三山(和歌山県)へ参拝する「熊野詣」が盛んであり、当時の自由ヶ丘あたりの村人たちが熊野の本宮から御分霊を拝受して持ち帰り、ここで祀ったのが始まりとされている。

なるほど、だから熊野神社ね。

 

熊野詣で御分霊を持ち帰り開いたという似たコンセプトの神社は以前、埼玉新都心にもあったな。

 

と、思ったらそちらは伊勢神社関連だった。

 

2025/9 埼玉県 さいたま新都心 | 歴史好き感染症科医の旅行ブログ

 

 

まぁ、全国には同様の神社は多いんだろう。

 

この神社の見所としては、この地を「自由ヶ丘」と命名した当時の村長の銅像が境内にあるとのこと。

 

村長?

 

東京で?

 

現在の地図。

 

 

1800年頃の地図。

 

 

なるほど。

 

確かに何もない。

江戸時代は「村」であったことは伝わる。

 

 

(自由ヶ丘 歴史)

 

 

やっぱり、元々は長閑な農村だったんですね。

それが、昭和初期に自由主義教育を標榜する「自由ヶ丘学園」ができ、以降発展したと。

「自由ヶ丘」の名は、自由ヶ丘学園から来ていると。

 

 

 

「熊野神社」へ。

 

まっすぐ行くと奥に本殿。

 

 

 

「自由ヶ丘」の名付け親、栗山久次郎の銅像。

「自由ヶ丘誕生の祖」。

 

 

手水舎(てみずや)。

八咫烏の人形が、ちょこんと置いてあるのがカワイイ。

 

 

そうそう、本家の和歌山の「熊野神社」といえば八咫烏。

 

(八咫烏とは)

 

 

「八咫(やた)」は非常に大きいという意味。

神武天皇の「東征」の際に道案内したため、日本神話において「導きの神」とされる。

 

私は和歌山の熊野神社へは行ったことがある。

コロナが落ち着き始めた頃に。

 

丁度、子が欲しい頃だったので妊娠祈願をしたが、結果として、無事に娘を授かった。

いつかお礼参りをしなければと思っている。

 

その際に連れ帰った八咫烏は家に飾ってある。

 

 

 

 

ここの熊野神社の狛犬は顔が少し独特らしい。

確かに…

 

 

ここは縁結びのパワースポットらしく、至る所にハートマークがあると。

 

 

 

 

最後に「奥沢城跡&浄眞寺」へ向かう。

 

 

 

(奥沢城および浄眞寺 歴史)

 

 

奥沢城は、世田谷城を本拠としていた世田谷吉良氏が出城(支城)として16世紀半ばに築いた城。

1590年の豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏(吉良氏の主君筋)が滅亡した際、それに伴い廃城となる。

そして、廃城から約90年後、その跡地を利用して現在の浄眞寺が創建される。

 

浄眞寺には、本堂の対面に3つの仏堂があり、それぞれに3体ずつ計9体の阿弥陀如来像が安置されている。これらは「九品仏(くほんぶつ)」の通称で親しまれているとのこと。現在の電車の最寄駅はその九品仏である。

 

また、他に言及すべきこととして、「鷺草(さぎそう)物語」なる伝説があるとのこと。

内容としては、世田谷城主の吉良氏に嫁いだ奥沢浄主の美しい姫が、周りの嫉妬からのトラブルに巻き込まれて自害する話で、自害の際に彼女が放った白鷺が力尽きたところに、鷺のような形をした鷺草が咲いた。という。

その伝説にちなんで、現在の世田谷区の区花は鷺草らしい。

 

 

本当に白鷺みたいで。

 

 

 

 

そして、お目当ての「奥沢城跡および浄眞寺」に向かう。

奥の木々の多いところが目的地。

 

 

しかし、辺りは既い。

入り口の門は、既に固く閉ざされていた。

残念!

 

 

とりあえず、入らないと何も見れないのだが…

仕方なく諦めて北側をぐるっと迂回。

 

ちなみに東西に伸びるこの緑道は…

 

 

 

奥沢城のお堀の一部かな?

と思いましたが、やはりその通りのようで…

 

 

この緑道は「九品仏川緑道」というらしく、川が暗渠化されて現在の形になっているそう。

奥沢城の北側を守る天然の要害だったらしい。

 

 

そして城跡の西側に出ると「禁銃猟石」なるものが。

(右の石碑)

 

 

明治32年(1899年)に警視庁によって設置された、「ここでの鉄砲による狩猟を禁止する」ことを示す標識(石碑)とのこと。

今なら閑静な住宅街のこの辺りでつい130年まで銃をブッ放していたなんて…

まぁにわかに想像がつかないというか。

当時の面影は、ほぼほぼ残ってないのだろう。

 

1800年頃の地図でも浄眞寺の周辺は何もない。

 

 

まぁ野獣が駆けずりまわっていても、おかしくはないんでしょうね。

 

その後歩いて10分で尾山台駅へ。

 

今日、自由ヶ丘に来たのは、インドのデリーで出会った日本人男性とひょんな縁から一緒に飲むことになったからでした。

 

2026/3/28① デリー2日目 ジャーマー・マスジッド、レッド・フォートなどを観光 | 歴史好き感染症科医の旅行ブログ

 

インドで出会ったので、とりあえずインド料理店で。

 

 

 

インドでは飲めなかったインドビール(インドではスーパーでの販売は禁止)を片手に…

 

 

 

タンドリーチキン等々…

美味しかったです。

 

インド旅行についてや、互いの家族の話などをして盛り上がった。

彼は、私が行っていない、バラナシ、ジャイプールやインドの仏教の聖地の一つであるサールナートだったかな?に行っているので、色々興味深い話を聞かせていただいた。

 

楽しい時間を過ごさせていただき、2、3時間程度で解散。

 

本日は以上です。