百舌鳥・古市古墳群が2019年、ユネスコの文化遺産に登録された。これらの前方後円墳について、学ばないわけにはいかないので、読んでみた。

 

 はじめに: 明治維新は日本が近代国家として歩みを始めた変換点であったが、第二次大戦の敗戦が変節点であり、戦前の皇国史観が覆された。文献の乏しい時代についてはやはり考古学が重視されねばならないが、期待に応えられてはいない。

 時代区分は、旧石器時代 periodo paleolitico・縄文時代・弥生時代・古墳時代であるが、微細な部分で論争があり、確定されていない。本書は、奈良盆地で成立したヤマト王権成立の過程を明らかにしようというものである。

 3世紀に倭の女王卑弥呼が魏に遣使し、5世紀には倭の五王が中国南朝に遣使したことは事実である。重要なのは、アジア世界のなかでの位置付け、中国・朝鮮半島との関係である。

 

 序章 ヤマト王権とは何か: 2019年、百舌鳥・古市古墳群を成す49基の古墳がユネスコ文化遺産に登録された。大山古墳(486m)など、5世紀を中心とした大規模な前方後円墳である。被葬者は誰かは定かではないが、倭の五王のものが含まれているのは確かで重要。王権の所在地は、大阪平野であったこと以外、明確ではない。3〜4世紀には、奈良盆地東南部に規模の大きい前方後円墳があり、纏向遺跡が王都の有力候補地である。

 大和という名称が統一されたのは、奈良時代後半以降のことである。ヤマトという呼称はそれ以前の旧大和国として使用する。大和(おおやまと)古墳群は、日本列島において最も古く、最も規模が大きいことが確定した。桜井市箸中にある箸墓古墳は長さ280m、ヤマト王権の初代王墓と評価することができる。本書では平仮名で、おおやまと古墳群とする。これが形成された時期に纏向遺跡の拡大があることから、ヤマト王権の発祥を推測できる。それが各地域集団に対する影響力を強めていき、政治権力機構に発展していったものと考えられる。

 

 第1章 神武天皇と「闕史八代」: 8世紀に編纂された『日本書紀』によると、日本国の始祖たる神武天皇は日向国から東征して大和に入り、辛酉年正月元旦に即位し、127歳で橿原宮にて崩御した。これは史実ではない。また、十代目の崇神天皇は最初の天皇と認識されていた[最初の天皇が二人いる!?]。その間の二代〜九代の八人の天皇は闕史八代、つまり事績がなく、実在は疑わしい。

 明治政府は神武天皇の即位を紀元前660年元旦と定め、太陽暦に直すなどして、2月12日を建国記念日とした

 壬申の乱(672年)の時、神武天皇陵にて祭祀が行われた。その存在は確実ではないが、平安時代まではあり、その後荒廃して不詳となっていたが、1863年に橿原市のミサンザイとツボネガサという小丘をつないで神武天皇陵が造成され、今日も宮内庁が管理している。1697年、江戸幕府の調査でそれと推定されていた塚山は、明治時代に第二代天皇の墓とされたが、5〜6世紀につくられたものである。そして、1988年に四条一号墓が発掘調査により確認されたが、王とのような支配者階級のものではない。その後、周辺で13基ほどの古墳が確認されている。

 天武天皇は新城(にいき)に新しい都の造営を始めた。これは藤原京であり、条坊制を施行したが、塚山だけは意図的に残された。そして、持統天皇は「新益京」の鎮祭を行い、飛鳥浄御原宮から藤原宮への遷宮が行われた。

 天武天皇は、畝傍山東北に「建国の聖地」つまり、神武天皇が即位した橿原宮を造成した。それは地理的に国の中心であり、壬申の乱で天武天皇側の将軍を務めた大伴氏の遠祖が妖気を祓って準備した土地であった。

 明治政府は皇室賛美の一環として、神武天皇陵を造成したのみならず、橿原神宮を創建し、第二次大戦下に国は軍国主義発揚のため、その外苑を整備し、運動施設や文化施設を建設した。

 

