織田信長についての小説は読んだことがなかったので、読んでみることにしたが、文章がぜんぜん面白くなかった。この上巻は、織田信長が地元の尾張でいかにてこずりつつ足固をしたかが語られており、有名無名の戦国武将のオンパレードで、検索しながらでないと、無知な私にはわけがわからない。松平信康や木下藤吉郎が登場したあたりからは、大河ドラマの場面や俳優を想起しながらそれなりに読み進むことができたが。下巻を読むのはしばらく後にしよう。

 

 遺言: 尾張、末盛城において織田信秀が跡取りの信長に語る。百五十年前、足利一門の斯波氏が尾張の守護となり、織田常松が守護代となり、その没後、弟の常竹が守護代となり、南部の清洲を本拠とした。この常松と常竹は尾張の覇権を争う。北側の美濃は織田家にとっての仮想敵であった。常竹の猛将、治郎左衛門が信長の曽祖父にあたり、その血を引く弾正忠家が織田一族中の名門だという。

 織田信長には太田牛一という従軍記者のような家来がおり『信長公記』を著した。

 常松と常竹が鉾を収めた後、尾張には、岩倉を本拠とする織田伊勢守家と、清洲に拠る織田大和守家があり、大和守家の三奉行(家老などではない)の中の織田弾正忠(信秀)が最有力となっていった。これは下剋上などではない。

 織田弾正忠の財源は津島という湊町であり、勝幡の居城も豪華であった。名古屋の城も易々と乗っ取った。美濃の斎藤道三、三河の松平清康、駿河・遠江・三河を支配する今川と、敵は手強かった。美濃とは、信長と帰蝶との婚約により和議を結んだ。

 信長は思った。父が戦さに敗れたのは、盟主だったからで、尾張の将兵を全員支配下に組み込まねばならぬ、と。1552年、信秀は没した。その葬儀における信長の様子は有名である。うつけを装っていたのだ。

 

 不覚の涙: 忠実な家来、山口左馬助が、信長をうつけと見かぎり、今川方に寝返る。信長はそれを成敗することができなかった。舅となる斎藤道三はうつけと言われる信長を見ようと会見を申し入れる。物陰から見た時は異形であったが、信長は寺で身なりを整え、じらせてから赴いた[「麒麟がゆく」の場面を思い出す]。

 一方、清洲攻めは手間取っていた。

 

 勘十郎謀反:  信長は叔父の孫三郎信光は二股膏薬だと父から言われていた。もう一人の叔父、孫十郎信次はひょんなことから信長の弟(喜六郎)・織田秀孝を射殺してしまい、逐電した。信長の弟、勘十郎信行は激怒して守山城を焼く。この弟はなにかと兄信長に対抗する姿勢を見せていた。

 信長の重臣、林通勝のこと: 一度は信長のもとを去るも、再び舞い戻る。

 清洲大和守家との戦い: 1554年、 阿食の戦いで圧勝したが、筆者はこれには言及していない。

 岩倉の当主、信安: 信長は信安を訪ね、幸若舞を嗜むも猿楽と歌舞音曲の指南を受けたいと申し出て通う。ついでに豪商生駒八右衛門をも訪ね、さらに近くの木曽川沿いの川並衆をも訪ねるようになる。その首魁は蜂須賀小六であった。その蜂右衛門の所に寡婦となって戻ってきた妹[信長の叔母にあたる]の吉乃を見て、信長は室に迎える。道三の手前、正室としてではなく(しかし、何人も子をつくる)。

 斎藤義竜のこと: 道三と息子の義竜の確執。信長は道三に借りがあったが、情勢を見極めるうちに、乱波から道三敗北の報が入る。

 信長は、林通勝の裏切りにより、名古屋と守山を失う。

 そして、信長の弟、勘十郎は謀反。討つにしても、相手の兵力は三倍であった。

 

