まあ、イタリア人観光客も戻りつつあることだし、改めて日本史のお勉強をした感じである。平安京遷都には帰化人の秦氏が関わっていたことは知っていたが、その背景がとてもよくわかった。先日、たまたま皇居の内堀沿いを歩いていて、和気清麻呂像を見たことも思い出された。しばしば仕事で訪れる清水寺の田村堂のことも、坂上田村麻呂のところで思い出した。秦氏のことが気にかかるので、そのうちにまた何か本を読んでみよう。藤原氏についての馳星周の小説を読んでいたので、人間関係は比較的わかりやすかった。それにしても当時の政界は藤原だらけですね。メモる。

 

 序章 百済の里: 桓武天皇の父の話。甘南備山を馬で越えようとしているのは、天智天皇の子、志貴皇子の子、白壁王(しらかべのおおきみ)である。その峠から山背国の盆地が見える。その中央の葛野では渡来人の秦一族が養蚕などで財を成していた。白壁王はここで百済王(くだらのこにきし)の一族を率いる敬福(きょうふく)に招かれ、交野に入り、敬福の養女、和新笠(やまとのにいがさ)より子が欲しいと言われる。翌年、彼女は女児、能登女王(のとのおおきみ)を、四年後(737年)に男子を産んだ。山部王(やまべのおおきみ)、後の桓武天皇である。この年、天然痘の流行により、藤原四兄弟が他界する。聖武天皇は病弱で、皇女の阿倍内親王を皇太子とする。彼女は749年に即位する。752年、その姉、井上(いがみ)内親王は、伊勢の斎宮にあったが退下して白壁王の妃とされる。哀れ、白壁王は酒浸りの日々を続ける。

 

 第一章 大仏開眼: 葛野の郊外南西には長岡という地があり、平地は乙訓と呼ばれており、その北側の大枝(おおえ)に土師(はじ)一族が住んでいた。山部王は、ここにある母の実家で生まれた。土師氏は出雲系で、埴輪の創始者、野見宿禰の子孫である。この土師氏より出た菅原氏、大江氏は文章博士を世襲する学者肌であり、儒学などの漢籍に明るかった。山部王は、従兄弟の和家麻呂から武術と鷹狩を学ぶ。

 ある日、山部王は家麻呂と太秦を訪ねる。秦河勝と蜂丘寺(広隆寺)秦酒公について。そこで藤原種継に会う。母は秦朝元の娘であり、彼は太秦で育ったという。山部王は秦氏の館に招かれ、秦の酒をふるまわれ、藤原式家と北家の小黒麻呂、秦一族は山部王を支持すると言われる。

 交野に戻ると、敬福の孫娘で幼なじみの明信が出迎える。鷹狩の後、百済王敬福と酒を酌み交わす。敬福は大仏のために陸奥の黄金を献上していた。銅の採掘も渡来人の技術と渡来人の八幡神信仰[八幡神はもともと渡来人の神]によるものであった。秦氏は山背に加茂神社を、九州の銅採掘所と豊前の宇佐には八幡宮に自分たちの神を勧請していた。治水や開墾を行い、東大寺建立の責任者として朝廷に招聘された行基もやはり渡来人の末裔だと言われていた。生駒山の麓の弓削という地は物部氏の本拠地であったが、今は西漢(かわちのあや)と呼ばれる渡来人の集落となっている。このような渡来人の血が山部王には流れているのである。

 752年、大仏開眼の法会が行なわれた。銅13万貫、金100貫、水銀600貫を要した。聖武天皇は、天智天皇の呪い、そして長屋王の呪いを恐れていた。これらを祓うために聖武天皇は東大寺の大仏、毘盧遮那如来にすがったのである。それに列席する人々について: 神王(みわのおおきみ)、壱志濃王(いちしのおおきみ)、光明皇太后、孝謙天皇、南家仲麻呂、市原王(山部王の姉の夫)、道鏡など。その夜、山部王は父の館に招かれ、井上内親王に会う。大枝への帰途、交野に立ち寄り、明信を妻にしたいと敬福に請うと、婚姻とは一族と一族を結ぶものであり、明信は南家の継縄(つぐただ)に嫁ぐことが決まっていると言われる。

