まあ、これは通訳ガイドとしての勉強のつもり手にとった。JFGで北海道の歴史の講座もあったし、『ゴールデンカムイ』のアニメもちらりと見たことだし。

 この本は北海道を切り口として、日本の近世と近代の歴史を辿るものであった。阿寒湖のアイヌコタン、網走刑務所など、観光の仕事で何度か訪れたが、あの北海道のインフラ建設には、囚人のみならず、本土や大陸から連れてこられた人たちの過酷な使役もあったことを知り、暗澹とした気分になった。小樽や釧路についての記載がなかったのは少し残念であった。

 

  あけぼの編 (川上淳 著)

 

 01. 北海道特有の時代区分は、どうして生まれたのか?: 前1万年頃から後700年くらいまで縄文文化続縄文文化が続き[稲作文化が到達しなかった]、その後8世紀から1100年頃まで擦文(さつもん)文化とオホーツク文化が共存し、平安末期から鎌倉時代にかけて頃よりアイヌ文化が始まった。つまり中世〜近世は本州の時代区分とは一致しない。

 オホーツク文化は、サハリン[旧樺太]あたりから渡来した海の民、刻文・貼付文の土器をもっていた。アイヌのクマ送りはオホーツク文化由来という説が有力。

 擦文文化は8世紀頃、本州の影響を受けて成立。土師器の影響を受けたヘラで擦ったような文様のない土器をもつ。住居は竪穴式。13世紀頃まで。

 アイヌ文化は本州の影響を受けて13世紀頃に成立。掘立住居に移行。鉄鍋が登場するも、内耳土器が15世紀まで使われた。16〜18世紀にはチャシ(砦)がつくられた。16世紀末に松前藩が成立してからを便宜的に「近世アイヌ文化期」と呼ぶことがある。

 

  Part 1 黎明期〜アイヌ・和人の相克(原始〜中世)

 

 02. 2〜3万年前に現れた北海道最初の人類: 北海道では、約3万〜1万年前の後期旧石器時代の遺跡が500ヶ所確認されている。北海道は2万年前には氷河期で、サハリン・シベリアと陸続きであった。千歳市の祝梅三角山遺跡、上士幌町の嶋木遺跡、更別村の瀬尾遺跡などがあり、出土した石器の炭素測定により、旧石器時代のものと確認されている。

 十勝石と呼ばれる黒曜石: 道内にはほかに、網走管内の旧白滝村が世界的に重要な産地であり、遠隔地でも発見されていることから石器交換ネットワークが成立していたことがうかがえる。

 

 03. 偶然発見された国宝 縄文時代の名品・中空土偶: 川上氏は根室にて最東の縄文土偶を発見し、初田牛20遺跡の発掘につながった。2基の墓と副葬品も見つかった。縄文文化の土偶は、北海道では70余の遺跡から300点しか出土しておらず、道南[函館の著保内野遺跡出土の、中が空洞の中空土偶で有名]・道中に集中していた。東北地方の円筒亀ヶ岡文化の影響を受けつつも、埋葬・祭祀との関連が指摘されている。

 

 04. 続縄文文化が独自に持つ地域色豊かな多様性: 続縄文文化は、本州での弥生時代から古墳時代に相当する。狩猟と漁労を中心にしていたが、本州からの金属器が使われていたのが特徴。渡島(おしま)半島の恵山(えさん)文化、石狩平野あたりの江別(太ぶと)文化[近世アイヌとの関連性が指摘されている]、北方の宇津内文化[サハリンとのつながり]、道東の興津・下田ノ沢文化[千島列島とのつながり]などに分類される。

 余市町のフゴッペ洞窟の刻画が知られる。伊達市有珠モシリ遺跡では、琉球列島のイモガイ製の腕輪が出土している。羅臼町植別川遺跡で出土した銀製品はアムール川を経て中国北部からもたらされたものと考えられている。

 

 05. 交易の重要性が高まる擦文文化の開かれた社会: 北海道の東部や北部に残っている深さ1mほど、約4m四方、笹や葦の屋根、内部に竈をもつ半地下式竪穴式住居跡のほとんど[伊茶仁カリカリウス遺跡には1300もの跡が見つかっている]は擦文文化時代の遺構である。大規模な集落があったのではなく、200年ほどにわたり少しずつ築かれたものである。擦文土器はろくろを使っておらず、高さ50cmの大型もある。厚さは4〜8mm。本州や中国からもたらされた鉄製品も出土している。墓はあまり見つかっておらず、理由は不詳。サケ漁などの採取生活のほか、栽培種の種子が出土していることから農耕や交易の広がりも見られる。交易のために、干しサケ、毛皮生産が盛んになったと思われる。13〜15世紀のアイヌ文化につながる遺跡はほとんど見つかっていないことは疑問点である。

