私はまだイスタンブールを訪れたことがない。オットは誘いにのらない。そのうちに、と思ううちに時は過ぎた。とりあえず、この本を読んでみることにした。

 

イスタンブール三都物語

 第1章 皇帝たちの贈りもの: 中心部を訪ねる: サライブルヌ(宮殿岬)にはギュルハネ公園(薔薇の館)の森の中にトプカプ宮殿、チェンベルリタシ地区のコンスタンティノープル開都記念の塔、スルタン・アフメット地区: ハギア・ソフィア大聖堂、サラッチハーネ地区: ヴァレンス水道橋(トラキアからの水を運んだ。長さ970m、高さ20m)、ゼイレッキの丘の教会。宮殿岬からは、ボスポラス海峡、金角湾、マルマラ海が一望できる。

 前7世紀、イスタンブールに初めて街ができた。東側の小アジアは古代ギリシア世界であり、今日、トプカプ宮殿がある辺りはアクロポリスでギリシア神殿が建っていた。伝説によれば、メガラ地方の勇者ビザス(Byzas o Byzantas o Megabyzes)がデルフォイ神殿の神託によりここに町を建設したので、「ビザンティウム」と呼ばれた。後67年にローマ帝国の属州となった。395年、帝国は東西に分裂した。

 ギュルハネ公園には「ゴート族の塔」(高さ15m)があり、台座にラテン語の碑文がある。ゴート族に対する戦勝記念碑としてローマ皇帝(おそらくクラウディウス・ゴティクス帝: 在位268〜270年)によって建てられたとある。付近から発掘によりビザスの宮殿跡が出土している(ビザンツ帝国末期13〜14世紀の作家  Grēgorasグレゴラスは、ゴート族の塔に建国者ビザスの像があったと書き残している)。

 スルタン・アフメット地区から東西に延びる目抜き通りディヴァンヨル大通りを西へ向かう。トラムが走っている。コンスタンティヌス広場に、330年、ローマからここに遷都したコンスタンティヌス帝の記念柱(アポロン神殿の柱を再利用)が立っている。付近にはハマムがあり、ローマのクリアや総督府が置かれていた。アヤ・ソフィア聖堂前方のアウグステオン広場には、かつてテュケ神を載せていたミリオン塔(世界のゼロ地点として)がある。

 テオドシウス広場は現ベヤズィット広場。道は二股に分かれ、北西はハリシウス門(エディルネ門)へ、南西はアクサライ地区を経て黄金門(イエディクレ門)へ(約3,5km)。

 スルタン・アフメット広場: アヤ・ソフィア博物館の南側にひらけている広場。ブルー・モスク(スルタン・アフメット・モスク)が建っている。コンスタンティヌス大帝の大宮殿(100,000㎡)はここにあった。ヒッポドロム(テオドシウス一世のオベリスク(高さ26m)、切石の塔がある)、ゼウクシッポス浴場、ハギア・ソフィア聖堂、すべてを備えた皇帝宮殿であったが、今のトプカプ宮殿南方のマンガナ宮殿に取って代わられた。11世紀には、西の市壁に接してつくられたブラクヘルナエ宮殿が使われた。モザイク博物館には、大宮殿のモザイク床が所蔵されている。

 アヤ・ソフィア聖堂 (旧ハギア・ソフィア大聖堂): ギリシア時代にはアゴラ(市民広場)であった。ローマ時代にはメガレ・エクレシア(大教会)が建てられ、それが焼失してから再建されて総主教座聖堂ハギア・ソフィアとなり、ユスティニアヌス一世(在位527-565年)の時に再度再建されたものが今の建物である。教会が東西に分かれた(11世紀の大シスマ)後は東方正教会を代表する聖堂となった。第四次十字軍によって成立したラテン帝国時代には一時期カトリックとなった。東ローマ帝国が滅び、オスマン・トルコの時代にはモスクに改造された。本堂への門は5つあり、中央の門は皇帝と総主教だけが通ることができた。奥の突き当たりには祭壇が置かれていたが、モスクになってからはミフラーブが置かれている。その右側にミンベル(説教壇)。堂内の丸天井の高さは55m、直径は約32m[サン・ピエトロ聖堂のクーポラは高さ132,5m、直径42m]、四隅に四天使。南側に多いモザイク画は、イコノクラスム後に作り直されたものである。オスマン帝国はモザイク画を破壊せず、16世紀以降に漆喰で覆い、それが1930年代に剥離されたのである。

