4月のスルーツアーで京都まで遠征することになった。前から色々と気になっていた足利氏について何か読んでみようと思った。この本は、過去の研究者の意見をもとにした研究書であり、筆者がいかに多くの研究書を読んだかを知り、足利氏の何たるかを理解することはできたが、小説ではないので、時代や人物を具体的にイメージすることはあまりできなかった。まるで大学生の卒論のよう。せっかくだからメモるが、今度はもっと素人向けの本をさがしてみようと思った。

 

 なぜ、足利氏は続いたか—プロローグ: 室町時代(足利尊氏が「建武式目」を制定した1336年〜応仁の乱の起きた1568年)から戦国時代(15世紀後半、応仁の乱〜大阪夏の陣の1615年/ あるいは足利幕府が滅亡した1573年)にかけて、大名の中心に位置していた足利将軍家は、とびぬけて有力ではなかったが、無力でもなかった。大名は将軍のいうことを聞く必要はなかったが、武家が必要・不可欠だと認めたので存続できたのである。それは、共通利益と共通価値である。前者は、将軍は利用するメリットがあったから、後者は、将軍家を滅ぼす発想がなかったから。武家の間にあった、足利氏を武家の王とする秩序意識がどのように成立し、維持され、崩壊したか、を見て行く。

 

 共通利益と共通価値: 戦国大名は、日本から離脱・独立する道を選択せず、足利氏を頂点とする「日本の統合」を維持した。国家は、力・利益・価値の三要素から成立している。力=軍事力、利益=相互ウィンウィンの関係、国家と各共同体を結びつけている常識=価値。秩序の維持は、①権力、②利害の一致、③共有価値による。国際秩序の安定のためにもこの三要素は重要である。

 大名たちにとって、将軍は諸問題、とりわけ対外的・対内的な問題に対処するうえで利用価値があった、と山田康弘の『戦国時代の足利将軍』では述べられている。つまり幕府には、内外諸問題を解決する幕府法という司法のプロがいたのだ。しかも将軍との良好な関係を維持することは大名たちにとってメリットがあった。かくして、日本には、割拠する戦国大名の間に、将軍を中心としたゆるやかなまとまりがあった。中世後期には、足利氏を武家の頂点とする考えが常識であった。

 戦国大名と将軍の間にあった共通価値は何か: 足利氏が武家の最高の貴種だということである。

 中世後期の日本は、京都の将軍(足利氏)の西国と関東の公方(足利氏)の東国に分かれていた。関東の公方の存在は忘れられがちであるが、足利的秩序にとって、その存在は重要であった。中世後期の武家社会には、足利氏を頂点として、その血を引く人々は特別な存在であるという思想・秩序・価値観が存在した。足利将軍の権威を成り立たせていたのは、支配者・被支配者双方の価値観の共有であった。

 

 足利絶対観の形成: そのような価値観はどのように創出され、受容されていったのか? それは足利氏の武力とイデオロギーによるたゆまぬ努力の賜物であった。

 鎌倉期には源氏将軍10人が150年ちかくも君臨しており、足利氏は、北条氏に次ぐとはいえ、その御家人にすぎなかった。足利氏が「武家の王」へと変化するには、まずは武力、そして「源氏嫡流」というイデオロギー工作・宣伝による別格化、正統化の努力が必要であった。

 南北朝時代(1336〜1392年)はまだ、足利氏の天下は自明ではなかったが、それは14世紀末、足利義満の時に明らかになる。これ以降、足利氏に対する反乱・戦争に際してはそれぞれ別の足利氏を奉じる動きがでてくる。つまり、頂点としての足利氏は武家にとっての前提となったのである。あるいは戦国期には、結城氏のように、源氏、源頼朝の末裔だと宣伝する者も現われた。

 足利将軍は、対面儀礼、書札礼などの儀礼をくり返すことにより、将軍と大名の主従関係を確認、可視化させていった。

 

 確立する足利的秩序: 足利一門とは、吉良氏、山名氏、新田氏、吉見氏、である。上杉氏は縁戚関係を結んでいるが、一門ではない。身分制社会では、生まれが決定的にものをいう。新田氏が足利一門ではないとする見方は、フィクションである『太平記』の、新田と足利を分けて、ともに源家嫡流とする文学的粉飾に由来している。

 室町期、武家御旗を将軍から与えられるのは足利一門に限られていた。名書の下に殿文字をつけるのも足利一門のみであった。この秩序意識は武家間に共有されていた。源頼朝の末裔を名乗ったのは、結城氏のほかに島津氏がいた。

 

 なぜ、足利氏は滅びたか: 16世紀中葉、足利氏を頂点とし、その一門を上位とする価値観が揺らぐ。三好氏も織田氏も、足利氏を擁立することなく、新体制を構築し、羽柴秀吉に至って足利氏の時代は終わりを告げた。その理由は下剋上にあるのか? 

 具体的に見ると、将軍家は応仁・文明の乱において、大和国人の越智氏を和泉守護にしたり、細川氏被官の安冨氏を近江守護にするなど、実力があればいかなる出自の者でも守護になれるという例をつくり、将軍自身が身分の壁を壊してしまった。これが禁断の一歩であった、とする。この上から行われた実力主義への転換が、足利的秩序を瓦解させることになったのである。

 

 エピローグとして、著者は、足利幕府と室町幕府という呼称について考察している。それは明治大正期、足利尊氏を逆賊とする皇国史観の慣習のあらわれではないかという説を挙げている。さらに、中世・近世は、権力者の名前ではなく、政権所在地によるという提唱が受容されたともいう。つまり、鎌倉、室町、安土・桃山、江戸のように、と。

 ともあれ、徳川家も、清和源氏の流れをくむこととして、将軍に任じられたのであり、源氏将軍という血統重視の考え方は武家の間に根強かったのである。

 

 

 名高い座乱読のFさんによるマンガ『足利家の執事』