秦氏は、日本に養蚕や酒造をもたらし、平安京遷都に関わった帰化人、伏見稲荷の建立、聖徳太子のブレーンであった秦河勝、とても面白い存在である。メモる。

 

 まえがき: 著者の水谷千秋は、古代日本で最も多くの人口と分布を誇った氏族は秦氏だと言う。本拠地は山背国だが、日本列島各地に及ぶ。生産・経済力において抜きん出た存在ながら、政治の表舞台に出たことは少ない。桓武天皇による長岡京および平安京遷都に大きな役割を果たした。つまり、都を自らの本拠地に招聘した。

 秦大津父(おおつち): 6世紀半ば頃、欽明天皇が即位する前、秦大津父という者を取り立てれば天下をおさめるようになるという夢のお告げがあり、その人を深草に見出し登用したところ、富が増えたので、践祚に際して大蔵の官司に任じた。

   

 

 第1章 弓月君の渡来伝説: 『古事記』『日本書紀』によれば、応神天皇[神功皇后の子、15代天皇、5世紀前半か]の頃、秦氏は、漢(あや)氏など、他の多くの氏族とともに朝鮮半島から倭国に帰化した。弓月君(= 融通王)が百済の百二十の県(こおり)から多くの人を連れて移住してきたとあるが、これが秦氏の祖先だとはどこにも書かれていない。

 平安時代初期の『新撰姓氏録』には、太秦公(うずまさのきみ)宿禰は、秦始皇帝[前3世紀、中国北西部、甘粛省の出身]の子孫だとしている。

 秦氏の名前は、養蚕・機織のハタに由来するなど、多くの可能性がある。秦氏と漢氏がともに、中国王朝名を名乗っている点は軽視できない。少なくとも彼らが中国系の移民であったことが推測される。朝鮮半島の東側、辰韓地方には、中国の重税を逃れて移住したという人がいたと『三国志』魏書辰韓伝にある。

 倭漢氏は、軍事・土木・建設、須恵器製造、武具製作などの技術に優れていた。秦氏は土豪的性格が濃厚であった。

 『隋書』倭人伝にある秦王国がどこかは不明[大分あたりか、播磨あたりか?]。『新撰姓氏録』には、秦氏は宝物を天皇に献上し、当初、大和国の葛城に定住したとある。5世紀後半には、山背国に移り、古墳を築くようになった。鴨(賀茂)氏も日向に天下り、神武天皇とともに東遷し、葛城山を経て、山背国へ至った。これらの移動は、葛城氏衰退に伴うという考えがある。

 

 第2章 秦酒公と秦大津父: 秦氏一族は、養蚕・織絹をして朝廷に貢いでいたという伝承がある。『日本書紀』には、雄略天皇の15〜16年[5世紀半ば]に秦酒公(さけのきみ)の名が見えるが、これが事実上の初代であろう。公は百八十種の勝(帰化人の氏)を統率し、庸・調の絹をたくさん奉献し、ウズマサという姓(かばね)を与えられた(異論あり)。朝廷は新たな大蔵をつくり、その検校を蘇我氏に、その出納を秦氏に、記録を倭漢(やまとのあや)氏と西文(かわちのふみ)氏に担当させた。

 大酒神社: 太秦の広隆寺の東側にある小さな神社。これが桂川の土木工事のサケ(裂け)に関わるかは不明。秦始皇帝、弓月王、秦酒公、を主祭神とする。

 秦氏は、葛城から山背国の嵯峨野と深草古墳群のあたりに移住し、稲荷山は秦氏の神体山となった。伏見稲荷神社の伝承。秦大津父が深草から馬に乗って伊勢にまで商売していたものとは? 今昔物語にある水銀か? 伊勢は水銀(仏像の鍍金に不可欠)の産地であった。あるいは塩か? 馬か[5世紀前半に導入された]? 寝屋川市内には太秦高塚古墳があり、渡来系の遺物が見つかっている。

 『新撰姓氏録』によれば、秦氏の戸数は7053戸、1戸25人とすると、17万人以上になり、当時の人口の約5%となる。秦大津父はそれらの秦氏の伴造(諸集団の首長)に任命されたという記述もある。

 

 第3章 秦河勝と聖徳太子: 嵐山の大井神社について: 秦氏の大堰川治水灌漑事業に因む。葛野大堰の造成。秦氏の奉斎する松尾大社について: 一帯には5世紀後半にさかのぼる秦氏の古墳も多かった。この時代を代表する秦氏の人物が秦河勝、川に勝った人である。『日本書紀』には、聖徳太子から仏像(半跏思惟像?泣き弥勒?)を賜り、蜂岡寺を建立し、新羅・任那の使者を接待し、大生部多(おおふべのおお)の常世神信仰を打破した。秦河勝は、『聖徳太子伝暦』などに、小徳という高い地位[冠位十二階の二番目]にあったとある。蛇塚古墳がこの人の墓ではないか?