 

 06. 海とともに暮らしたオホーツク人の海洋文化: 1877年にモースが大森貝塚を発掘した翌年、英国人ミルンが根室の弁天島貝塚を発掘した。これが北海道の近代考古学の始まり。5〜13世紀、オホーツク海南岸に定住していた海洋民がオホーツク文化人であり、代表的遺跡は網走のモヨロ貝塚。直径10〜15mの大きな竪穴式住居に住み、魚類や海洋動物の捕獲などで生活していたことが出土品から知られる。クマの頭骨を飾った祭壇、和製の蕨手刀なども出土しており、アイヌ文化との関連、交易範囲の広さが推量されているが、民族のルーツはなおも不明。

 

  07. アイヌ人とアイヌ文化はいつ生まれたのか?: 日本近世におけるアイヌ文化を「近世アイヌ文化期」と呼ぶが、それ以前の状況は不詳である。日本書紀でいう「蝦夷(えみし)」は、7世紀頃、東北地方・北海道に住み、毎年朝貢していた。8世紀には、坂上田村麻呂が反乱者として征伐したという記録があり、9世紀前半までに朝廷に隷属したが、交易により力を蓄え、俘囚安倍氏などの地頭となる。鎌倉幕府によって奥州藤原氏が滅ぼされた後は、津軽地方の十三湊に拠る安藤氏蝦夷管領となり、蝦夷島の渡党をも管轄した。14世紀、渡党のほか、道東には日の本、道西側には唐子がいた。擦文文化がオホーツク文化の影響を受けて近世アイヌ文化が成立したという考え方があるが、14世紀は遺跡や遺物を欠く空白の時代である。14〜18世紀を「原アイヌ文化」と呼び、その前期(14〜16世紀)は内耳土器、後期(16〜18世紀)はチャシ(砦)を特徴とする。

 

 08. チャシ跡が物語るアイヌ文化成立期の様子: 高台に建設され、柵を巡らせた砦のことをチャシと呼んだ。17世紀半ば、オランダ東インド会社が調査のために送り込んだ司令官フリースの厚岸(あっけし)捜査の記録によると、チャシは集落近くの高台に築かれ、道は一つのみで、防護柵が設置されていた。絵図は残っていない。出土品から推測するに、内部に立て籠ったり、祭祀をする場であったようだ。

 

 09. 90余年におよんだ争乱「コシャマインの戦い: 1968年、北海道志海苔(しのり)で甕に入った古銭(大半が北宋銭)が出土した。これは14世紀末までに備蓄されたもので、松前藩の記録にある「志海苔館(たて)」に関わるものと考えられている[館とは小規模な城砦のこと]。

 鎌倉時代に蝦夷管領であった安藤氏は15世紀半ば、南部氏に敗れて道南へ逃れ、半島部を支配した。1456年、和人の鍛冶屋によるアイヌ人の殺害を契機に、アイヌ首長コシャマインが報復として和人を殺した事件は、この志海苔の鍛冶屋村が舞台である。翌1457年、コシャマイン麾下のアイヌ勢が渡島半島の10館を攻撃したが、蠣崎氏の客将、武田信広によりアイヌ側は敗れるも、戦いは1550年の講和まで続き、蠣崎氏の蝦夷島支配を確立することとなった(後に改姓し、松前藩が成立)。

 

 10. 中世の山城・勝山館の都市を思わせるスケール: 勝山館は、コシャマイン戦争の頃、夷王(いおう)山の北西中腹に武田信広によって築かれた城砦都市。数百棟の家屋跡と10万点の遺物が出土。金属加工も行われていた。発掘調査により、館内部には、アイヌ人と和人が混住していたことが判明している。その南東斜面には墳墓群があり、和人とアイヌ人が区別されずに埋葬されていたことがわかる。

 

  Part 2 松前藩の成立〜クナシリ・メナシアイヌの戦い(近世Ⅰ)

 