 第2章 中国の史書にあらわれた倭国: 推古天皇は607年、大唐(つまり隋)に使節、小野妹子を派遣し、彼は12人の隋の使人とともに国書を携えて帰国した。隋の正史『隋書』には、我が国を「倭国」としている。二度目の遣隋使は「無礼」であったとしている。「日出るところの天子」と書いた厩戸皇子のことであろう。その中で倭国の王都とされている「耶摩堆」が邪馬台なのかヤマトなのかは不詳である。

 倭国が中国との交渉をもち始めたのは前漢の時代(前202年〜)である。1世紀に後漢によって編纂された前漢の正史『漢書』の中に、楽浪郡(朝鮮半島南部)の海中に倭人あり、分かれて百余国となる、とあり、まだ倭国という国名も見られない。『後漢書』(5世紀の南北朝時代に成立)には、倭奴国、邪馬台国、倭国、狗奴国、倭王、卑弥呼などの記載がある。それは、北九州の三十余国があり、それぞれ王がいたことを記しており、考古学的調査とも符号する。5世紀の中国と交渉していたのは倭の五王であったこともわかる。

 江戸時代に志賀島で出土した「漢倭奴国王」の金印(光武帝より付与された)については論争があるものの贋作とは言い難い。博多湾岸にある弥生時代中期から古墳時代にかけての遺跡は、奴国が北九州における諸国の盟主的存在であったことを示している。福岡県春日市の須久岡本遺跡においては多くの甕棺墓が見つかっているが、1899年に出土した甕棺墓は副葬品から奴国の王墓だと考えられている。その後、奴国の中心は博多湾周辺へと移ったことが、比恵・那珂遺跡の広大さから推測される。その南寄りに位置する那珂八幡古墳からは三角縁神獣鏡が出土しており、王墓と言える。博多湾は、古墳時代最大の外交拠点であったのだ。

 伊都国の王都と王墓について: 三雲井原遺跡にある。その周辺の遺跡からも、中国製の鏡(舶載鏡)や国産の仿製鏡が出土している。この遺跡の西方における平原一号墓は伊都国末期の女王墓である。

 

 第3章 倭国分立の時代のヤマト: 弥生時代(年代観は不確定であるが、その中期は前1世紀ごろから後1世紀ごろまで、後期は2世紀までと言える)は土器の特徴によって区分される。近畿地方を代表する弥生時代の大規模集落としては、幾重にも濠を巡らせ、大型建築物をもつ環濠集落の池上曽根遺跡が挙げられる。その住民は、中国との直接交渉は行なっていなかった。

 唐古・鍵遺跡は弥生時代前期に始まり、700年も継続した環濠大規模集落である。土器には祭祀の様子が描かれており、巫女や戦士、二層の楼閣が描かれており、銅鐸、ガラスの生産も行われていた。北陸の碧玉、東西遠隔地の土器も出土していることから、物資や人の集積が窺い知れる。大陸からの渡来系集団を受容した形跡は見られず、中国との直接交渉を思わせる証拠はない。周辺には衛星集落の存在があった。オウの重要な仕事の一つが、稲作のための水利基盤の整備を主導することであったと、遺跡は裏付けている。ともあれ一帯には突出して大規模な墳墓がないことから、「おおやまと」全体を統治するような存在は推定しにくい。

 

 第4章 邪馬台国の所在地: 弥生時代後期の土器は、表面を工具(タタキ)で叩いて成形された平底であり、V様式系と呼ばれている。古墳時代以降の素焼きの土器は「土師器」と呼ばれており、ハケ(工具で擦る)とケズリ(土器の内面を刀子などで削る)の技法による丸底で、薄く、型式は「布留式土器」と命名された。ミガキという擦文が表面にあるものもある。弥生時代からの過渡期(2〜3世紀前半)のものは庄内式土器と命名された。邪馬台国はここに属す。また、最初の大型前方後円墳である箸墓古墳は、布留式期の初めにあたる。

