この構造主義 strutturalismo で知られる人類学者 antoropologo, etnologo, filosofo の日本に対する思いがつづられている本である。来日するイタリア人観光客をガイドすることを仕事としている私には刺さった。メモる。

 

 序文 (川田順造による): レヴィ=ストロース Claude Lévi-Strauss は幼少期、父にもらった広重の版画から日本文化への興味をふくらませたとある。『悲しき熱帯』の序文によれば、日本文化の教訓とは、現在に生きるためには過去を憎んだり破壊したりする必要はなく、自然への愛や尊敬を保ちつつ文化をつくることができるということ、そして、この地球は人類の一過性の住居なのだから、それを損傷する権利は人間にはない、ということである。レヴィ=ストロースは2009年に他界している。

 

 世界における日本文化の位置: 1988年、京都の国際日本文化センターにおけるスピーチである。初来日は1977年とある。文化はその本質からして、共通の尺度で測ることはできず、そこで生まれ育った者でなければ、それを語る資格はない。人類学者はそのジレンマと限界を常に抱えている。日本音楽はしかし、西洋音楽で育った彼を虜にした。その理由は、日本の音階は極東のどの音楽にも似ていないからだとのこと。ある文化を外から考察する者は間違いを犯すことがある。それでも人類学者は、内側から文化を知ることはできないものの、全体の輪郭と眺めを提供することはできる。

 彼は1985年にイスラエルと、日本神話にゆかりの地を訪ね、霧島峰天岩戸神社に深い感銘を受けた。日本神話は歴史の導入部であり、現代の感受性への連続がある。古事記と日本書紀の英訳は1880年と1890年に刊行された。それらは世界神話のあらゆる主題をつなぎ合わせ統合している。中には、インドネシアとアメリカと日本にのみ存在するものもあり、起源地は不明。

 神武天皇の父、ウガヤフキアエズノミコト鵜戸神宮山幸彦(ホデリノミコト)について。日本には海と山、相反する二つのものがある。また、生と死という二律背反に、人間の寿命の短さが一つの解決をもたらす。潮の満ち引きにより、宇宙規模の対立が解決した時、神武天皇が生まれ、日本の歴史が始まる。

 日本文化の要素の多様性を考えると、日本は出逢いと混淆の場であったと思われる。

 縄文文化の様式の独自性について。弥生文化による大変動後も、縄文精神は現代日本の美意識の表現に存続している。表現の意図(考え抜かれた着想)と手段の簡潔さ(洗練を究めた技巧)がそれである。中国式の複雑さを導入し、順応させた適応性も日本的である。日本文化は相反するものを統合することを好む。科学技術の前衛に位置する革新的な国がなおもアニミズム的思考を畏敬しているのには驚かされる。宇宙のあらゆる被造物に霊性を認める神道の世界像は、物質と生命を結び合わせている。

 日本文学、戯曲について。『源氏物語』によって社会学者たちが提起してきた古典的な大問題が一新されうる: いとこ婚、父系制社会における母系親族の役割について、など。

 日本的ディヴィジョニズム: 小型計算機、録音機なども。日本音楽には和音の体系がなく、その代わりに抑揚があり、時間の流れから和音が生まれる。

 デカルトの思考方法: 問題を小さく分割する、列挙して確認する。日本は感性の、もしくは美意識のデカルト主義である。

 旧世界の一体性: この学者が、琉球の伊平屋島で聴いた儀礼歌にはヘロドトスの伝えるリュディアでの出来事が語られていた。

 大林太良と吉田敦彦は、朝鮮と日本には、ジョルジュ・デュメジルの唱えた三機能説[祭司、戦士、生産者という三区分は印欧語族にしか見当たらないとする考え方]が見出されるとしており、それは後四世紀頃、騎馬集団によってもたらされたとしている。日本では個々人が自分の務めをよく果たそうとしているのが美徳に見える。

 西洋の哲学者の目には、東洋の思想は主体を拒否している。つまり「自己」という要素をもたない。そして、どんな言葉も現実とは一致しない。世界の最終的本質は我々の思考を超越しており、捉えようがないものだと映っている。これについて、日本は、主体を求心的なものとし、結果とした。鋸や鉋などの道具も然り、押さずに引く。この原理は日本の社会構造を守った: 東洋宗教による形而上学の放棄、儒教による社会の停滞、西洋社会を危機にさらす原子論。日本は、入ってきたものを濾過し、最上の部分のみをうまく同化したので、独自性を失っていない。

 

 月の隠れた面: 1979年、パリでのシンポジウム「フランスにおける日本研究」の講演より。冒頭の挨拶で、自分は狂言『末広がり』の太郎冠者のようだと謙遜する。

 二年前(1977年)に日本へ旅をした時、この人類学者の研究室は「労働の概念」に関する研究計画を採用し、大都会を避け、辺鄙な場所、輪島、高山、金沢などにおける労働者や職人と会うことにした。

 東西の職人の違いは、古い技術の継承ではなく、家族構造が残っているか否かにあると知った。また『源氏物語』を読んで、交叉イトコ同士の結婚、母方親族の役割など、民俗学者にとって驚くべき情報を見出した。『保元物語』『平治物語』『平家物語』からも然り。