 ハギア・ソフィア大聖堂には、右手にコンスタンティヌス一世がコンスタンティノープルの町を捧げ、左手にユスティニアヌス一世がハギア・ソフィア大聖堂を聖母子に捧げるモザイク画がある。請願図(デイシス)は、キリスト、聖母、洗礼者ヨハネのモザイク画。

 1453年5月28日、オスマン帝国のスルタン、メフメット二世がコンスタンティノープルを陥落させた。その後、この聖堂は1931年までモスク[トルコ語で]アヤ・ソフィアであり、1934年には世界遺産にも登録された。2020年まで宗教的に中立的な博物館であったが、2020年からは、エルドアン大統領令により、モスクとなり、礼拝時、キリスト教の聖像は布で覆われることとなった。ユネスコは「イスタンブール歴史地区」を世界遺産に登録しており、アヤソフィアももちろんそれに含まれている。

 アヤ・イリニ博物館(ハギア・エイレーネ教会): トプカプ宮殿の第一庭園内にある。4世紀の建設当初はコンスタンティノープルの総主教座であった。付近にあったギリシア神殿の部材を用いて建設されたが、6世紀のニカの乱で焼失し、再建された。宮殿内にあったためにモスクとはならず、武器庫となり、その後、考古学博物館、軍事博物館となり、現在はコンサートやイベントの会場となっている。

 戦車競技と皇妃テオドラ(旧ヒッポドロム): ローマ時代の戦車競技場遺跡で、エジプトのカルナック神殿由来のオベリスクなどで飾られている。オスマン時代には騎馬の槍投げ競技が行われた。「ニカの乱」と皇妃テオドラについて。

 地下宮殿: 6世紀半ばに建設された地下貯水槽。78,000㎥。深さ8m、コリント式円柱が4m間隔で28本×12列(336本)並んでいる。円柱の台座にメドューザの頭。

 ヴァレンス水道橋: 2世紀初め、ハドリアヌス帝によって着工され、4世紀半ばに竣工、トラキアから引かれた水道橋。高さ20m、幅3.5m、西側が200m、東側が600m。サラッチハーネ公園に面しており、アタチュルク大通りが直交している。金角湾にかかる橋を渡ると新市街へと抜ける。

 ゼイレッキ教会モスク(旧パントクラトル教会): 水道橋の北側、金角湾を見下ろす丘には、ビザンツ時代、12世紀初めにできた市内最大級の修道院の跡地があり、その中心であった教会堂である。アヤ・ソフィアに次いで大きく、三つの建物(イエス、聖母、大天使ミカエル)が繋がっている。皇帝ヨハンネス二世と皇妃エイレーネにゆかりの聖堂で、この皇帝と皇妃と息子が埋葬されている。東側にはスレイマニエ・モスクが見える。

 

 第2章 ビザンツ城壁を歩く: 北の金角湾城壁、西のテオドシウス城壁(高さは平均11m、城門の数は10)、南のマルマラ城壁(魚河岸クムカプがある魚介レストラン街)の三方を一周する。モスクに変えられた教会堂、皇帝の凱旋門、皇帝宮殿跡など。

 ギュル(薔薇)モスク(旧ハギア・テオドシア教会): 金角湾の出口には波止場町エミノニュから西へと歩く。アヤカプ地区には城門が2つ、ギリシア正教の総主教座もその先にある。城門をくぐると赤煉瓦づくりのギュル・モスク(旧ハギア・テオドシア教会)が湾の辺りにそびえている。聖像破壊運動の折り、聖像を守ろうとして殉教(5月29日)したテオドシアが聖女とされ、9世紀に建立された。コンスタンティノープル陥落の日に同聖女のミサが行われる予定で薔薇の花が堂内に満ちていたという。