 岩倉破却: その前に兄弟の争い: プロの戦闘集団を擁す信長勢は強かった。当初は眉唾ぎみであった佐々成政も信長に味方につくよう説得された。柴田勝家も当初は林通勝らと同様、信長の弟、信行の家臣であった。信長の生母、土田御前は弟の信行を贔屓にしており、矛を収めるようにと信長のもとに使者を送る。信長は身内の戦いは愚の骨頂と、稲生の戦い(1556年)から撤退する。

 翌年、吉乃から信忠が生まれた。その頃、柴田勝家が勘十郎が再び謀反を企てていると告げてくる。岩倉と手を握るという。仮病をつかって引きこもる信長のもとを見舞いに訪れた弟を信長は自害に追いやった(1558年)。

 十郎左衛門信清は、生駒八右衛門の説得により、信長につくこととなった。

 岩倉兵衛信賢は意を決して城から打って出たが、信長勢とは勝負にならない。和議を入れてきたが、信長は放っておいた。

 その間、京のことを考えていた。1559年には、八十人ほどの供を連れて上京し、将軍足利義輝に会見した。その留守中、信賢は岩倉城を出て、美濃へと落ちていった。信長はその岩倉城を破却させ、織田伊勢守家を名実ともに消滅させた。

 

 会心の笑み: 信長は乱波・透波から今川義元の動きを知る。義元自ら尾張を切り従え、京に入るらしい、と。大高城・鳴海城のあたりが戦場になると睨み、偵察に出かけ、鷲津と丸根にも砦を築き、今川勢を誘い込むこととする。

 そこへ松平信康が大高城へ兵糧を入れたとの報[大河「どうする家康」を思い出す]。正午頃、丸根砦、鷲津砦を陥落させた今川勢は、桶狭間山(おけはざまやま)で昼食休憩に入った。一方、信長はその桶狭間山へ進軍、本陣を襲撃した。

 

 越後からの音問: 話は16年前、父の信秀が道三に大敗を喫した頃に遡り、信長は美濃攻略を考える。安藤・稲葉・氏家の美濃三人衆の調略に思いを致す。そして、斎藤氏の稲葉山城(岐阜城)を攻めるにはどこを拠点とすべきか? そして墨俣を拠点とし、長陣を覚悟する。斎藤義竜が他界するも、犬山十郎左衛門信清(信長の従兄弟)が謀反する可能性があったが、やはり信清は信長の邪魔をする。→後に信長に駆逐される。

 松平元康は、今川に捨てられた岡崎城に入り、信長と同盟を結ぶ。

 蜂須賀小六の川並衆に関しては、木下藤吉郎に調略を一任する。川並衆は信長と相性がわるく、信長は彼らを拗ね者と呼んでいる。藤吉郎は重要であった。

 小牧山に築城する。諸将諸侍に城下への引っ越しを命じる。

 越後の上杉謙信は、信長に味方になるようにという書状を家老の直江に書かせた。信長は音問を通じるという返事を認めた。

 そうこうするうちに、稲葉山城が、斎藤龍興の軍帥、竹中半兵衛によって落とされる。美濃三人衆のひとり安藤守就は半兵衛の舅で、協力した? 意味がわからない。信長はその城を貰い受けようとしたが、半兵衛は竜興に城を返す(?!)。

 坪内喜太郎について: 宇留摩城主、大沢次郎左衛門の助命嘆願。藤吉郎、自ら人質となり、信長に聞き届けさせるという役目を喜太郎に託した。

 

 待ちに待った客: 稲葉山城は難しい。信長は川並衆と昵懇の藤吉郎をあてにして、加納表に城を築かせる。

 一方、甲斐の武田信玄とも音問を通じさせている。

 京では1565年、将軍足利義輝が三好三人衆に弑虐されるという事件が起きた。その弟、覚慶について: 三好衆に狙われるも、幕臣細川藤孝(後の幽斎)によって救出されて甲賀の和田維盛のもとに匿われ、足利家を再興せよという親書を手当たり次第に送った。信長はこれに応じることとする。その留守の間、美濃に矢留め[休戦]を申し出て油断させようとするが、そうはいかない。

 一方、墨俣に大掛かりな砦を築くこととし、藤吉郎に命じ、藤吉郎は蜂須賀小六に頼る。小六は藤吉郎の家来となって"一夜城"を築く。(山内一豊もやはり藤吉郎に仕えたようである。)