 

 第二章 紫微内相: 754年、遣唐船が鑑真と吉備真備を乗せて戻る。756年には聖武上皇が薨去し、翌年には左大臣橘諸兄も没した。仲麻呂は紫微内相を設置して、自ら就任、軍事総帥権をも手にし、田村邸に光明皇太后と孝謙女帝を移し、私的な会合を禁じるなど、独裁体制を整える。

 山部王は、藤原種継の招きを受ける。場所は葛野にある秦朝元の館。北家の小黒麻呂、式家の百川、南家の乙縄(おとただ)などがいる。仲麻呂を排す計画の首謀者は橘奈良麻呂かもしれないが明かされていない。式家良継と、京家浜成も立つという。秦朝元は、聖王の出現を待望していると言う。そこにいた和気清麻呂という陰陽道に通じた若者が、山部王の背後に破軍星(天帝の守護星)が輝いていると告げる。

 その翌日、山部王は平城京に赴き、弟の早良王を連れ出し、姉の能登女王を訪ねる。彼女は仲麻呂の専横が敵意を招き、その配下である夫、市原王に害が及ばぬかと心配している。その帰途、兄弟は仲麻呂の牛車と出会い、謀反に加担せぬよう釘を刺される。東大寺の羂索堂の前で道鏡に会う。道鏡は、宮子夫人の病を癒したのは玄昉ではなく自分だと言う。

 それから山部王は、藤原永手をも訪ねる。彼は、正義を貫いて人を動かすには時がかかる、そなたらの企ては既に仲麻呂の知るところとなっている、時が来れば私はそなたを支援する、と言う。そこに永手の弟、真楯も現われる。大伴家持の話がでる。謀反の嫌疑をかけられ、救いを求めてきたのである。この歌人は、山部王の父、志貴皇子の歌を唱えた。永手は彼をずる賢い奴とつぶやく。

 次に山部王は父白壁王の館を訪ねる。井上内親王と父の間にできた酒人女王と会う(後に桓武天皇の后となる)。

 橘奈良麻呂の乱は未然に鎮圧され、南家乙縄が捕縛されて日向に配流となり、その父豊成は太宰府員外帥(いんげのそち: 長官補佐)に左遷となったが、難波に謹慎することとなる。

 758年、仲麻呂は太保(=右大臣)となり、恵美押勝と改名する。孝謙女帝は退位して上皇となり、大炊王が淳仁天皇となる。なお、この年、唐では安禄山による安史の乱が起こり、玄宗皇帝が倒れる。

 

 第三章 女帝と道鏡: 葛野の式家種継が山部王を訪ねてきて、太宰府と吉備真備の様子を語る。唐に内乱が起きたので、新羅の侵略に備える必要があった。

 761年、山部王も他の皇族とともに太宰府に入り、真備の軍学講義を受ける。この年、父と井上内親王に男子、他戸王が生まれた。光明皇后が薨じ、天皇と上皇は近江の保良宮の新しい宮に移された。真備の講義は明晰で分かりやすく、実地訓練や建設作業もさせられた。真備は山部王を館に招き、儒学の重要性を説き、道鏡について話す。真備は、この道鏡により太上天皇(退位した孝謙女帝)を治療させたいと言う。

 畿内に戻った山部王は大枝の船着場で和気清麻呂に出迎えられ、旅装も解かずに保良宮へと案内される。そこには清麻呂の姉広虫がおり、物の怪が憑いて牢に閉じ込められた上皇の世話をしていた。翌日、山部王は平城京に向かい、二月堂で道鏡に会う。道鏡は、これから修行して春に治療すると言う。

 その帰途、父を訪ねる。禁酒令にかかわらず、父は酩酊している。他戸王に会うが、父は内親王を妃としながら一度も肌に触れていないと言う。

 翌762年、新羅に対する防衛の陣容は整ったが軍資金は不足しており、国内経済は不況に陥り、天候不順がそれに追い打ちをかけていた。

 