 市街地北端、金角湾大橋を望むアイヴァンサライ地区で城壁は南へと曲がり、5,6kmに及部テオドシウス二世の城壁(5世紀の建設)とやはり5世紀に遡るプラクヘルナエ宮殿の遺構がある(7世紀に建てられたコンスタンティノス7世の宮殿が残っている)。13世紀初め、第四次十字軍がコンスタンティノープルを征服し、ラテン帝国を建設し、1261年にビザンツ帝国は復興した。イヴァズ・エフェンディ・モスクの一隅には、2つの監視塔をもつアネズマ牢獄の遺構(もとは宮殿の地下倉庫、VIP専用の牢獄)がある。呼称はここに幽閉された軍人ミカエル・アネズマに因む。

 カーリエ博物館(旧コーラ修道院の教会堂): 前述の宮殿の南方。宝石箱のよう。内廊下には聖母を、外廊下にはイエスの物語の金地モザイクをもつ。13世紀に宰相メトキテスにより修復された。礼拝堂はフレスコ画で飾られている。

 テオドシウス大城壁: エディルネ門から市壁街に出られる。この水濠もあった三重の市壁を1453年にオスマン・トルコ軍が大砲で突破した。南方には大砲門(旧ロマノス門)。イスタンブールの語源はギリシア語の「イス・ティン・ボリン」(その町へ)。

 旧黄金門(Porta AUREA): 大城壁の南端にあり、今はイエディクレ野外博物館となっている。テオドシウス一世が建てさせた、西のトラキアからの凱旋門であったが、トルコ時代には留置場となった。

 イムラホール・モスク跡(旧アイオス・イオアニス教会): 市内最古の、洗礼者ヨハネに献じられた由緒ある聖堂であり、5世紀半ばにバシリカ様式で創設されたストゥディオン修道院に属しており、修道院長は総主教に次ぐ地位にあった。今は屋根がない廃墟。

 旧市街の中心部に戻る。ラーレリ地区という皮革製品や衣料品のロシアンバザールのある下町。ボルドム・モスク(旧ミュレライオン修道院の教会堂)で、地下に納骨堂がある。

 キュチック(小)・アヤ・ソフィア・モスク(旧アギイ・セルギオス・バッコス教会): ハギア・ソフィアより古いが小さい。今はイスラム教の僧院。ユスティニアノス一世がセルギオスとバッコスの二聖人に献じた。

 東端のブーコレオン港跡: かつては皇帝専用の港であったが、地震で崩れ、チャトラド門となった。波止場の背後にはブーコレオン(牛と獅子の合成語)宮があり、ユスティニアヌスの館の遺跡がある。マルモラ海の語源は「大理石」に因む。対岸にはカルケドン(現カドゥキョイ)がある。

 

 第3章 スルタンたちの栄華の園: ボスポラス海峡に面したルメリ・ヒサルの要塞。金角湾奥エユップ地区のモスク。繁華街ペヤズィット。バザール。トプカプ宮殿。新市街の西洋風ドルマバフチェ宮殿

 ボスポラス海峡攻防戦: 黒海に面したルメリア要塞(トルコ語ではルメリ。メフメット二世による建設)は海峡の最も狭い部分(幅698m)にそびえ ている。白い吊り橋は1988年に開通した第二ボスポラス(征服王スルタン・メフメットの)大橋: 全長1510m、中央支間長1090mの吊橋で、幅員39m(8車線)日本からの円借款により日本によって建設された。対岸にある城郭は、小アジア側のアナトリア要塞: 14世紀末、メフメット二世より三代前のベヤズィット一世が建設したもの。両要塞とも征服後は牢獄として使われた。今は野外博物館である。南方には第一ボスポラス大橋がある。

 トプカプ宮殿の皇帝の門: トプカプとは大砲門のこと。これをくぐり、第一庭園、武器庫にされたハギア・エイレーネ教会、挨拶の門=中門、第二庭園、ハーレムへの入り口は車門、宦官の部屋、黄金の道という廊下、愛妾たちの小部屋、幸福の門をくぐると第三庭園があり、その先は内廷で、謁見の間、宝物殿にはエメラルドを3つあしらった短剣、86カラットのダイヤモンド、聖地メッカのカーバ神殿の木の扉、ムハンマドの外套や剣の入った棺、など。皇帝門の前の広場には市民の共同水汲み場がある。18世紀前半にアフメット三世がつくった配水システム「チェシメ」、ペラトイオンという噴水。アフメット三世の時代は「チューリップの時代」と呼ばれた。チューリップはトルコ発祥の花である。

