馬籠峠を越えて、石畳が残る歴史の古道・木曽路の馬籠~妻籠を歩く。 | サラリーマンおやじのさえずり小鳥っぷ(小旅行)

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江戸時代の風情を残す中山道木曽路の宿場町として人気の高い馬籠宿と妻籠宿は、車でいけば20分ほどの距離ですが、間にある標高801mの馬籠峠を越えて歩く散策路は、およそ2里(約8km弱)、木曽路の中でも旧街道の姿がよく残され、最近外国人に人気の約3時間のハイキングコースになっています。歴史を感じる石畳の道を昔の旅人の思いを想像しながら歩いてみることにしました。

 

長野からは中央自動車道で塩尻ICで降り国道19号をひたすら南下するか、飯田山本ICで降り国道256号で清内路トンネルを抜けていくかですが、今回は到着時間が予想できる後者のコースを選びます。

 

馬籠~妻籠間は約8km弱、徒歩で約3時間弱のコースです。標高801mの馬籠峠の妻籠宿側は約6km、標高差約370mのゆるやかな長い坂ですが、馬籠宿側は約2㎞、標高差約200mの急な短い坂道です。どちらから歩き始めるかは体力とお昼の時間との兼ね合いになりますが、今回は馬籠宿からのスタートを選び、元気のあるうちに馬籠峠まで上ってしまうことにしました。しかし最大の理由は、昼食を大黒屋茶房での栗こわめしに妻が狙いを定めていたからです。

 

妻籠宿の第2駐車場に料金500円払って車を停めす。馬籠行きのバスは第1駐車場から出ますがこちらはバス・マイクロ専用になります。南木曽町新交通システム(地域)通称ツツジ号馬籠線バスの運行は、4月28日~5月6日、7月7日~8月31日の間のみ8:42発馬籠行きがありますが、通常は10:12(馬籠10:40着)ですので出発までの1時間を妻籠宿を散策することにしました。

 

中山道69次のうち江戸から数えて42番目となる「妻籠宿」は、江戸時代末期の家屋が立ち並び、その趣は風雪に耐え時代を乗り越えてきた風情を色濃く残しています。昭和51年(1976)には国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

 

 

第1駐車場と第2駐車場の間の階段を上がると下町です。町は木曽川の支流の蘭川に沿って、北側から恋野、下町、中町、上町、そして光徳寺門前の寺下地区などを中心に形成されていて、約800mの間に約140棟の町家が軒を連ねています。

 

 

左手に坂を上ると「水車小屋」があり、その先の北側の入口付近に復元された「高札場」があります。今日でいう「官報掲示板」で幕府が庶民に対し、禁制や法度等を示したものです。

 

 

南に妻籠宿を歩いていくと、中町の右側に「脇本陣奥谷」があります。脇本陣とは、大名などが泊まる本陣の予備施設です。手広く商いを営んでいた妻籠の名家のひとつ林家(屋号奥谷)が代々脇本陣・問屋を務め所有していました。現在の建物は明治10年(1877)に総ヒノキで建て替えられたもので、明治天皇も旅行中、休憩をとられた。島崎藤村の初恋の相手「おゆふ」さんの嫁ぎ先でもあります。

 

 

その斜め向かいには冠木門の構えが目をひく「妻籠宿本陣」があります。本陣は大名、幕府の役人、公家といった格式の高い者が使う宿で、島崎家が任命され、明治に至るまで250年に渡って本陣、庄屋を兼ね務めていました。島崎藤村の母の生家で、次兄広助が養子に入っています。昔の本陣は消失しましたが、偶然発見された図面を元に平成7年(1995)に復元されました。

 

 

江戸時代の初めに制定された宿場は、一種の城塞の役割を持たされて整備され、宿場の出入口には必ず敵の進入を防ぐため鉤形に曲がった道“枡形”が設けられました。この妻籠宿中ほどの上町と寺下の間にある枡形はよく当時の姿を伝えています。

 

 

枡形の上段には、やじさんきたさんのお話の残る黒又屋(上丁字屋)があります。

 

 

また枡形の前、寺下地区の土道に面したところに佇む「松代屋」の創業は享和4年(1804)と伝えられ、当時の建物を大切に保ちながら今に伝えています。

 

 

特に写真の「寺下の町並み」は日本で最初に宿場保存事業が行われた妻籠宿保存の原点ともいうべき出梁造り、竪繁格子の美しい町並みです。このエリアは一段高くなっているのが特徴で、水害にあった経験から道がかさあげされています。

 

 

屋内唯一とされる、石仏「寒山拾得」像の双体像は他に類がありません。

 

 

中山道と伊那街道が交差する交通の要綱として古くから賑わいを見せていた街道筋には曲げ物や木櫛、五平餅、栗菓子といった“木曽もの”の店が目白押しに並んでいますよ。

 

 