 『魏志倭人伝』に記されている邪馬台国の所在地は、読み方により、大和説と九州説がある。これと対立していたという狗奴国の所在は、東海地方、熊野地方、球磨(熊本)などにあてる諸説がある。2世紀に倭国が乱れ、それを収めるため、共立された女王が、鬼道に仕える卑弥呼で、弟に補佐されていた、29カ国がこれに服属していた、とある。238年、卑弥呼は最初の使節を魏に送り、金印と紫綬を受けた。243年には、狗奴国との対立について仲裁するべく魏の使節が派遣されてきた。卑弥呼の死と墳墓建設、後継の男王のもとで再び争乱となり、卑弥呼の宗女台与を立ててようやく治った。台与も魏に朝貢した。卑弥呼の墓は特定されていない。筆者は、邪馬台国北九州説に立っている。この時期(3世紀)、近畿地方には中国との直接交渉を示すものは見つかっていない

 

 第5章 ヤマト王権の誕生: 古墳時代の始まりは、前方後円墳の出現であり、研究者の間では、纏向遺跡における箸墓古墳と、纏向遺跡における纒向型前方後円墳のどちらかに見解が分かれている。古墳は時代区分として有効かつ適当であり、政治的な構築物であり、墳形と規模が被埋葬者の階層的地位を物語っている。

 大型前方後円墳の出現と統一国家の成立はイコールではない。出現した段階ではまだ諸国は分立していた。とはいえ、5世紀に中国との交渉をもった倭国の王がいずれかの大型前方後円墳に葬られた可能性はある。前期(3世紀後半〜4世紀)、中期(5世紀)、後期(6世紀)のうち、前期には、奈良盆地東南部の「おおやまと」古墳群が傑出しており、その中の纏向遺跡における箸墓古墳の被埋葬者がヤマト王権の王だと推定できる。

 このおおやまと地域(奈良盆地、堺の北方の大阪湾に至る大和川の上流)は弥生時代より生産力を高めた。北西部の唐古・鍵遺跡よりも後に起こった纏向遺跡の支配者が地域の主導権を握ったものと考えられる。纏向遺跡には大規模な運河(幅5m×深さ1,2m、北溝の長さ60m、南溝の長さ140m)が発掘されており、古墳までの総延長は1,3kmに及ぶことになる。

 纒向型前方後円墳は前方部が低く短く、後円部が不定形であり、纏向遺跡内には長さ80〜100mほどのものが5基あり、より小型のものも多々ある。この型の古墳は千葉県から福岡県まで広く分布している。99mの纒向石塚古墳の周濠からは土器や木製品が出土している。勝山古墳は115m、前方部が長い。ホノケ山古墳は約80m、副葬品の中に画文帯神獣鏡(直径17,1cm、中国の後漢末期2世紀後半のもの)、同じく画文帯神獣鏡のかけら(3世紀前半、魏の領域のもの)があったが、いずれも広域を支配した王の墓とはいえない。

 纏向遺跡は環濠集落ではなく、河川にはさまれた微高地にある。全国各地から人や物が集まってきたことは、外来系土器(近隣のものが大半だが、東海や瀬戸内海地域のもの、こくわずかだが朝鮮半島南部のものもある)などから推測されるものの、最大の核であったとは言えない。纏向遺跡の大型建造物の南方で、大量の桃の種(2765ケ)が出土しており、邪気祓い、不老長寿、とする中国の道教思想によるという見解がある。放射性炭素年代測定によると2〜3世紀のものである。

 なお、3世紀前半の庄内式期に属す大規模集落が複数、大和川流域河内平野に広がっており、筆者はこれらを纏向遺跡にまさる先進地域だとしている。

 纏向遺跡の外来系土器の出土から、渡来系技術者がいたこと、鉄器生産の技術指導を行なっていたことが推測されるが、副葬品として出土している鉄刀、鉄剣、甲冑などの大型鉄製武器は大陸からもたらされたものであろう。