 11. ラッコ毛皮献上が生んだ松前藩成立への道程: 蝦夷地での支配を固めていった蠣崎氏は、1590年、豊臣秀吉に取り入って民部大輔に叙任され、陸奥の反乱にアイヌ軍を率いて軍事奉公し、1593年には朝鮮出兵の拠点肥前名護屋に参じて、ラッコ毛皮を献上し、「蠣崎志摩守宛朱印状」を受けて蝦夷島支配権を公認された。

 そして秀吉没後、1599年に大坂城にて徳川家康に拝謁し、松前と改姓。1604年には「徳川家康黒印状」が発給により大名とされ、アイヌと松前藩との関係[松前藩は交易独占権を得るも、アイヌ人の行動の自由を認める]が規定された。松前氏は大阪の陣にも参戦した。前代未聞の大きなラッコ毛皮を家康に献上。

 

 12. 蝦夷地にわたった最初のヨーロッパ人: イエズス会士アンジェリスは1618年、布教のために松前へ渡った。その蝦夷図。1612年のキリシタン禁教令により東北地方へ流刑にされた信者を救おうとした。1620年にはやはりイエズス会のカリワーリュ神父が、砂金取りに混ざり、蝦夷地に潜入。アンジェリス修道士は、アイヌ人の風俗や彼らの商う貂の毛皮(ラッコと称しており、ラッコ島=千島列島?でとれる)について報告している。樺太、天塩(てしお)国を介して、中国の緞子が松前にもたらされる、ともある。100語以上のアイヌ語も記録している。二人とも殉教している。

 

 13. コメに代わる収入源だった商場知行制と場所請負制: コメを栽培していなかった蝦夷地では、特殊な交易[アイヌの朝貢と返礼]と漁業が藩の財源であった。松前藩では家臣への知行として、海産物や特産品の交易の利である商場(あきないば)知行を与えていた。その経営を商人に任せる方法は場所請負制という。網走や斜里で不当に使役された(若い女性は和人の慰み者とされ、盛年男子は離島で苦役させられた)アイヌ人が、1789年、道東において蜂起した。「クナシリ・メナシアイヌの戦い」である。

 

 14. 蝦夷地最大の壮絶な戦闘「シャクシャインの戦い: 1669年、アイヌ首長シャクシャインが松前藩に対して蜂起し、和人355人を殺害した。これに対し、松前藩は、東北諸藩に鉄砲や大砲、弾薬を要請して抗戦。和睦を成立させると、シャクシャインを騙し討ちした。争いは1662年に再燃するも、松前藩の主導が確立していった。

 

 15. ロシアへの対抗策だった幕府による蝦夷地直轄化: 近世まで、渡島半島南部の和人地、松前藩域以外の蝦夷島は、日本の領域には含まれていなかったが、近世後期、蝦夷地が幕府の直轄地となった。18世紀四半末期、ロシア商人が渡来するに及び、老中田沼意次は、幕府は37人の調査隊を蝦夷地に派遣、東西蝦夷地を踏査させた。田沼意次失脚後、1789年のクナシリ・メナシアテヌの戦い、ロシア使節ラスクマンの根室来航、1796年のイギリス船来航を経て、幕府は再び180人より成る調査団を派遣。ロシアのレザノフの長崎来航(1804年)後は、松前藩をも含めて、蝦夷地を幕府直轄とした。そのため、1802年に箱館奉行を置き、それを松前に移して、松前奉行とした。

 

 16. アイヌVS松前藩・和人商人"最後の戦い"の結末とは:  略。

 

 17. 戦いの結果生まれた絵画「夷酋列像」の謎: 松前藩の画家、蠣崎波響が描いた12人のアイヌ人(戦いに功があった/ 松前藩に協力した人物たち)の肖像画である。これが1984年、フランスで11点発見された。肖像画のアイヌ人は蝦夷錦を着用している[東武画像の衣装は質素]。謎だらけ。

 

  Part 3 ロシアとの接触〜松前藩・蝦夷地の終焉(近世Ⅱ)

 

 18. 鎖国状態だった江戸時代、蝦夷地も鎖国していた?: 江戸時代、松前藩は、アイヌを介して中国やロシアの品物を入手していた。[1637年の島原の乱を経て、幕府はポルトガル船の来航を禁止し、1804年、ロシアの開港要求に対し、オランダ以外の西欧諸国とは交易しないと声明した。]

 

 19. ロシア使節が披露した日本で初めてのスケート: 1792年にネモロ(根室)に寄港したロシア使節ラクスマンは、大黒屋光太夫ら漂流民送還のほか、様々な文化交流を行ない、氷結した根室港でスケートも披露した。翌年は松前で会談が行われた。