寺下の町並みの南の端に発電所がありますが、その手前に蘭川にかかるレトロな橋は「尾又橋」です。立札には「告 通行人は左の橋を渡るべし 妻籠宿役人」と書かれ、隣の木橋を歩けば江戸時代の雰囲気が味わえます。

 

 

尾又橋からは蘭川を利用した小規模な水力発電の施設の様子が少し垣間見えます。

 

 

1時間が経ち馬籠行きのバス停からツツジ号に乗り込みます。

 

 

馬籠バス停の前にあるのが食事・観光物産の馬籠館です。この近くに馬籠宿駐車場があるので車でこられる方は利用してください。この向かいからいよいよ馬籠宿がスタートします。

 

 

江戸日本橋を起点に43番目となる「馬籠宿」は、木曽11宿のひとつで、美濃と信濃の境にあります。街道が山の尾根に沿った急斜面を通っていて、その両側に石垣を築いて屋敷を造っていることから“坂のある宿場”が特徴となっています。

 

入口近くにある『車屋坂の枡形』と呼ばれるクランクを曲がると急峻な傾斜になります。水車小屋は常夜灯を灯すための発電所として活躍中です。

 

 

坂の土砂が流失しないように木曽石と御影石を敷き詰めた石畳の沿道には、宿場時代を彷彿させる軒の低い格子造りの木造の店が約600mにわたって連なり、観光客で賑わっています。宿場の中央には本陣、脇本陣、問屋などがおかれて大名達の宿泊に備えられたほか、旅籠や飯屋が軒を並べていました。しかしながら明治と大正に大火があり、現在の町並みは、往時の姿を再現しようと整備してできたものというから驚きです。

 

 

枡形を上がったすぐに「清水屋資料館」があります。島崎藤村の小説『嵐』に登場する「森さん」のモデルとなった原一平の家です。清水屋原家は、代々馬籠宿の組頭や役人を務めた家柄で八代目一平を信頼していた藤村は、長男を馬籠に帰農させた際、その身を託しました。

 

 

小説『夜明け前』で「馬籠はこんな峠の上ですから、隣の国まで見えます。」と綴ったように振り返れば重なりあった宿場の瓦屋根の向こうに美濃(岐阜)の里が見渡せます。

 

 

藤村が生まれ育った馬籠宿本陣は明治28年(1895)の大火で焼失しましたが、昭和22年(1947)その跡地に建てられた文学館が、黒塗りの冠木門が目印の「藤村記念館」です。長男楠雄氏から寄贈を受けた遺稿や愛用品を中心に6000点の貴重な資料が展示されています。

 

 

左隣が長男の楠雄が住んでいた家で現在は「四方木屋」にその面影を残していて、右隣が妻が食べたがっていた名物「栗おこわ」のお店「大黒屋茶房」です。江戸時代には造り酒屋を営んでいたという重厚かつ落ち着きのある伝統建築の風格ある店構えで、小説『夜明け前』にも名物の栗おこわが登場しています。島崎藤村の詩『初恋』のモデルになった「おふゆさん」の生家でもあります。

 

 

地元のもち米で蒸した郷土料理“栗おこわ”をいただきます。写真は栗こわめし定食Aで、山菜や岩魚の昆布巻、吸い物にデザートととして姫りんごのワイン漬けが付いています。(1500円)

 

 

民芸風のたたずまいは江戸時代の図面を元に昭和に建てられたもので、奥のテーブル席は落ち着いた雰囲気です。

 

 

宿場には名物・五平餅をたべさせる茶屋が軒を並べます。代々伝わる自慢のタレをご飯を潰して作った餅に付け、狐色に焼いて供してくれます。『夜明け前』にも五平餅はしばしば登場します。馬籠で生まれ育った主人公・青山半蔵(モデルは藤村の父正樹)が、隣の妻籠から妻を迎える場面で青山家は炉端で五平餅を焼き、集まった人々に振る舞って新夫婦の前途を祝しています。そんな光景を浮かべながら茶屋で頬張るのもまた楽しいものです。

 

県道を渡り宿場町の北の端にある景観にあう総檜造りの建物の手打ちそば処「恵盛庵」の前からいよいよ道中がはじまります。

 

 

正徳元年(1711)に幕府から出された掟書などが再現された馬籠宿高札場の近くに展望広場があります。

 

 

見晴台からは、木曽山脈最南部にある日本百名山・恵那山(標高2192m)が望めます。

 

 

県道7号線と交差しながら石畳の道や石畳の梨の木坂を上り馬籠峠を目指します。

 

 

道中には『渋皮のむけし女は見えねども 栗のこわめしここ乃名物』と詠んだ十返舎一九の歌碑が佇んでいます。ここには休憩舎やトイレもあり一息つけます。

 

 

さらに急坂を上ると、かつては馬方や牛方衆の宿として賑わった集落「峠の集落」があります。宝暦12年(1762)の大火以来、災害を免れ現在に至る名前の通り峠の上にある集落には、江戸時代末期の貴重な建築遺構が多く残されています。特に集落の中ほどにある今井家は国の登録文化財に指定されています。