 第四章 明信との再会: 道鏡は保良宮で山部王と会っている。道鏡は、王の祖父、志貴皇子は自分の父だと告げる。自分が行基の弟子となり、呪術を極めた経緯も語ると、孝謙上皇を治す。五月に上皇は平城京に戻り、隅寺(法華寺)で出家すると、天皇も太政官も無視して、宣旨を発し始めた。今や、上皇と東大寺は、恵美押勝(仲麻呂)の独裁を脅かしていた。

 山部王はそのような動きには関わっていなかったが、ある日、秦朝元の館で藤原継縄(つぐただ)に会った。明信の夫である。彼の館に招かれ、式家の良継百川に会う。良継は、山部王のようなお方を聖王をとして仰ぐことができれば、ともらす。

 数日後、山部王は葛野に継縄を訪ね、明信と再会する。彼女は、百済王敬福は、民に平安と幸いをもたらすことならば理解するだろうと言う。その後日、山部王は敬福に会い、山部王に従う、と言わしめる。

 ほどなく、大伴家持、石上宅嗣佐伯今毛人が謀反の疑いで捕縛され、一族の罪を良継が一人で被った。

 翌764年、吉備真備が造東大寺司長官に任じられ、ついに帰京する。ただちに孝謙上皇を訪ね、勅旨省の設置が戦略の第一歩だと告げる。

 

 第五章 宇佐八幡の信託: 山部王は姉の能登女王を訪ねる。夫の市原王は仲麻呂の配下であり、戦が始まった時のことを考えて心配したのである。その門の前で、恵美押勝の館、田村第に連れ込まれ、家主に迎えられる。

 仲麻呂は身の危険を感じており、兵を集めていた。上皇に対する反乱を起こすことが陰陽師の上奏により発覚する。天皇の権威を示す鈴印を恵美押勝は持っていたが、それは真備側の策により山村王が上皇の詔使として引き取りに行く。これに抵抗した仲麻呂側は逆賊として討たれる。後は、真備の作戦どおり、琵琶湖の西岸沿いに愛発の関を目指した仲麻呂が討ち果たされる。

 淳仁天皇は廃され、孝謙上皇が重祚して称徳天皇となり、仲麻呂追討に加わった貴族たちは位階を新たにした。山部王は、二十八歳にして従五位下に叙せられる。蟄居していた豊成は右大臣に復す。永手が大納言に、道鏡は大臣禅帥を経て法王となる。

 道鏡の独裁が始まる。山部王は大学頭に任ぜられ、儒学を講義する。永手が左大臣に、吉備真備は右大臣に。山部王、交野の地に百済王敬福を訪ねる。陸奥の蝦夷をいかにして平定したかと尋ねると、自分たちも渡来人なので、夷狄とみなすのではなく、親しみといたわりで接し、帰順を促したのだと言う。そして、彼の孫娘、恵信を引き合わせる。

 称徳女帝の異母妹が女帝を呪詛した廉で流刑となり、道鏡を天位に、という宇佐八幡の神託が太宰の神官、道鏡の弟、弓削浄人より上奏される。百川は、陰陽道を学んだ和気清麻呂をして、直接八幡神の神託を受けさせるべきだと提言し、いずれ山部王の時代が来るだろうと言うと、種継もうなずいた。百川は弓削浄人の補佐役であり、その進言は受け入れられた。

 

 第六章 立太子: 和気清麻呂の得た神託は「臣をもって君となすこと、いまだかつてあらざるなり、天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の者はすみやかに掃い除くべし」というものであった。女帝は怒り、清麻呂と姉の広虫を備後[現広島県東部]に流罪とする。

 770年春、由義宮とその周辺で宴が催され、それに参加していた女帝はにわかに病を得る。百川が毒を盛ったか? 典蔵の吉備由利から勅旨が伝えられ、近衞、外衛、左右兵衛の統帥権が永手に委ねられる。女帝の不予により戒厳令が布かれる。この初夏、清麻呂の予言どおり、北斗七星の中を彗星がよぎる。

 交野のあった山部王のもとに道鏡が現われ、次はおぬしの時代が来る、だが百川や種継のような野心家を制することができねばただの傀儡だ、おぬしの敵は藤原一族だ、と告げ、去っていった。

