2025年、ですね。
さて、このブログページも今回で終わりとします。

このページは元々、僕が書いて来た他のブログとは異なり、今ではなく、先へ残すこと、ダウン症のある人達の世界、文化についての発信を纏めて記録しておくことに焦点を絞って来ました。
このブログを作った動機が、僕自身の仕事の終わりと言うか、出来るところの限界点の見極めで、残りの人生でどこまで行けるかと考えた時に、やっぱり次に繋ぐしか方法は無いと言う自覚でした。
何をやって来て、何が見えて、どう続けて行けば良いのか、言葉として残しておこうと。
本来ならもっと発信力がある人が言うべきなのですが、自分の出来ることをやるしかないですから。

伝え残して行くべきことは記録出来たと感じています。

望むことはこのページを閉じて、沢山の人達に、そして先々までお読み頂くこと。
ただ残念ながらその為の手段を持たないので、あとのことは望みを託してこのページを置いて行くことしか出来ない。

このページはとてもシンプルで、言わばダウン症文化論だった。
僕が10代からやって来た仕事で少なくとも2つのテーマに関して、未だ誰1人挑まなかったオリジナルがある。
一つは障害と呼ばれてきた心の領域、心の多様な形に対して内在的、実践的にその世界を経験して、それを人類の心、精神の文脈の中で捉え位置づける、と言うテーマ。そしてもう一つがその後の活動から展開したダウン症文化論である。

自閉症文化論と言うものは既に存在しているけれど、ダウン症文化論は全くない。
ここでも最初のテーマと同じく内在的に、内側からの経験に基づき、更に人類のテーマとして捉えたのは紛れもなく他にはない新たな取り組みだった。

このことを今あえて強調するのは、つまり開拓者としての責任以上に、今もまだその様なアプローチは皆無だと言う事実に対して、いつか誰かがこの様な方向性が有り得ると言うことを知り、実行する人が出てきて欲しいと言う願いからだ。

しかし、全ては天に任せる他はない。
せめてこうして残しておく位のことしか出来ない。

ここで何度も書いて来たけれど、ダウン症を人間の原型的存在として捉えることがキーとなる。
そこに人類にとっての様々なヒントがあり、大きな価値がある。

福祉的なアプローチのこと、或いはまたアート的なアプローチのことも随分書いてきた。
それらはそれぞれまた役割はある。
しかし、もっと根本的でより本質的なこの角度からのアプローチこそが必須なのだとだけ言っておきたい。

ダウン症文化論とは平和論でもあり、人間の心の持つ可能性論でもあり、人間とは何か、世界とは何か、と言う本質的な問いに対して、一つの共通の心の在り方、文化から見てみることを意味している。

この様なアプローチから創られた場があり、そこで制作された彼らの作品が残され記録されている。
これらはある意味での物的証拠とも言える。
未だ読み解かれない、人類の可能性の存在を未来へ向け、祈りを込めて残すこと、それが僕がこのページや携わってきたワークを通して発信してきたことである。

もちろん、実践自体はまだ終わらない。
死ぬまで何らかの形ではアプローチして行きたいとも、様々な方法で発信出来る可能性をも模索して行こうと思う。

このページはこれで終わりだけど、どうか多くの方の目に触れ、何らかの閃きを与えるものでありますように。