 無知の気楽さでは、音楽、グラフィック・アート、料理について日本らしさを語ることができる。伝統音楽で使われる楽器はそれぞれ違った場所に由来する。室町時代の「下手物」が19世紀にも存在した。木版画には、線と色彩の二元性がある。日本料理はほとんど脂肪を使わず、自然の素材をそのまま盛り付けるものが多く、中華料理とはかけ離れている。日本では手段を節約し、中国風の仰々しい饒舌に対立させている。アートおよび、仏教の違いも然り。

 日本語は音調言語である。各々が複数の音域に属し、簡素さが豊かさを生む。日本人は虫の鳴き声を騒音としてではなく、言語としてとらえる。

 日本では、鋸や鉋を手前に引き、西洋とは逆。明治時代に、日本の西欧化策は、西洋に同化するためではなく、西洋から自分たちの立場を守るための手段であった。いずれも、求心的、自分に戻るという能力によるものである。それに比べて、フランス革命は、封建制と資本主義の両方を破壊した。

 アメリカ西部の先住民の多くはウラル語族であり、アルタイ語系が広範囲に存在することを証ている。そうなるとアメリカ学者にとっては日本史は戦略的に重要である。日本は人類の過去の最大の謎に近づく鍵を握っているように思える。

 

 因幡の白兎: この人類学者はアメリカ先住民の神話研究者でもある。日本神話の因幡の白兎の話に酷似した神話が南アメリカの先住民のものにある。北米にもある。[日本神話ではサメであるが、アメリカではワニである。ただし、日本の出雲地方ではサメのことをワニと呼ぶ。この話は因幡国風土記に因む。]

 

 シナ海のヘロドトス: 1983年、この学者は、沖縄とその近隣の島を訪れ、この文をある古代ギリシア研究者のための論文集に寄稿した。

 琉球諸島では、海岸付近には人家が密集しておらず、どの村でも目抜通りが村を東西に分断しており、互いのチームが毎年綱引きをする。家のつくり: 間取り、珊瑚礁の塀、魔物除けのヒンプン(門の内側の衝立塀)、火床の神(カマドの神: ヒヌカン)、テレビ。

 祭祀について: 神殿や造形表象がない。森、洞窟、岩などを聖なるものとする。

 琉球の歴史について: 15世紀に統一王国となり、1609年、薩摩に征服された。

 父系社会ながら、宗教生活は女性の管轄下にあり、ノロという祭祀者が階級を成している。ノロは世襲であり、ほとんどが高齢である。琉球を創成した女神アマミキヨについて。この学者は、口のきけない王子の伝説[かぎやで風]が、ヘロドトスの語るクロイソスの挿話に似ていることに気づいた。日本には、『百合若』という説話があるが、これは『オデュッセイア』に似ていて、クライマックスは弓術で終わる。もしかしたら、イエズス会の宣教師がもたらしたものかもしれない。

 だが、小アジアのフリギアのミダス王のロバの耳の話に似ている新羅の景文王の話は、中世にさかのぼる。この話は、モンゴルやチベットにも見つかっている。

 

 仙厓 世界を甘受する芸術: 書と切り離すことのできない極東の絵画は、書の意味がわからないと不十分な鑑賞しかできない。それらはすべて哲学的な意味をもっている。日本では同じ時代[18〜19世紀]に、仙厓、清長、歌麿、栄之など、著しく隔たった表現形式が共存していた。そこには、遊びへの嗜好という要素が見られる。発明者の創意工夫が現れた玩具しかり。12世紀の鳥獣人物戯画にも遊び心は現われている。北斎はそれを継承した。奔放な想像力は、社会風刺の精神から着想されたように思われる。仙厓は禅僧であり、茶道の精神の中に身を置いており、楽焼茶碗のように、仏教の「如是(にょぜ)」という状態に達することを目指した。洗練と粗野を区別せず。道教は、社会通念を見下し、仏教同様、二元論を排している。

 禅は12世紀に日本にもたらされ、同時に水墨画も伝わった。仙厓はこの系譜に位置づけられる。瞑想を行なうことはインドで行われており、6世紀に達磨が中国に伝えた。その600年後、栄西[臨済宗の開祖]が日本に根づかせた。この禅は、伝統や教義や経典に価値を認めず、瞑想を大事にした。

 いかなる問いも答えを受けることはかなわない。問いの一つ一つが他のもう一つの問いを呼び、それ自体の本性を持たない。世界の現実はかりそめのものにすぎない。

 仙厓の絵は素早く描かれ、一見粗雑に見えるが、資料的な正確さをもつ。これは注目すべき点である。

 禅画はまた、日本人の生活の具体的現実にも通じている。どんなことも認識できないという至高の認識に達すれば、賢者は解放される。

 仙厓の作品は親しみやすく、緻密であり、民俗学者にとっては貴重である。世俗的テーマの着想は、北斎漫画を思わせる。その広がりと鋭さにおいて、モンテーニュの『随想録』に比せられる。両者とも、見せかけを拒み、あらゆる信仰を疑い、最終的真実への到達をあきらめることを勧める。それが賢者にふさわしい状態だから。