 還俗して義昭となった覚慶は信長を急かせるも、六角に狙われ、逃げる。

 信長の側室、吉乃が正室として他界する。帰蝶についての消息なし。

 信長、古参の滝川一益に命じて北伊勢を併呑させる。

 稲葉山城は、美濃三人衆が降伏し、機が熟して落ちた。斎藤龍興は小舟に乗って長良川を下った。この城に信長は居城を移す。学問の師、禅僧の沢彦宗恩に相談し、城のある井口を岐阜(中国の岐山にちなむ)と改名し、「天下布武」という印章をつくる。

 一方、足利義昭は、越前の朝倉義景を頼る。だが義景は将軍を入洛させるという野心はなかった。義昭は敦賀金ヶ崎に留め置かれている。

 信長は、江北(北近江)の浅井長政との接近を考え、1568年、妹お市と結婚させる。その時期については1559〜1568年、諸説ある[茶々の生誕は1569年]。

 そんな時、伊賀守和田惟政が訪ねてくる。信長は公方様への執り成しを頼む。

 

 公方の胸中: 1567年、信長の長女五徳は家康の長男信康に嫁いだ。信玄は、今川義元亡き後の駿河を虎視眈々と狙っており、信長と接近し、姻戚関係を結んだ。信玄は家康にも声をかけた。信長は二月に北伊勢に侵攻、ほぼ制圧した。

 足利義昭は1567年秋、ようやく一乗谷に迎えられていたが、足利義栄(よしひで)が三好政権により第十四代征夷大将軍に担がれた(後に病死)と知り、焦るも、信長を頼りたくはなかった。一向宗を気にかけて朝倉義景は動かない。

 その頃、朝倉に仕えていた明智十兵衛光秀を、足利義昭との折衝に使おうと、信長はスカウトし、細川藤孝に手紙を書かせる。こうして義昭はしぶしぶ承諾し、岐阜の立政寺に迎えられる。そして1565年、上洛途上、六角承禎に手こずるが、浅井と松平も加わる。信長は木下藤吉郎に先手を命じた(観音寺城の戦い)。いよいよ義昭を奉じ、向かうところ敵なし、といった様子で京入りがなる。京での乱暴狼藉はなかった。

 松永久秀: 奈良で三好三人衆と戦い、信長に帰順し、大和一国を安堵された。九十九髪茄子を手土産としたことが知られる。

 義昭は、信長に副将軍か管領、どちらがよいかと打診する。ならば、草津・大津・堺に代官を置かせてもらいたいと答えた。京には奉行衆を残した。翌年、阿波衆(三好三人衆)が本圀寺にあった足利義昭を襲うという報せを受ける。襲撃は荒木村重らの活躍により防ぐことができた。信長、雪の中を四日にて急ぎ上洛、二条に御所造営を申し出て、「殿中御掟」に袖判(花押)をおさせる。数万の人足が御所造営に携わり、二か月で竣工した。

 その間、徳川家康は信玄と呼応し、掛川城を攻め、遠江を制圧した。

 信長は、北伊勢に侵攻し、北畠氏を破る。冬には上洛して将軍に戦勝を報告する。

 イエズス会士(ルイス・フロイス)が布教の許可を求めると快諾していたが、禁裏(正親町天皇[玉三郎がまぶたに浮かぶ])に禁じられたと再び言ってきたので気にするなと言った。将軍も禁裏も信長に負い目があった。信長の傀儡に甘んじようとしない公方様との連絡役として、信長は明智光秀を使うこととする。

 

 首のこと更に校量を知らず: 信長は、禁中修理、御所ご普請などと称して、大勢を京に集め、威を見せつけた。四月には越前侵攻を決めていた。1570年、織田・徳川連合軍は、敦賀の手筒山城での激戦を皮切りに、金ヶ崎城の朝倉景恒(かげつね)を降伏させる。朝倉軍が一旦、木の芽峠まで後退すると、織田・徳川連合軍は、木の芽峠を攻撃し、一乗谷まで進撃する算段であった。しかし、ここで浅井長政が反旗を翻し、向かっているという情報が入る。朝倉の気持ち。信長は退却を決めかねたが、家康が三十六計逃げるに如かず、と言い放つ。殿は藤吉郎と決まり、朽木越えとなる。