 纏向遺跡南方の箸墓古墳(初代王の墓か?) および同古墳群における大型前方後円墳はすべて古墳時代前期の築造によるものであり、長さ200m以上のものは他には存在しないことから、筆者はこれらをヤマト王権の王墓とし、おおやまと古墳群と呼んでいる。纏向遺跡は布留式期(3世紀後半〜4世紀前半)は日本列島最大級の集落である。遺跡の中心には1800㎡の王の居館があり、南方に大型導水施設があった。おおやまと地域の大規模集落は、布留式期にも発展した。奈良盆地のおおやまとを支配した政治的集団が日本列島各地に強い影響力を及ぼすようになったと著者は述べている。ヤマト王権は生産力を背景としてここに誕生したが、その支配地域は限定されたものであり、倭国の王であったとはいえない

 

 第6章 「おおやまと」の王墓 —「おおやまと」古墳群の形成: 『古事記』『日本書紀』の作者は、おおやまとの古墳や遺跡を天皇の祖先のものと関連づけようと解釈を試みた。垂仁天皇が纒向に都をつくったこと、崇神天皇、景行天皇の陵は記紀では一致していないが、奈良盆地南東部におけるおおやまと古墳群のものとしている。また、『日本書紀』は、箸墓古墳を、蛇の姿をもつ大物主神の妻(倭迹迹日百襲姫)の墓とし、その呼称の由来を述べている。この倭迹迹日百襲姫、あるいは神功皇后を卑弥呼とする見解もあるが、『日本書紀』の編者は、倭の女王を天皇の祖先とは考えておらず、邪馬台国の所在地を大和とも考えていなかった。箸墓古墳からは、布留式土器成立期のものと思われる二重口縁壺、および円形埴輪の起源とされる特殊器台が見つかっており、最古の大型前方後円墳だという評価が確定している。なお、埋葬施設にめぐらされた円筒埴輪の起源はキビ地方にあり、ヤマトとキビ地方には交渉があったことがわかる。箸墓古墳の被葬者が中国との交渉をもっていたとすれば、それは卑弥呼であった可能性もあるが、統合された倭国の王として中国の正史に記録された人物ではありえない。

 おおやまと古墳群の大型前方後円墳の副葬品の中には「玉杖」がある。中国名であるが、イヅモ産の碧玉でつくられたものである。埴輪に見られる蓋(きぬがさ)も、中国唐時代の威儀具を模倣したものである。いずれもヤマト王権が中国文化を受容したことを示している。

 

 第7章 ヤマト王権と三角縁神獣鏡: 卑弥呼が遣使した景初三(239) 年の銘を刻んだ鏡が、島根県で二面出土している(画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡)。だが銅鏡は後世に築造された墓の副葬品とされた場合があり、同范鏡、同型鏡、踏み返し鏡など、複製された場合があることを考慮せねばならない。

 桜井茶臼山古墳の調査について: 激しい盗掘を受けていたが、破片となっている銅鏡は81面出土した。これは最多であり、うち26面が三角縁神獣鏡である。その被葬者は中国との交渉をもち、ヤマト王権の影響力を示すべく、三角縁神獣鏡の生産を行なったものと考えられる。国産の証拠の一つとして、皇帝が景初三年に没しているのだから景初四年という年号はあり得ないが、その年号を刻んだものがある。

 黒塚古墳の埋葬状況について: 後円部の中心に竪穴式石室があり、そこに木棺が置かれていた。その頭部側に鏡面を壁に向けて立てかけられていたが、当初は木棺上に置かれていたのがずれ落ちたとも考えられる。鉄刀、槍、剣などは遺体の側面に置かれていた。この古墳からは34面という多量の銅鏡が出土している。被葬者の権威を示すものか、あるいは避邪の道具として配置された可能性がある。ともあれ、三角縁神獣鏡は大量に複製された(仿製ぼうせい鏡、中国製は舶載鏡)。鋳バリを残すものもある。

 著者は、佐紀古墳集団[奈良盆地北部、木津川南方]と、おおやまと古墳集団の間にある、「わに」有力地域集団、「ふる」有力地域集団について述べている。これらの地域集団は両古墳集団をつなぐ役割を担った、と。このほか、「そが」、「かづき」、の地域集団が存在し、成長していった。

 