 八月、女帝が薨去し、永手らは、将来の皇嗣として山部王を念頭に、白壁王を即位させた(光仁天皇)[ずっと天武系が続いていたのに、遂に天智系の天皇である]。和気清麻呂と姉が召喚され、他戸親王が皇太子となる。種継には薬子という娘がおり、山部親王の妃にという話がでたことがあったが、種継との距離を置きたい山部親王は拒否したことがあった。異母弟の稗田親王について。

 山部親王はまだ妻帯していなかったが、交野と、藤原是公の館、田村第に通っていた。山部親王は藤原是公を兄のように慕っており、その娘吉子のもとに通っていたのである(後に伊予親王を産む)。

 772年、井上内親王が光仁天皇を呪詛したとして廃后となり、他戸親王は廃太子となり、山中に幽閉される。翌773年、山部親王が立太子。是公が東宮大夫に。藤原良継の家に招かれ、帝王には妃が必要、わが娘を、と言われた。乙牟漏である。

 777年、その良継が没し、779年、百川が病に倒れる。見舞った山部皇太子に百川は娘の旅子を娶ってほしいと言う。
 一方、旧貴族は大伴家持をはじめ、勢力を伸ばしていた。天武系の血筋である氷上川継の動きも気になった。
 山部親王は、式家種継の邸に招かれる。葛野に来るのは久しぶりであった。太秦の弥勒菩薩に詣でる。種継の館には、坂上刈田麻呂(坂上田村麻呂の父)、津真道朝原道永紀船守が親王を待ち受けていた。親王の側近候補として集められたのである。豊前守を務め、種継の配下となっていた和気清麻呂も控えていた。山部親王は、聖王になりたいが、自分は無力であり、無理をすれば内乱が起きる、と話す。なにすべきことはと問うと、清麻呂は、天皇に譲位を促すこと、遷都すること、東国を平定すること、と答えた。遷都の地について、道永は、葛野の地こそ、四神相応の理想の地だと言う。清麻呂は、遷都は四年後、甲子革令の年、朔旦冬至の吉日を逸することなかれと言う。そして、葛野ではなく、乙訓に、と[長岡京]。資材は、難波宮を解体して川で移送すればよいということになる。

 

 第七章 甲子革令: 山部親王は光仁天皇に譲位を願う。天皇はその条件として、早良親王を還俗させて皇太弟とすること、そして酒人内親王を後宮に引き取ること(後に朝原内親王を産む)。

 山部親王、大和国高野山陵に母の新笠を訪ね、皇位継承と、弟の立太子について伝える。その親族の土師一族には、乙訓には大江(大枝)姓を、大和には菅原姓を賜る。大江匡房、菅原道真ら、両家とも儒学の大家を輩出することとなる。

 さらに、羂索堂に弟を訪ね、拒む早良親王を説得する。そして781年4月、桓武天皇として即位した。皇后は乙牟漏となる(平城天皇、嵯峨天皇を産む)。夫人の吉子は伊予親王を、旅子は淳和天皇を産む。以後、姻族となった一族の専横を防ぐべく、桓武天皇は多くの室をもつこととなる。

 その年の十二月、光仁上皇が薨じる。翌年の正月の服喪期間、天皇襲撃事件が起きる。側近が捕らえた刺客は氷上川継の従者であり、川継は遠流に処された。側近の種継は謀反の加担者を悉く捕縛すべしと唱えたが、穏健派の意見が勝り、天皇自らが首謀者とおぼしき大伴家持を詮議することとなる。そして加担者三十数人が首都から追放される。早良親王はこれに異を唱え、種継の動きを批判する。早良親王は遷都についても反論するが、桓武天皇は怯まない。天皇は、南家是公、藤原継縄という温厚な儒学者二人を台閣に据え、交野で鷹狩を楽しむ。

 

 第八章 長岡京: 784年、大伴家持が時節征東将軍として陸奥国に赴任させられる。それを提言したのは種継で、この人事は言わば流刑であった。このように旧貴族の憤りを醸すのは危険なことであったが、天皇はその能力を評価していた。