 信長が伊勢の千草を通って岐阜に戻ろうとしたところ、六角の手の者に銃撃を受けたが、無事であった。その間、朝倉景鏡は西美濃を踏み躙るが挑発には乗らなかった。六月、柴田勝家六角父子(義賢・義治)に攻められるも反撃(甕割り)。

 浅井長政の小谷城を攻撃: 虎御前山に陣を張り、城下に火をかけ、住民を斬殺させる。そこー家康参陣。姉川の戦いは乱戦模様。突然、浅井勢が崩れる。家康は朝倉勢を襲う。信長、右筆に戦況を書き記させ、細川兵部大輔藤孝へ送る。

 そして七月、信長は上洛し、戦勝報告をする。

 

 庚申の夜の戯れ歌: 三好三人衆がまた蜂起したと秀吉から報告が入ると、二万を率いて岐阜を発つ。

 大坂の石山本願寺の一向宗について: 三好衆は一向宗と組み、野田城・福島城で戦うことにする。信長は大坂に入る。足利義昭は信長を憎み、負ければよいと思っていたが、信長軍は四万に膨れ上がった。井楼から大鉄砲を打ち込む。鉄砲も三千あった。だが、本願寺側にも、雑賀衆の鈴木孫一がおり、鉄砲音は日夜響きわたり、風雨の中、形勢が狂う。信長は公方を使って休戦を申し入れることとする。

 琵琶湖西岸で、浅井・朝倉軍から宇佐山城を守っていた森可成[森蘭丸の父]が戦死し、弟信治も討死。その報に信長は撤退を決める。そして京に戻り、宇佐山城へ向かう。浅井・朝倉勢は、比叡山延暦寺へ逃げ込む。信長は焼き討ちの前に中立の立場をとるよう交渉したが、延暦寺側はこれを無視した。

 一方、石山本願寺では一揆が起きているとの報。十一月には尾張から、伊勢長島で一向一揆が起き、小木江城にあった弟の信興が攻め立てられて自害したとのこと。信長は坂井政尚に比叡山を任せるも、政尚は討死。朝倉側は、将軍に泣きつき、義昭は三井寺にて信長と会い、和睦するよう勧告した。双方その気になったと思ったものの、比叡山は和睦に反対!! 浅井も和睦に反対する。義昭は、山門を焼かないという誓書と綸旨をとりつけるからと押し切った(1570年1月)。信長は誓書を書きつつ、庚申の夜の戯れのようなものだと嘯いた。

 

 必勝の妙案: 1571年、伊勢長島の一向一揆に向かわねばならぬが、信玄の動きが気になる。本願寺の顕如と姻戚であったし、家康との関係もあった。

 家康は、岡崎城から浜松城へと本拠を移し、上杉謙信と結び、信玄に手切れを通告した。となると、信玄と信長の同盟も破棄されたようなものである。

 木下藤吉郎は、佐和山城を兵糧攻めにした。磯野員昌は西近江に落ちた。

 そして、信玄動くの報。武田が高天神城を攻めたが、あっさりと兵を引き、次は西三河を攻めた。家康は持ち堪えた。

 松永久秀が畠山昭高を攻めたとの報が入る。何故? 

 荒木村重が和田惟政を敵とした? 畿内は危なかったが動けなかった。

 1571年9月、信長は比叡山延暦寺を焼き討ちし、数千人を斬らせた。

 ダンディーだったという松永久秀と多聞山城のこと[吉田鋼太郎がまぶたにうかぶ]。信長は多聞山城にインスピレーションを受けていた。

 そして、信玄のことを考え続け、墨俣城を見に行った。それはもう捨ててあり、土塁だけが残っている。信長は必勝の妙案を思いついた。(下巻に続く)