 第8章 ヤマト王権と有力地域集団 : 『古事記』『日本書紀』には、垂仁天皇の宮と陵として奈良盆地北部、佐紀の地名が記されている。また、垂仁天皇の皇后、日葉酢姫の薨去にともなう埴輪の成立論も記している: 殉死の代わりに野見宿禰が出雲の土部百人により土物(はに)を陵墓に立てるよう進言したこと。だがごれは、キビとヤマトの交渉により特殊器台が埴輪となった歴史事実と乖離している。野見宿禰は土師氏の始祖であるという物語であり、佐紀遺跡に近い菅原東遺跡には、6世紀の埴輪窯が見つかっている。ここには「さき」が王の支配拠点であったことを示す2500㎡に及ぶ居館がある。これは「おおやまと」の王と対立していたのではなく、ヤマト王権には、纏向遺跡と菅原東遺跡に二人の王が並立し、連合していたことを示している。筆者は、その地における宝来山古墳、佐紀陵山古墳を王墓としている。

 その両王の拠点の間にあった有力地域集団について: 「わに」の有力者は、金官伽耶や中国と外交交渉をもっていた。のちに和邇氏と呼ばれるようになり、葛城氏、蘇我氏と並んで多くの皇妃を輩出した。「ふる」の支配者は、布留川上流にあり、その東側にある石上(いそのかみ)神宮には百済から七枝刀(国宝の七支刀)が献上されたこれはふるの有力者[後に物部氏と呼ばれる]が百済とヤマト政権のつながりに重要な役割を果たしたことを示している。物部氏とその後裔の石上氏は石上神宮の宝物を管理した。

 蘇我遺跡は、勾玉、管玉、臼玉などの玉作り工房のあった遺跡で、久慈の琥珀、姫川の翡翠、島根の碧玉、水晶など種々の石材を集積加工していた。

 6世紀に継体天皇を擁立した大伴氏は、畝傍山周辺一帯にかかわっていた。

 「かづらぎ」地域の支配者は、武内宿禰の後裔氏族の一つである。葛城襲津彦は、神功皇后の三韓征伐における将軍であり、葛城、忍海、桑原、佐びに新羅の捕虜を住まわせたと『日本書紀』にある。

 銅鏡を、頭部側のみと、頭部側と足側に配置する例があり、古墳時代前期後半から後者の例が始まり、それは馬見古墳群の被葬者が三角縁神獣鏡を配布したことから、馬見古墳群はヤマト王権の墓域と考えられる

 水鳥形埴輪: 津堂城山古墳および巣山古墳の周濠ないの島状施設に配されていた。

 

 終章 ヤマトの王から倭国の王へ : カワチには有力地域集団があった。カワチは庄内式土器の発信源であり、外来系土器も多く出土していることから、瀬戸内海のサヌキ、キビを介して朝鮮半島・中国との交易拠点であったことが明らかである。「おおやまと」と覇権を競ったものと思われるが、箸墓古墳造営の頃[3世紀中頃〜後半]には劣勢におかれることとなった。ヤマト王権は成立当初からヤマトとカワチをともに支配していたと考える研究者も多いが、筆者はそう考えている。そして、纒向遺跡から奈良盆地中央に拠点が移ったとも推測している。そして5世紀以降、カワチにおいて大型前方後円墳を築いた[百舌鳥・古市古墳群]。古市古墳群は200m〜400m以上あり、少し遅れて百舌鳥古墳群が築かれた。大山古墳は墳丘が486mもある。

 中国の史料『宋書』倭人伝および本紀に見られる倭の五王(讃・珍・済・興・武)について。国土を統一した倭王武はワカタケルすなわち雄略天皇であり、ミサンザイ古墳に葬られたとしている。

 大山古墳は、年代からみて、讃、あるいは珍の墓としている。出土品は海外交渉を行なった倭国王の墓であることに疑いはない

 6世紀が始まり、倭国王となったのは継体大王であり、実在である。6世紀には渡来人である蘇我氏が飛鳥を開発し、大王を飛鳥に迎え入れ、律令国家体制への歩みを始めた。ヤマトにおける大規模前方後円墳は6世紀後半に築かれており、310mの丸山古墳はおそらく欽明天皇である。