 

 

集落の外れ手前の石垣の上には「峠の御頭頌徳碑」が佇んでいます。安政3年(峠集落)の牛方が中津川の問屋との間で運賃の配分の争いがあり牛方が勝ったことの牛行事(頭)の今井を讃えた碑で『夜明け前』にも登場する話です。

 

 

馬を集めた所を「馬籠」と呼び、峠の呼び名は木曽の中心地である木曽福島からみて越えた向こう側集落をさしたことから「馬籠峠」と呼ばれるようになりました。「峠の頂上」は801m、北は高い木曽の山々、南の方は平な野原の多いと藤村が書いた美濃の平野です。

 

 

 

峠の茶屋では、五平餅やそばといったおなじみの郷土料理が並び、間食から昼食にまで利用できます。ここで飲料類を補給するものいいですよ。

 

 

そのすぐ脇にはひっそりと『白雲や青葉若葉の三十里』と読んだ正岡子規の句碑があります。

 

 

馬籠峠を越え「一石栃立場茶屋」に立ち寄ります。立場とは宿と宿との間にあった休憩所とのことで、当時は15軒の茶屋があったという江戸時代後期に建てられた茶屋を使った無料休憩所です。囲炉裏もあり、ここでお茶を一服いただいて旅人の気分に浸ります。

 

 

茶屋の隣にある「一石栃白木改番所跡」は、寛延2年(1749)から明治2年(1869)まで、尾張藩が伐採禁止木を使った木材などの移動を監視していました。「木一本首ひとつ」といわれたほど、周辺の山はほとんどが尾張藩のもので檜、サワラなどの木曽五木にケヤキを加えた樹種の伐採を無条件で禁止していたのです。

 

 

しばらく杉林の中を歩くと説明板があります。サワラの大樹(神居木)と呼ばれるもので別名天狗の腰かけといいます。下枝が立ち上がって特異な枝振りとなっている針葉樹を神居木といい、昔から神様が休む場所と信じられてきました。また傷つけたり切ったりするとたたりがあると伝えられてきました。

 

 

石畳の風情ある峠の入口の道標

 

 

男垂川の瀬音を聞きながら心地よい林の中を歩いていきます。

 

 

木の橋を渡りしばらく男垂川沿いに県道を歩きますが途中「男垂国有林の説明板を右に上っていくのが本来の中山道ですが、ここはそのまま道なりに歩き「男滝女滝」の大きな案内板があり急坂を下っていきます。木曽に街道が開かれて以来、名所として旅人に親しまれてきた憩いのスポットであり、吉川英治の小説『宮本武蔵』の中で主人公・武蔵とお通のロマンスの舞台となった名勝です。また滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説が伝わっています。

 

 

小川に架かる橋から女滝を眺めると滝と森林が織り成す清涼感は格別であり、女滝と比べると水量が多く、迫力のある男滝も森に囲まれて涼しげです。滝壺の近くまで下りて間近で見上げると、マイナスイオンを含んだひんやりとした風が顔にあたり心地よいです。

 

 

下り谷の集落の手前に「倉科様祖霊社」があります。天正14年(1586)、松本城主・小笠原貞慶の重臣倉科七郎左衛門朝軌は、このあたりで地元の土豪たちに襲われ、従者30余人とともに全滅させられ、その霊を祀っています。

 

 

下り谷の集落を過ぎ林の中、つづら折りの石畳の道を下ると

 

 

大妻籠」という卯達のある旅籠が昔ながらに残っている良い風情の家並みの集落を通ります。

 

 

 

手前の民宿はご婚約前の秋篠宮妃紀子様が大学のサークル活動で合宿された宿です。

 

 

大妻籠看板を見て神明集落を過ぎさらに心地よい山道を下れば、男垂川と木曽川の支流、蘭川の合流する大妻橋を渡ります。

 

 

道の少し奥、民家の庭先に「石柱道標」が立っています。妻籠は中山道と飯田街道との分岐点として栄えたところでこの道標は明治14年(1881)に国道開通を祝い、追分として飯田、近江、地元の商人によって建てられたもので、高さ3mあまりの大石柱です。

 

 

蘭川の谷に今回の終点、妻籠宿があります。

 

 

旅の疲れには、築100年の町家を改装した格子戸の美しい甘味処が「茶房 ゑびや」です。

 

 

妻籠宿で一番古い茶房で、格子の窓越しに宿場を眺めながら座敷で甘味が楽しめます。

 

 

小豆から炊いて作る自家製のあんと栗を使った栗ぜんざいや栗あん汁粉、県内産の寒天を使ったクリームあんみつなど、約8kmの峠越えで疲れた体と心が喜ぶメニューですよ。5月~」9月までの夏場限定のメニュー・氷ぜんざいはシャーベット状にしたぜんざいのシャリシャリとした歯触りが絶妙です。

 

 

帰りは国道19号で塩尻ICまで道の駅に寄りながら帰ります。