 

 第4章 大化改新後の秦氏: 斑鳩にいた聖徳太子の長男、山背大兄王(山背国で養育された?)は蘇我入鹿に襲撃され、生駒山に隠れるも斑鳩に戻り滅ぼされた。その時、深草の秦氏は動かなかった。おそらく秦河勝は他界していたのであろう。645年に大化の改新: 中大兄皇子は、中臣鎌足らとともに大化の改新を断行、難波に遷都。

 壬申の乱では、秦氏も倭漢氏も、大海人側、大友側、両方に分かれて敵味方として参戦している。勝って672年、天武天皇となった大海人皇子(天智天皇の弟)は律令国家を成立させた。天武12年、秦氏は連という姓を名のり、その2年後、忌寸(いみき)[八色の姓の4番目]を名のるようになった。

 『懐風藻』[奈良時代の漢詩集]には、秦氏出身の釈弁正の歌がある。この人は遣唐使として唐に入り、玄宗皇帝と親しくなるも客死するが。弟の朝元が帰国する。この人の娘が、藤原種継の生母となるのである。828年に作成された葛野郡班田図によれば、114人中82人が秦氏である。山背国は渡来人が多く定住していた。

 

 第5章 増殖する秦氏 — 摂津・播磨・豊後・若狭: 大阪府池田市は古代には秦上郷と秦下郷と呼ばれていたことは、摂津に秦氏がいたことを示している。猪名川の水利と杉材のゆえであろう。

 能楽の大成者、世阿弥は『風姿花伝』の中で、本名を秦元清といい、申楽の始まりは天岩戸神話にあるとしている。欽明天皇の時代(6世紀頃)に泊瀬川に流れてきた壺の中に子供がおり、それが成人して大臣となり、秦と名のったと伝え、能楽の創始者は秦河勝だとしているのである。この人は死後、難波浦からうつぼ舟に乗り、播磨国越坂浦に至り、人々はこれを大荒大明神として大避神社に祀った。秦河勝の墓が播磨にあるとか、秦王国は播磨かなど。赤穂には大泊鉱山があり、金が採れたという。

 『隋書』倭人伝にある秦王国はどこか? 筑紫国の東側にあったとなると、豊前・豊後あたりか? その一帯に秦氏が多く定住していたことは、秦部、勝姓を名のる人名の割合が半分以上であることからも明らかである。豊前の宇佐八幡宮と、田川郡の辛国息長大姫大目命神社があり、後者の建つ香春岳では銅が採れた。

 八幡神の成立について: 聖武天皇の大仏造立と、秦氏の銅生産が関わり、応神天皇の霊が付与され、749年、東大寺の盧舎那仏の賓客として駆けつけたのが始まり。

 秦氏は、越前、若狭にも多く分布していた。

 

 第6章 長岡京・平安京建都の功労者: これに秦氏は隠然たる影響を及ぼした。白壁王の息子、山部親王は781年に天皇となる。その4年目に長岡京へ(早良親王の怨霊に悩まされ)、10年後に平安京へ遷都がなる。785年、その造営の中心的人物、藤原種継(秦朝元の娘が母、光仁天皇擁立と山部親王立太子を推進した藤原百川の甥)が矢で射殺された。土地を視察した藤原小黒麻呂もやはり秦氏の姻族であった。

 桓武天皇の母は、高野新笠[百済の武寧王の子孫とされる? もとの名は和新笠]であり、おそらく山背地で出生し、成長したと思われる[百済は唐と新羅によって660年に滅ぼされ、白村江の敗戦後、百済王の子孫は倭国に亡命移住した]。

 大内裏は、秦河勝の邸があったところだと、村上天皇(10世紀)の日記にある。

 桓武朝では、渡来系豪族が異例の抜擢と寵愛を受けた。

 桓武天皇は百済王明信(藤原継縄の妻)を溺愛し、尚侍(ないしのかみ)として信任した。そして二十七人の妃のうち、多くが渡来系の女性であった。嵯峨天皇は、桓武天皇の賀美能親王で、生母は藤原乙牟漏、乳母は大秦公忌寸浜刀自女であり、乳母には賀美能宿禰という姓が与えられた。

 883年には、明法学者秦公直本が惟宗という姓を賜り、五代の天皇に仕えた。彼は讃岐出身の秦氏であった。薩摩の島津氏は、この惟宗氏の子孫である。

 

 第7章 大陸の神・列島の神: 秦氏は先住民である和人との融和を重視した。伏見稲荷、松尾大社、月読神社、蚕の社などの神社を奉献し、広隆寺などの仏教寺院も多く建立している。松尾大社には、大山昨(おおやまくい)神を祀り、山の神、雷神を祀っている。

 鴨氏(賀茂氏)と秦氏は姻戚関係を結んでいる。賀茂氏について。

 伏見稲荷について: 8世紀、宇迦之御魂神(食べ物の神)を祀っていた。

 大陸から持ち込んだ韓神を祀る園神社、韓神社もあった。秦氏の祖霊神か?

 百済聖明王が今木大神か?

 

 第8章 秦氏とは何か: 中国の秦の遺民と称する人々を中心に、新羅・百済など、朝鮮半島各地の人々を含む人々で、帰化した人口は約17万人、日本の約5%を占めていたことになる。彼らは山背国に定住し、様々な産業・商業を展開した。宗教観は共存共栄を旨とし、現実的で合理的であった。彼らの経済的基盤はひじょうに強かった。官僚としての能力もあったが、政治とは距離を置いていた。

 このような帰化人の血を引く桓武天皇は、彼らの本拠地である山背国への遷都を行った。

 

 秦氏、桓武天皇、平安京遷都、実に面白い。今、この時代に帰化した人々は古墳人と呼ばれ、DNAの検査によって、中央アジアとの関連も指摘されている。また何か読んでみたいと思った。

 

 

 ▼昔読んだ本を思い出した。