今年もこの日が来た。
国連が定めたこの日に普段は意識しない人達が、なんらか思いを向ける、考えてみる、そんなきっかけであるなら意味は確かに大きいとは思う。

でも、やはりこう言う日を設定しなければならない、と言う発想を僕は良しとはしない。
ダウン症のある人達が生きてこの世界で共にあること、そのことをそんな特殊なこととして、切り離して設定することに違和感を覚える。

どのくらい前のことか、もうかなり時間が過ぎてしまったけれど、ダウン症文化を発信すべく発言していた頃、いくつかのイベントで話して欲しいと声がかかった。
当時はお断りしたのを憶えている。
それから後にはそういった関連イベントを開催する人達の世代も若くなったりで、大したことは出来なくても応援の気持ちもあり参加したことも何度かある。

これまで発信含めて、様々な形で正しい情報と、ダウン症文化を知ってもらうため、尽力してきた。
しかし、なにより僕は当人達と付き合ってきた日々の時間がベースとなっているから、色んな場所で話したりしてきて1番感じて来たのは、目線が違うなぁ、見てるところが違うなぁ、ってこと。

何度も言って来たけど、僕は彼らの側から発言してきたからね。彼らの視点に立ってものを見て言って来たから。そこはぜんぜん違う。
で、そう言うところから見たり発言したりっていうのが、他にはあまりにもなさ過ぎて、それは何を意味するかと言ったらズバリ、当事者が置き去りなんじゃないの、ってことなの。

僕にとってはダウン症のある人達って言うのは、はっきり言うと一心同体だから。
その目線から言わせて貰えば、こう言うことはやりたいな、やって欲しいな、って言うことと、こう言うことは嫌だな、やって欲しくないな、って言うことがあって。

なので、この日に特別に何かを言うのは今年を最後にしたい。もっと先に進みたいし、進んで欲しいから。
特殊なことにするんじゃなくて、毎日、この世界に彼らが一緒に居る訳で、そこへしっかりタッチ出来る、そのことの意味を感じられる世界にしていくために。

東京で20年、アトリエでダウン症のある人達の感性と取り組んできて、その魅力と調和の文化を発信してきて、文字通り全力を尽くし、命懸けで取り組んできて、正直なところ僕が出来るのはこの地点までかな、と。
世の中が追いついてくれなかった中で、あまりにも先へ行き過ぎてしまったかも知れない。
でも見えているものに目を瞑ることは出来なかった。

この3年くらいで、やっと、あー本当にもう終わったんだな、と気づけたと言う部分もある。

もちろん、ダウン症文化を発信することや、彼らとの時間を過ごすことは今後も機会があれば続けて行くし、今でもメインではないにせよ、続けている。

さて、皆さん、これまで何百回と言って来ましたが、ダウン症のある人達は人種にも環境にも関わりなく、一定の割合で必ず産まれてくる。それを人為的にいじらない限りは。
この事実は何を示すのか。
もう一度、繰り返して言うと、やっぱり僕ら人類にとって必要な一つの文化がここにあるということ。
競い争い比べるだけが人間のあり方なのではないと言うこと。もう一つの可能性があると言うこと。

人間の心の奥深くにある叡智。
人、もの、環境、この世界の全てと仲良く、調和して、命を輝かせ、響き合うあり方。

もう一度だけここに再録させて欲しい。
もう20年以上も前に書いた文章。このページにも一度載せたけど。今日のこの時にもう一度だけ。



序曲 調和のビジョン

ダウン症の人たちには環境や秩序に対する、
ある種の慎ましさがある。
謙虚さや配慮のような感覚にも似ている。
彼らには本質的な暴力性が感じられない。
彼らの感覚は敏感で鋭い。
彼らは絶えず瞬間を生きている。
自由でとらわれがない。
柔らかく静かな心。
彼らは自然と調和する。

これまでダウン症の人たちと接して来た時間は、
彼らの特徴である優れた感性を実感させてくれた。

僕たちは彼らと一緒に学校を創っている。
この学校は小さいけれど、
何処にもない新しい可能性に満ちている。

彼らの優れた感性が傷つけられずに、
守られ育って行けたら、伸びて行けたら、
どんなに素晴らしいことだろう。

その感性から僕たちの社会は、
新しい世界観をつかむことが出来るだろう。
穏やかさ、争わないあり方、
人や自然に対する優しさ。
今と言う時の大切さ。
小さなものや出来事への気づき。
なによりも共生と平和。
彼らの感性が示すもの、
それは調和のビジョンと呼べるかも知れない。