 

 20. 大国の思惑に翻弄されたロシアへの漂流民たち: 江戸時代に北方ロシアへの漂流民は少なくなかった。彼らはロシア人に日本語を教えたり、露日辞典の編纂に関わった者もいた。大黒屋光太夫は日本に送還された。1811年に捕縛されたロシア軍艦の艦長が松前に抑留され、ロシア側に拿捕された高田屋嘉兵衛のとりなしによって釈放されたというゴローニン事件について、など。

 

 21. 「大日本恵登呂府」の標柱と近藤重蔵の対ロシア政策: 1798年、幕臣で探検家の近藤重蔵がエトロフ島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てた。いろいろあって1930年、エトロフ島カムイワッカオイに花崗岩の「大日本恵登呂府」の標柱が再建された。近藤重蔵は、アイヌがロシアの支配下に入らぬよう、エトロフ島のアイヌを保護し、戸籍を記録し、日本人化を図った。明治政府は、アイヌの撫育政策を行なった。

 

 22. ロシア帝国が樺太を襲撃! 対露危機を生んだ文化露寇: 1806年、ロシアのフヴォストフ大尉らがクシュンコタン(樺太)の番屋を襲撃して略奪した「大福帳」が2009年にサンクトペテルブルクの東洋学研究所で見つかった。同研究所には、利尻島沖で拿捕された御用船に積載されていたと思われる大砲や武具もある。1806年にはエトロフ島にあった会所もロシアに攻撃されている。

 1804年に長崎に来航したレザノフは徳川将軍への国書を持参していたが、拒絶されて去った。

 1807年にはやはりフヴォストフ大尉らがエトロフ島シャナを襲撃した。シャナの会所には幕府役人など300人がいたが退却を決定。中には測量士の間宮林蔵もいた。

 この2回にわたる襲撃の報告を受けた幕府は魯船打払令を出した。

 

 23. ゴローニン事件の陰で尽力した高田屋嘉兵衛: 略。

 

 24. 幕府役人として生きた北方探検家たちの素顔: 北方探検家の最上徳内と間宮林蔵、およびシーボルト事件について。最上徳内はウルップ島まで調査した。間宮林蔵は樺太が島であることを確認し、大陸に渡ってデレンに至り、アジア大陸との海峡を間宮海峡(諸外国はタタール海峡としている)と紹介した。

 

 25. 北方への危機感が生んだ幕府直営の「蝦夷三官寺: 1804年、幕府によって建てられた、道東・厚岸町の国泰寺、様似郡(日高)様似町の等澍院、伊達市有珠の善光寺。ロシアによって広まりつつあったキリスト教を排除する目的があった。アイヌの埋葬については干渉しなかったとされるが、掟書にはアイヌへの布教・教化・改宗促進が記されているが、積極的に行われた記録は見つかっていない。

 

 26. 松前藩復領までの苦難と場所請負制確立の影響: 幕府が蝦夷地を直轄としたため、1807年、松前藩は陸奥国伊達郡梁川に転封となったが、蠣崎広年(絵師の蠣崎波響)は復領を願い、1821年にそれが叶い、蝦夷地全域が藩直轄となり、場所請負制を採用し、藩士の俸禄は石高制とした。さらに、松前城下に6台、函館に6台、江差に2台の砲台を設け、東蝦夷地に8ヶ所、西蝦夷地に3ケ所の勤番所を設け、異国船の往来に備えた。一万石格のまま、家臣の数は1824年には倍増し、556人となった。

 場所請負制によりアイヌ民族は過酷な搾取を受けるようになった。また新興商人が台頭した。欧米の捕鯨船出没により、警備の藩士と銃撃戦が起きたりもした。

 1854年、天守をもつ福山(松前)城が竣工した。

 

 27. 松浦武四郎が蝦夷地に残した大きな足跡: 探検家松浦武四郎(1818〜1888年)は、北海道の地名をつけたことでも知られている。アイヌの民族服アットゥシを着こなし、樺太や千島まで6回も踏破したこの人による多くの出版物や地図は多彩にして膨大である。だが、松本十郎という開拓判官は、武四郎の出版物を批判もしているので武四郎の記述には注意が必要かもしれないと著者は述べている。

 

 28. 樺太の領有権を巡り激化した幕末の日露紛争: 1862年、大野藩ウショロ場所番人の横暴と酷使(嫌がらせと折檻もあったようだ)に耐えかねたアイヌ人トコンベがロシア人居留地の隊長のもとに逃げ込み、その身柄をめぐって、日露が争奪戦をくり広げることとなった。ロシア側はトコンベの家族18人のアイヌも連れ去った。