 スレイマニエ・モスク: イエニチェリ軍団出身の天才建築家シナンの傑作。バザールの西側のベヤズィット門から同広場に出ると、その北側にある。オスマン朝の大帝スレイマン一世(16世紀)に献じられたモスク。モスクの庭に大帝と愛妃の墓がある。

 トプカプ宮殿博物館、スルタンの大広間: ヨーロッパのロココ様式が折衷されている。

 ドルマバフチェ宮殿博物館: 大ドームにはバカラ製のシャンデリアが吊るされている。庭園も西欧風。

 グランド・バザール: 4000もの店がひしめく。ヌルオスマニエ(オスマンの光)門から入る。ベデステンと呼ばれた貴重品店が始まり、多くの宝飾品店が並んだ。同業組合ごとに通りが分かれており、チャイやトルココーヒーが飲める。値段は掛け合いで決める。

 エユップ(アイユーブ)・スルタン・モスク: アイユーブの墓跡に建てられ、スルタンが装剣の儀を行った。

 エジプト・バザール: ガラタ橋の手前にあるオリエンタルムードのエキゾチックな屋内市場。

 ブルー・モスク(スルタン・アフメット・モスク): ヒッポドロムの近くにある。17世紀初頭、アフメット一世の記念モスク。ミナレットが6本もある。礼拝中は入場できない。260の窓から外光を取り入れている。内装は青いタイル。ラマダンにはミナレットの間にランプを灯す(マフヤー)。

 ドイツの泉: ドイツは3B政策というベルリンからバグダッドへの鉄道建設を目論んでいた。トルコは第一次世界大戦でドイツ側に加わり、敗戦したが、アタテュルク(ムスタファ・ケマル将軍)が立ち上がってトルコの独立を守り、共和国となった。

 ドルマバフチェ宮殿(埋め立てられた庭の意味): 19世紀半ば、アヴドゥルメジット一世の時の豪華絢爛な建築。このスルタンは西欧化を図り、トプカプ宮殿を去り、新市街に移った。建築家バルヤンの西欧的作品。トルコ共和国の初代大統領ケマル・アタチュルクの部屋は簡素。宴会場ムアーエデ・サロンは広さ900㎡、高さ36mの゛トームを戴き、そこには4,5tのシャンデリアが下がっている。1877年、ここで初めての国会が開かれたが、一度限りで、戦争と革命の20世紀を迎える。そして1922年、最後のスルタン、メフメッド六世はここからイギリス船に乗り、亡命した。623年に及ぶオスマン帝国の終焉であった。翌年、トルコ共和国が成立。アンカラ政府軍を率いたムスタファ・ケマルが初代大統領に就任した。

 ガラタ塔: 1348年、物見の塔として建設された。最上階は展望テラス。

 

トルコの世界遺産リスト

 1. イスタンブール歴史地区

 2. ディヴリーの大モスクと施療院: 12〜13世紀頃の都市遺跡にある建築。

 3. ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩石群: 洞窟聖堂が1000以上ある。

 4. ハットゥッシャ: 前17〜前13世紀にアナトリアで栄えた鉄器文化ヒッタイトの首都遺跡。

 5. ネムルート・ダア: 前2〜前1世紀に栄えたコマゲネ王国の祭祀所。

 6. クサントスとレトーン: 前7世紀頃の海の民、リュキヤの遺跡。

 7. ヒエラポリスとパムッカレ: 前190年に建設されたペルガモンの都市、ローマ時代の温泉保養地

 8. サフランボル市街: 木造民家の家並みの町。シルクロードの中継地。

 9. トロイの考古学地区: 9層からなる遺跡。ホメロスの『イリアス』としてシュリーマンが発掘。

 ※エフェソスの遺跡

 

▼Wikipediaより