 

 異様を手なづける: 西洋は日本を二度発見した。16世紀半ばのイエズス会と、19世紀半ばの黒船によって。その時に文化についてそれぞれ書き記したのは、ルイス・フロイス神父と、イギリス人のチェンバレン[東大の教授となった日本文化研究家]である。チェンバレンの『あべこべ』について書いてある『日本事物誌』のことは知らなかった。例えば、日本人は針に糸ではなく、糸に針を通す、針ではなく生地を動かして縫う、鋸、鉋、ろくろの回し方、武士は乗馬を右から[弓を左手に持つので: 左手は弓手(ゆんで)、右手は馬手(めて)と呼ばれていた]、も然り。これはヘロドトスが、エジプト人は他民族と正反対の風俗習慣をもつ、と述べたことに匹敵する。いずれも対称という見方を示し、異様さを手なづけて馴染む手段を講じたのである。[日本には「押してもだめなら引いてみな」という考え方がある。発想の転換である。]

 

 アメノウズメの淫らな踊り: アメノウズメの淫らな踊りは、デメテルの怒りをとくために恥部を見せたというバウボの踊り、ホメロスの伝えるイアンベの踊りによく似ている。エジプトのファラオ、セソストリスは、破った敵を嘲笑うために女陰を象った記念碑をつくらせたとヘロドトスが伝えている。まあ、古事記・日本書紀が書かれたのは8世紀であり、古代エジプトとは時代がかけ離れている。[アッシリアに連行されたイスラエルの10部族が東を目指して極東に至ったという日ユ道祖論を思い出す。実際DNA鑑定により、3〜5世紀に日本に入ってきた古墳人のルーツは中央アジアであり、キルギス人と日本人は遺伝子的によく似ていると証明されているのだ。][また、エジプトでは猿はトト神、知恵の神であり、日本神話では、降臨したニニギを案内した猿田彦、道しるべの神、道教の庚申なのである。]

 著者は、エジプトのセトと日本のスサノオの類似(嵐の神、気性が荒々しい、神々の仲間から排斥されたなど)についても考察しているが、いまいち釈然としなかった。

 

 知られざる東京: 著者は、国際交流基金、サントリー文化財団、日本生産性本部、石坂財団、国際日本文化研究センターにより、1977〜1988年に5回日本を訪れることができた。著作『悲しき熱帯』の訳者、川田順造により、和船で隅田川と東京の運河巡りをした。多くの職人や伝統芸能に関わる人々と接して、「はたらく」ことについての日本人の考え方(熱意と善意)の教示を得た。

 神話を研究してきた著者にとって、神話的な琉球や、建国神話の地、九州を旅したことは、日本では歴史の中に神話を根づかせていると確信させた[今の日本で、建国神話を学ばないというのはいかがなものだろう。日教組のせいで、日本の子供達は日本神話をぶつ切れの文学として国語で読むだけなのだ]。

 日本が近代に入ったのは、革命ではなく復古によったことで、伝統的諸価値の崩壊を免れたとある[が、戦後、GHQと日教組によってかなり破壊されたと私は思う]。

 

 川田順造との対話[本書のまとめのような部分: 1993年、NHKの番組で、著者は川田順造と対談した。浮世絵では、歌川国芳、馬琴が訳した『水滸伝』の挿絵に関心がある。鯰絵は、世直しを表している。

 日本についての第一印象は、人間であった。人間性において豊かだと思った。日本には古い世界の疲れ、革命や戦争ですり減ったものではない人間性がある。社会的地位が慎ましい者であっても、役割をまっとうしようとしている。

 「はい」という返事は、薩摩の方言で、それ以前は、へえ、んん、んだ、などであったが、明治時代に、服従の間投詞として、教育された。

 この人類学者は、佃島に暮らしてみたいと言った。現代の東京を醜いとは思わなかった。拘束的な西洋の街路から解放され、自由と多様性を感じた。

 日本料理には、構成要素を統合せず、解体を適用するところがあり、食べる者に望む味の組み合わせをつくらせる。

 日本が自然を粗暴に扱っていることは辛かった。生花や日本庭園を見ると、日本人は芸術をうむために自然を素材として扱っているという幻想を西洋人に抱かせた。

 著者は人類学の研究を通じて「野生的なもの」は、誰しもの中に存在し続けていることを示した。「野生的なもの」を蔑視すべきではない、と。

 日本には根っことの連続性がある[そうかしら?]。

 フランス人は黄色を好まない、味気ないものとみなしている。

 日本は創出者であるよりは受容者であったとする考え方は、日本には、ひじょうに独創的な比肩できるもののない縄文文化があったことを考えると違う。その独創性により、他文化を受容しつつ別のものをつくりあげたと言える。

 著者はますます未来を信じられなくなっているとのこと。

 

 この本のイタリア語タイトルは、L'altra faccia della luna. Scritti sul Giappone 

 

 ▼この動画はすばらしい。「野生の思考」ばんざい!!  構造主義がよくわかった。