とんぼの本に写真家、後藤真樹(ごとうまさき)が書いた『かくれキリシタン』という本がある。長崎・五島・平戸・天草を取材したものである。このたび平戸を訪れるにあたり、読んでみることにした。M・スコセッシの『沈黙』がまぶたに蘇る。
後藤真樹氏の執筆のきっかけは、五島列島、福江島のヘトマトという奇祭と、生月のかくれキリシタン祭の取材であった。
1. 外海(そとめ): 長崎市内から相撲灘に沿い1時間ほど北上した辺り。遠藤周作文学館がある。かくれキリシタンは学術用語であり、この辺りでは、潜伏する必要がなくなってからも伝統を守っている人たちはふるキリシタンと呼ばれている。彼らは、ジワン宣教師の弟子が残した「バスチャン歴」というを日繰りの教会歴を指標としていた。七代待って、大浦にプチジャン神父がやってきた(信徒発見)。日本人司祭が潜伏した次兵衛岩(トマス次兵衛の洞窟)のこと。潜伏キリシタンを守ろうと檀家として受け入れた天福寺のこと。ジワン(ジョアン・ロドリゲス、1597年に豊臣秀吉を病床に見舞っている)神父を祀った枯松神社のこと。祈りの岩のこと。
2. 五島列島: 五島極楽、来てみりゃ地獄、と歌われた離島。鎖国以前は交易船の寄港地であった。五島くずれについて: 明治政府による摘発、拷問、投獄。信教の自由が認められるのは1899年になってからのことであった。五島へ移住した潜伏キリシタンは「居付き」と呼ばれて「地下もん」(先住民)に差別された。御神体: タイラギ貝はキリスト、あわびは聖ミカエル、など。キリシタンワンド(潜伏キリシタンが隠れて住んだ洞窟)のこと。山神神社について。
五島列島の北端、小値賀諸島は無人島でニホンジカが生息している。野崎島には縄文時代の遺跡もある。野首、舟森の集落は潜伏キリシタンが住み着いていた。
サン・フェリペ号事件(1596年)と翌年の二十六聖人の殉教(1597年)について。江戸幕府は1612年、直轄地に禁教令を出し、翌年、全国にそれを広めた。1619年に京都で52名を処刑、1622年に元和の大弾圧を行ない、西坂で55名を処刑、1623年に江戸で50名、1627年に雲仙で26名、1639年以降300余名を処刑した。
1637年の島原・天草の乱について。長崎や天草のキリシタン墓地について。激しい弾圧と迫害を「崩れ」と呼ぶ。
3. 平戸: 平戸島の西側の村村は、領民が一斉改宗した地であり、禁制後、中江ノ島はキリシタンの処刑場であった。平戸島西海岸の根獅子はかくれキリシタンの里である。町民のほとんどがそうであったが、今は皆仏教徒となっている。昇天岩では1635年に七十余名が処刑された。聖なる山ニコバ。八幡神社。ジョウド。ウシワキ。おろくにん様。正月のお水取り。辻の神様。黒瀬(語源はクロス)の辻殉教地(ガスパル殉教の地)。納戸神(納戸や仏壇脇の戸棚に祀られていたキリシタンの御神体: 写真、メダイ、オテンペシャ=笞など)。
生月(いきつき): キリシタン布教の拠点であった。野外での行事もあり、オラショは声に出す: 「ぐるりよーざ」はグレゴリオ聖歌と同じ。
生月の対岸、春日には近年までかくれキリシタンの信仰が継承されていた。安満岳(やすまんだけ)は信仰の山岳。 鳥居、石祠、石畳の参道。
4. 天草: 宣教師ルイス・デ・アルメイダにより島民のほとんどが改宗した。1588年、小西行長が島を豊臣秀吉から拝領し、神学校も設立され、布教の拠点となった。1637年の一揆の後はより取り締まりが強化されたが、仏教徒を装い、潜伏を続け、1805年の天草崩れでは五千人余りが摘発された。崎津や大江では仏教、キリスト教、神道がこだわりなく混在し、どこでも「あんめんりゆす(アーメン・ゼウス)」と声に出して唱えた。納戸神。今富はほとんどの住民がキリシタンであった。正月飾りには、臼の下にマリア様へのお膳を供える。
5. 祈りの場、教会堂へ: 外海の黒崎教会堂、佐世保の黒島天主堂: 内陣の床には有田焼の陶板が貼られている、五島久賀(ひさが)島の旧五輪教会堂、五島奈留島の江上天主堂、平戸の田平天主堂、平戸島の宝亀教会堂、長崎の大浦天主堂、浦上天主堂、外海の出津(しつ)教会堂、外海の大野教会堂、中通島の青砂ヶ浦天主堂、頭ヶ島(かしらがしま)天主堂[石造り]、中ノ浦教会堂、水ノ浦教会堂、福見教会堂、堂崎教会堂、大曽教会堂、冷水教会堂、旧鯛ノ浦教会堂、江袋教会堂、神ノ島教会堂、善長谷教会堂、井持浦教会堂とルルド。五島列島には実に多くの教会堂がある。
浦上天主堂の被爆マリア像。 大村市獄門所跡の無原罪の聖母(本書扉)。
▲竹内幹氏のこのサイトからの本文抜粋: 新井白石の『西洋紀聞』下巻付録によると、殉教者の数は20~30万人にのぼる、となっている。しかしこの数はおおよそであり、しかも根拠が無い。姉崎正治博士の史料に基づく実数計算では、3792人、その後ラウレス博士による計算では4045人を数えた。