 外圧を受けた幕府は、場所請負商人の横暴について現地調査を行ない、非情な実態が発覚した。1855年、松前以外の蝦夷地と樺太が再び幕府の直轄となると、アイヌに対して撫育政策を推し進めた。両国間の紛争の末、樺太島仮規則が調印され、アイヌ人が両国から独立していることを規定した。だが紛争は、1875年の樺太・千島交換条約締結まで解消されなかった。

 

  躍動編 (桑原真人 著)

 

 29. 北海道は無人地だった? 蝦夷地から北海道への歩み: 北海道敎育史(1961年)によれば、明治時代、道東の和人未入植地は「無人地」とされていた。これは1000人近いアイヌ人を無人として扱っていることを示す。

 1869年、蝦夷地は「北海道」と改称された。「道」という呼称は7世紀にさかのぼる律令時代の五畿七道を想起させ、蝦夷島が歴史的に日本領であるような錯覚を生ませる効果があった。和人中心的な歴史観は反省せねばならない。

 

  Part 4 開拓使の設置〜三県時代の北海道(近代1): 

 

 30. 函館に設置された司法機関とは異なる裁判所: 明治政府は1868年、函館の五稜郭に裁判所を設置した。司法機関というよりも地方行政機関として。そしてほどなく、それは函館府となる。(布告により、賄賂を禁じたりもしている。) 

 政府は、蝦夷地開拓をこの函館府に委任し、1869年には開拓使を設置する。

 

 31. 北海道にも県があった? 道南に存在したふたつの県: 道南には異質であるがゆえに2つの県がつくられた。函館県に置かれた開拓使はそれ以外の拓地植民を目的としていたので、松前藩であった部分が1871年の廃藩置県により「館県」となり、2ヶ月後に弘前県(現青森県)に編入されたが、管理上不合理なため、1年後に弘前県より返上されたが、軋轢が生じた。

 福山・江差騒動/ 檜山騒動: 1873年、道南地方館県にて漁民約2000人による増税反対暴動が起こり、官吏や商人宅をこわして負傷者を出した事件。

 函館府、函館県、開拓使の関連についてもさまざまな見解があった。

 

 32. 「土人」から「旧土人」へ 開拓使が行ったアイヌ政策: アイヌ民族は「蝦夷(えぞ)人」などと呼ばれていたが、幕府は幕末頃より「土人」という呼称を使うようになった。蝦夷人のままでは、対外的に、彼らが外国人だと考えられる可能性があるとしたからである。1875年の樺太・千島交換条約以降、政府は和人とアイヌ民族の格差をなくす方向をとった。1872年の壬申戸籍にて、アイヌ民族は「平民」籍に編入されたものの、1878年、開拓使はアイヌを「旧土人」として区別することとした。

 開拓使のアイヌ政策は、和人化・同化政策であった: 勧農政策、和人に理解しがたい「自焼」(送り儀礼)などの民族独自の風習禁止、アマッポテス網などの狩猟採集法の禁止、樺太と千島から北海道への強制移住など。土人という呼称は、1997年の「アイヌ文化振興法」制定まで続いた。

 

 33. 函館〜札幌を結ぶ大動脈「札幌本道」をつくる: 1885年、北海道を巡視した金子堅太郎は伊藤博文に、北海道における道路整備の必要を提言した。開拓使の本庁が札幌に移転するに及び、馬車道として札幌本道が建設されることとなった。その工事を請け負った平野弥十郎とお雇い外国人技術者A.G.ワーフィールドについて。1872年着工。総延長約224km。1873年竣工。今日の国道5号および36号。

 

 34. 北海道に屯田兵が置かれた本当のワケとは?: 明治時代初期の北海道開拓において重要であったのは、(失業していた)士族の集団移動と屯田兵であった。「且つ守り且つ耕し」という考え方に基づき、当初は士族のみが対象であった。1890年から平民も対象となる。屯田兵村(へいそん)は、根室、厚岸、室蘭を除き、内陸部に設置されていた。開拓次官の黒田清隆が陸軍中将の役を兼務し、屯田兵を指揮した。1875年に最初の移住が行われた。ロシアに防衛強化の理由を誰何され、屯田憲兵と言い逃れ、治安維持の警察機能をもつものだとした。