 住吉神社の神託: 同年五月、難波津の市から二万匹の蝦蟇が四天王寺の境内に入った。この奇瑞は遷都を促す天の啓示とされる。この神託を伝えた摂津職大夫は和気清麻呂であった。種継は、予定どおり、朔旦冬至の吉日に遷都を断行すると述べるが、警備が手薄なので危険だと紀古佐美が言う。陰陽師の朝原道永は、長岡は地相は、西に大道なく、万全ではないと言う。種継は、敵である旧貴族に先制攻撃を仕掛けるべく、東宮を廃すべきだと言う。天智天皇は皇太弟を討つべきであった、とも言う。

 危険を承知で粛々と遷都決行。785年正月、朝賀の儀。夏に家持が他界。和気清麻呂は、天皇に平城京に戻り、朝原内親王を斎の巫女として伊勢に送り出さねばならないと告げていた。九月、その留守の間に、種継が何者かに矢を射かけられて絶命。大伴継人が首謀者であると自白して処刑され、一族が捕縛され、早良親王は乙訓寺に幽閉され、絶食して抵抗したため、淡路への配流の途上、絶命する(祟りが恐れられ、後々805年、八島陵に崇道天皇として改葬される)。

 皇后の産んだ安殿親王が立太子(是公の孫である伊予親王が皇太子になると旧貴族や北家、式家の妬み嫉みを買うため)。藤原北家の内麻呂という官吏について: 妻の永継を後宮に女嬬として出仕させ、後に皇子を産む。

 桓武天皇、葛野の継縄邸に招かれ、葛野を馬で駆ける。それは四神相応の地であった。天皇は和気清麻呂に遷都を促されたような気がした。

 

 終章 千年の都: 793年、葛野の地を視察させ、壱志濃王を使者として上賀茂神社、下鴨神社に遷都を奉告し、天皇もしばしば巡幸し、菅野真道を造宮使とする。その上官は民部卿の和気清麻呂である。葛野に広大な桑畑や酒造関係の施設を持つ秦氏の協力を得るため、藤原北家葛野麻呂がもう一人の造宮使に選ばれる。

 794年秋、辛酉革命の日に天皇は新京に移った。山背を山城と表記し、都城を平安京と呼ぶという詔を発す。百済王俊哲坂上田村麻呂による征東軍も派遣する。蝦夷の英雄阿弖流爲を連れて凱旋し、捕虜の助命を乞うたが叶えられなかった。

 台閣の筆頭となった南家継縄は795年、病に倒れる。彼は天皇に明信を返すと言い、明信は尚侍(ないしのかみ)となり、後宮の長官として、天皇の側近となった。

 だが征夷軍と新京造営のために民は疲弊し、財政も破綻しそうであった。天皇は和気清麻呂に、行基のような聖を探してほしいと求める。最澄が挙げられる。その最澄は遣唐船を出してほしいと希望する。台閣の右大臣と大納言も納得する。

 和気清麻呂の息子、広世と真綱が、空海という修験者が遣唐船に乗せろと騒いでいると奉告してくる。この者に天皇は興味を覚える。伊予親王によれば、恐ろしいほどに聡明で漢語も操るという。天皇の前に召し出された空海は、唐で密教の極意を学びたいと言う。渡唐が許された。(だが空海が帰国した時にはもう桓武天皇はもう在命してはいないこととなる。)

 安殿親王は病弱で性格も陰気で我儘であり、東宮坊の年増の女官(後々起こる薬子の変の薬子)と問題を起こしたことがあり、天皇の悩みの種であった。

 803年、神泉苑で遣唐船のための宴が催された。大使は北家葛野麻呂。留学生の中には橘逸勢、最澄らがいた。空海は得度も受けておらず、受戒せねばならぬため、出発には間に合わなさそうであったが、嵐で出発が遅れ、間に合うことになった。

 徳政総論: 天皇は、平安京の建設と陸奥の平定について、参議の藤原緒嗣と菅野真道に討論させ、内麻呂に判定を委ねる。「天下の苦しむところは軍事と造作なり。両事を停むれば百姓安んぜん」という緒嗣の言葉は記録にも残されている。天皇は落涙し、翌806年、崩御した。桓武は、『史記』にある聖王の範とされた周朝の始祖「桓々たり武王(勇ましい武王)」にちなむとのこと。