エジプトの旅行会社 トライウェイズトラベルです
旧約聖書に記されたファラオと同一視されているらしい
シェションク1世は、どんな人物だったのか
息子のオソルコン1世が悠々と国を治められたのも、
この父、シェションク1世の蓄えのおかげ。
リビアから移住してきたシェションク1世の祖父と父は、
軍人として登用され、地方の有力者に成り上がり、
ついには王家と縁戚関係を結ぶほどの
権力者になっていったそう。
シェションク1世が、第22王朝の初代ファラオに即位後、
分断されていた南北エジプトの再統合に着手、
親戚家族を要職につけ、支配を盤石にし、
21年間、統治したそうです。
旧約聖書にはシシャクと名が記されているファラオ
初めて、旧約聖書(口語訳)に目を通しました。
登場人物と部族名にカタカナが多くて混乱しますが、物語のようなんですね
列王記上の11章40番(?)と14章の25,26番に確かに、シシャクの名前があります。
40 ソロモンはヤラベアムを殺そうとしたが、ヤラベアムは立ってエジプトにのがれ、エジプト王シシャクのところへ行って、ソロモンの死ぬまでエジプトにいた。
25 レハベアムの王の第五年にエジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上ってきて、
26 主の宮の宝物と、王の宮殿の宝物を奪い去った。彼はそれをことごとく奪い去り、またソロモンの造った金の盾をみな奪い去った。
以上が古代エジプトのファラオ、シシャクの登場箇所。
これだけ?もっとシシャクに割かれていると思っていました
ヤラベアムをソロモン王の追ってから守ったエジプトのシェションク1世
ソロモン王の専制統治に不満を持つユダヤの部族間対立が深まっていたところに、
王がなくなり、息子レハベアムに代変わり、ヤラベアムはイスラエルに戻り、
12部族が南北に分かれました。
ソロモン王の息子は南に2部族、北の10部族は、エジプトから戻ったヤラベアムを王に据えました。
この内戦は、好機とばかりにシェションク1世は、
ふたたびイスラエルを支配下に置くため、侵攻。
ソロモン王の息子が治める南側から始め、
次は、ヤラベアムのいる北側へ、
ヤラベアムをヨルダンへ追い払いました。
なんだか、モーセの話を彷彿とさせます。
支配者が、占い師(予言者?)から、自分たちに不利な予言をされ、まず、その存在を消そうとします。
でも、なぜか、モーセにしろ、ヤラベアムにしろ、エジプトの過度な(ファラオの庇護)恩恵を受けた後に
結局、エジプトから追いやられます。
ここからは、ウィキペディアからなのですが、
シェションク1世は、ソロモン王の神殿と王宮を破壊し、聖櫃以外の373トンの財宝を奪ったそうです。
↑オベリスク1本分より重い財宝って、スゴイ量です
重量が明記されているので、旧約聖書に書かれているものだとばっかり思っていました。
エジプト側の記録があるのかしら。
略奪した財宝は、
息子のオソルコン1世の治世の初めの4年間でエジプト各地の神殿に捧げられたらしい。
4年分の財宝!?
このシェションク1世のイスラエルの征服については、
メギドというイスラエルにある丘のところから、
出土した石碑に王のカルトゥーシュが見つかっていて、
成功したことが記されているそうです。
ほかにも、カルナック神殿のブバスティス門の壁画には、
シェションク1世の姿とともに征服した地域が羅列されているそう。
ただ、イスラエルは抜けているらしく・・・、
風化による欠損なのか、実際に征服は行われなかったのではないかとか、
シシャクとシェションク1世は別人だったなど、議論が分かれているそうです。
そのため、古代エジプトでイスラエルに言及されているのは、
イスラエル・ステラのみというわけなのですね。
シェションク1世のお墓は、まだ発見されていないそうですが、
当時、立派なお墓が作られたでしょうね
ファラオの名前が旧約聖書に記され、
それが実在の王だったという可能性に非常に興味を持ちました。