 

 35. 開拓使による管轄から「三県一局」時代へ: 1882年、開拓使が廃止され、地方行政機構として、函館・札幌・根室の三県が設置された。いずれの県も、初代県令は鹿児島県出身で、黒田清隆の部下であった。

 1882年の政府要人による視察の結果、翌年、農商務省北海道事業管理局が設置され、開拓事業を行なうこととなった。だが、1885年、金子堅太郎は、三県と管理局の対立を解消すべく廃止することを提議し、1886年に北海道庁が新設された。

 

 36. 刑務所から「町」が誕生 北海道と監獄の密接な関係: 近年、犯罪者が増加しており、どの刑務所も定員オーバーであること、迷惑施設ながらも、収容されている受刑者が自治体の人口にカウントされ地方交付税の対象となること、刑務所の建設にPFI方式が取り入れられていること、どれも私にとっては新鮮な情報であった。

 北海道における集治監の設置は1881年の樺戸集治監(月形村は初代典獄の名に因む)にさかのぼる。翌年には空知集治監、1885年には釧路集治監、1891年にはその網走分監、1895年には十勝分監が設置された。樺戸集治監で働く職員とその家族の人口は1800人ちかくに膨れ上がり、市街地が発達した。1903年、集治監制度廃止、監獄となるも、1919年にはその呼称も廃止された。他の施設もやはり市街地の形成を伴った。

 

  Part 5 北海道庁の設置〜許可移民制度の始まり(近代Ⅱ)

 

 37. 海派か、陸派か—開拓方針を巡るせめぎ合い: 北海道庁の長官は内閣総理大臣の指揮下に置かれ、集治監と屯田兵の授産に関する事務を行ない、国有未開地の処分権をもつなど、特別な権限をもっていた。初代長官の岩村通俊は、北海道には資本の移住が必要だと考えていた。漁業の発展による沿岸部の開発か、内陸の農業開発かという意見の対立があった。金子堅太郎は、開発の効率化には、海陸運輸の便を開くことだと説いた。1886年、井上馨と山県有朋は1ヶ月の視察を行ない、漁業振興の必要性を主張した。岩村長官はしかし、水産と農業、双方の発展を意図する立場をとった。

 そのために交通運輸手段の整備、殖民地の選定・整備を行なった。1886年、北海道土地払下規制が制定され、国有未開地の大地積(面積)処分が始まった。道政の腐敗と混乱はいちじるしかった。

 

 38. 所得税は官吏だけ? 道民に与えられた数々の恩典: 北海道に移住する者には恩典があった。官有未開地の貸下げを受けて開墾に成功すれば、1000坪1円(今の2万円くらい)で土地の払下を受けられ、以後20年間は地租・地方税を免除されること、1869年以降に有租地となった土地は1889年から10年間は地租・地方税を免除つれること、地租は地価のわずか100分の1であること、官吏以外は所得税なし、酒造税は一般の半額、菓子・醤油・車の税は免除されること、徴兵令は函館・福山・江差以外には施行されないこと、など。いずれも長くは続かず、1898年には徴兵令は施行された。転籍による徴兵逃れの例もあった。

 一方、1889年の大日本帝国憲法発布、翌年に国会が開会するも、1902年まで、北海道と沖縄からは衆議院議員を送ることはできなかった。

 

 39. 番外地の世界と、開拓地における小都市の誕生: 屯田兵村は、中隊本部を中心に一つの村を形成しており、所有地は、共有地、民有地、官有地と、番地のついていない商業ゾーンである「番外地」に分かれていた。番外地は希望者に貸し出されて、借地人が賃料を払っており、村の中心として発展することが多かった。

 

 40. 屯田兵から旅役者に—兵村生活の実情と、ある屯田兵の話: 1890年以降は平民屯田兵が入植できるようになった。入殖者どうしの言葉が違うため、北海道弁が発達した。屯田兵には軍事訓練の義務があったが、予備役に入ると気分が浮ついて家出する人がでたりした。上川郡の永山兵村に入殖した保護移民が旅訳者になったという話。

 

 41. ベストセラーで北海道を開拓 検印票に残された開拓の志: 『漢英対照いろは辞典』(1888年) を出版した、丹羽五郎は、この本の出版により西洋への留学資金をつくり、現地の農業事情を視察して北海道拓殖事業を行いたいと思った。その辞典の検印票には彼の夢がひらがなで書かれている。これに協力した高橋五郎[越後の柏崎生まれですって! ]について。

 

 42. 北海道集治監に収容された「赤い人」の群像: 吉村昭の『赤い人』は樺戸集治監の設置と囚人労働を取り上げた小説である。囚人たちが身につけるものは、足袋や手拭い、下帯まで、すべて赤かった。様々な囚人について。自由民権運動に関わる政治犯もいた。西川寅吉。坂本慶次郎。相原尚ふみ。関口文七。津田三蔵。

 獄吏の不正行為や囚人への虐待について出版した囚人(小山豊太郎)もいた。

 

 43. 「北海道旧土人保護法」の制定とアイヌ民族: 入殖政策により、アイヌの生活圏が狭められたため、保護が必要だという声が上がり、1899年、北海道旧土人保護法が施行された(アメリカが先住民のために1887年、成立させたドーズ法に倣った)。開拓使設置以来、アイヌ民族には日本人への同化を求めてきたが、北海道庁が新設され、政策の見直しが行われた。だが、土地を与えて農耕を強制しても、狩猟民族のアイヌがうまく適応開墾できたとはいえなかった。アイヌ学校も設置されたが、和人との分離教育だとの評価を受けたりもした。この状態は、1997年に、アイヌ文化振興法が制定されるまで続いた。

 

 44. 人類館事件とアイヌ民族 好奇の目にさらされた人々: 1903年、大阪の天王寺公園で内国勧業博覧会なるものが開催され、そこに人類学標本展覧会が行われた。そこには、アイヌ、琉球、台湾[1894年から日本の殖民地となっていた]、マレー、南方、ニューギニアなどの諸人種に関する展示があり、計26人の生身の人々が生体展示されていた。沖縄県民から侮辱だからと展示中止を求めるキャンペーンが始まり、「人類分類地図」や「生身」の展示は民族差別以外の何物でもないとの批判を受けることとなった。

 なお、展示されたアイヌの首長ホテネ(伏根安太郎)ら12人は、アイヌ学校のための維持費を得ることに成功した。

 沖縄学の父、伊波普猷(いはふゆう)は1907年、琉球史についての演説を行ない、アイヌや台湾の生蕃などとの違い、より高度であるという意識を主張したが、1925年に行われたアイヌ青年、違星北斗の講演を聴いて、アイヌと沖縄の共通性という視点をもつようになった。

 なお、1913年の明治記念拓殖博覧会でも諸民族の疑似住居と生体展示が行われたが、沖縄と小笠原は辞退しており、特に問題は起きなかった。

 

 45. 北海道庁が札幌からなくなる!?: 1909年1月、札幌の北海道庁が火災により焼失した。その前から北海道庁を旭川に移転するという案が取り沙汰されていたため、運動が活発化したが、札幌の激しい反対運動により挫折した。

 

 46. 藤田留次郎爆弾死事件 「タコ部屋」の過酷な実態: 1922年、皇居二重橋前にて自爆により、過酷な土工労働者の状況を大正天皇に直訴しようとした労働者がいた。その上奏文は、事件の2ヶ月後[資本主義社会に対する批判のため隠蔽された]、読売新聞に掲載された。北海道の開拓事業に、あこぎな周旋屋によって駆り集められ、使役された土工労働者の「監獄」部屋とタコ労働について。戦後まで続いた。

 

 47. 軍国美談のヒーロー「一太郎」の北海道移住話と許可移民制度: 軍国美談『一太郎ヤーイ』のモデル、香川県の岡田梶太郎一家が北海道の士別に移住するという記事が小樽新聞に載ったが、老母高齢と借財のため、実現しなかった。

 移民制度は当初こそ保護移民制度により移住者はかなり保護されていたが、次第に保護は手薄くなっていった。関東大震災の罹災者に対する補助移民制度もあったが、許可移民には入殖地指定などの規制や審査もあり、容易ではなくなっていった。

 

 48. 北海道と「羊」の歩み ジンギスカンが生まれるまで: お雇い外国人で、開拓使顧問となったアメリカ人ホーレス・ケプロンの指示を受け、1873年、牛23頭、緬羊88頭が日本に入ったが、牧畜が広まるには時間がかかった。第一次世界大戦のために、羊毛の輸入が不可能となると、政府は緬羊の増殖を図ることになるが、戦後恐慌のために滞る。だが、緬羊飼育は副業として根付いていき、羊毛は軍需品となり、昭和初期にはジンギスカンという料理が生まれ(1931年頃)たが、朝鮮戦争後は羊毛の価格が下がった。しかし、羊肉料理は戦後に普及して北海道の食文化となった。

 

  Part 6 戦時下の北海道〜未来への視座(現代)

 

 49. 韃靼海峡を埋め立てる!? 二代目宇三郎の北方開発論: 青函トンネルについて(1988年開通)。樺太(サハリン)と大陸の間の間宮海峡を埋め立てようという土木業者がいたという話。1891年に北海道に渡った二代目 地崎宇三郎について: 小樽新聞の再建、1946年に「間宮海峡埋立論」を発表: 埋め立てによって、対馬海流により気温が上昇し、北海道で稲作が可能になるというものであったが、デメリットに対する視点を欠いていた。

 

 50. 戦時中の畑となった大通公園や赤れんが前庭: 第二次大戦中、国家総動員法により、食糧不足を解消すべく、大通公園など市心も畑地となった。アイヌ人の食べていた野草も食された。このような食糧難は戦後もしばらく続いた。

 

 51. 穴に隠れて14年間の逃亡生活 中国人・劉連人の悲劇: 1958年、雪山の穴ぐらで一人の男性が発見された。保護された男性は、「労工狩り」に捕えられ、連行されて酷使された道央の昭和工業所の炭鉱から逃げた中国人であった。国内の労働力不足のため、朝鮮や中国から連行された人がいた。中国人は38,935人あるいは40,000人以上、であった。うち北海道には、19社58事業所に、20,430人の中国人が移入させられていた。死亡率は18,7%。『北海道での中国人連行 全道五十八事業所殉難の記録』

 過酷な現場から逃亡した中国人の労工は彼だけではなかった。

 

 52. 後ロヲ振リ向イテ視線ヲ合ワスコトハ情交ヲ許シタ証拠: 第二次大戦後、連合国軍が北海道にも進駐した時の話。西洋人についての見方、認識は、幕末の開国当時とあまり変わらなかったようだ。

 

 53. 北海道の戦後開拓と「ロビンソンの末裔」たち: 開高健の『ロビンソンの末裔』という小説について。東京大空襲によって焼け出された人々を政府は北海道に疎開させ、開拓者とならせることを計画した。この集団は、拓北農兵隊と名づけられ、1800戸、8900人に及んだ。世田谷区からのグループは江別隊はインテリ帰農部隊であったという。

 さらに敗戦後、満州などの海外殖民地から引き揚げてきた人々に対しても緊急に北海道拓殖事業が立ち上げられ、拓北農民団とされた。1950年までに20万戸の入植が目標とされたが、まったく及ばなかった。道東の標茶町は1189戸を受け入れた。この人たちは満州と道東と、二度にわたる開拓を担ったことになる。今では離農者が増え、過疎化が進んでいる。1973年にこの開拓事業は幕をおろした。満州から小樽へ渡ったなかにし礼石狩挽歌のことを思い出した。

 

 54. 江戸時代から連綿と続く北海道独立論の系譜: 沖縄の人々には、米軍占領を経て、日本への同化、日本からの離脱、という二つの志向がある。北海道に独立論があるとすれば、松前藩主公弘(きんひろ)がイエズス会士アンジェリスに「松前は日本ではない」と述べたことを嚆矢とできる、とある。その後、明治時代に、河野廣道が『北海道自由国論』を著して、日本連邦制、さらには独立論を提唱した。北海道拓殖銀行の破綻もあり、今では取り沙汰されていない。

 

 55. 研究目的で「発掘」されたアイヌ遺骨と返還問題: 19世紀、人類学の研究のためとして、英米の学者がアイヌの墓を暴いて遺骨を持ち去るということがしばしばあった。アイヌの遺骨は、1630体ほどが研究のために発掘保管されている。それは、小金井良精に始まる(166の遺骨を持ち出した!)ものであった。以下、京大の清野謙次、北大の児玉作左衛門など。1980年代から、アイヌ側からの遺骨返還要求に応じて返還の動きがで始めた。日本政府は白老町に設立されたウポポイにそれらを集めることにしているという。ウポポイは「民族共生象徴空間」: 国立アイヌ民族博物館、国立民族共生公園、慰霊施設を含む。

 

 56. 「未来記」に描かれた50年、70年後の北海道: 明治時代に発表された北海道の未来像を紹介している。戦後に書かれた未来図には青函トンネルのことが書かれている。確かに札幌の発展は著しい。

 

 

ウポポイを設計した久米設計のサイト