会津と松平容保について、もう一冊読んでみたいと思っていた。この本は、幕末維新に関わる五つの短編によるものであり、松平容保のことは1/5であった。それぞれの短編が、松平容保、京都の尊攘派、大村益次郎、河井継之助、土佐勤王党と切り口を変えており、さすが司馬遼太郎の本は構成も文章も面白くわかりやすいと思った。

 松平容保については、言路洞開というキーワードや足利将軍木像梟首事件、京の町奉行が腰抜けだったために新撰組がそれに代わったという状況、禁門の変の経緯、など、去年読んだ『会津の義 幕末の藩主松平容保』(植松三十里) とは切り口が違う部分があり、読んでよかったと思った。

 

 王城の護衛者(松平容保): 

  1. 藩祖、保科正之(会津松平家は神道なので戒名ではなく土津 (はにつ)という神号をもつ。土津霊神の出生、その定めた十五箇条の家訓(かきん)について。松平容保が会津藩の養子として会津藩に入ったこと。

  2. 松平容保の実家について: 子供達の多くが、容姿に優れ[子柄がよい]、才気があったので、徳川の諸名家から養子縁組を望まれた。容保の神号は「忠誠(まさね)」と決まっていた。藩の目的は「将軍家のため」となることであった。容保は、優れた指揮官であったが、虚弱であった。そして幕末の騒乱: 尊王攘夷の運動、安政の大獄、水戸藩士による井伊直弼の暗殺。徳川将軍家の危機に際し、水戸討伐について、松平容保は親藩が親藩を討つなど御親辺相剋のもと、討ってはならぬこと、と否定し、その知力と胆力を知らしめることとなった。

  3. 騒乱の京都に強大な軍隊を置くこととなり、会津藩と容保に白羽の矢が立てられる。それは会津藩の滅亡を招くことが明らかだったので、当初、藩主は固辞したが、押し切られる。国もとの家老も諫止するために上京。だが結局、藩を挙げて討死する覚悟を決める。

  4. 容保は京都守護職に任じられ、京都所司代と奉行所を指揮することになった。先発隊として密偵を放ち、事情を探る。1863年暮れ、藩兵を率いて上京。金戒(こんかい)光明寺[平安神宮の北東]を本陣とした。容保は「玉体を守護し奉る」ことのみを考えた。天皇の食事が粗末だと知ると、幕府に賄料の増額を申請し、私財から鮮魚の費用を献上した。正月、容保、小御所にて孝明天皇に拝謁し、天子の御衣を下賜された。将軍後見職、一橋慶喜が上京する。容保は二条城にて、天誅の原因に対しては、言路洞開[意思疎通]という手をうつことにすると言う。

  5. だが、容保のその路線は、足利将軍木像梟首事件[尊氏、義詮(よしあきら)、義満の首を三条河原に梟した]により、変更を余儀なくされる。その下手人の中には、容保自身が放ったスパイ、大庭恭平がいた。彼は黒谷本陣に自首してきたのである。与力に下手人たちの逮捕を命じたが、与力たちは仰天して臆した。罪人の捕縛は不浄の行為なので、右近衛中将たる容保がその指揮をとるわけにはいかない。江戸で募られた浪士が会津の御預としてその役を担うこととなった。新撰組である。そのため、世間の容保像は鬼相を帯びてゆく。

  6. 孝明帝は極端な攘夷派であるのに戦争をすることは嫌っていた。公卿は「勅旨」を以て幕府に開戦を要求したが、幕府はその無謀を承知していた。公卿の背後にいる長州藩は討幕を狙っていたのである。三条実美の陰謀により、帝は、大和の橿原神宮に行幸し、攘夷親征の誓いをすることとなる。実美らは京都におけるクーデターの秘密計画をもっていたが、邪魔になる松平容保と会津藩を追い出すべく、京都入りしたものの江戸にすぐに戻った将軍家茂を追わせることにする。帝は、容保が京を留守にすることを恐れ、下される勅定は偽りであると容保に真勅を下す[この時の容保の心情を、作家はリチャード獅子心王に対するロビン・フッド、および後醍醐天皇に対する楠木正成に準えている]。孝明天皇は長州人とそれに与する者たちを「奸人」とした。帝は会津藩の練兵を見たいと欲し、二度の天覧練兵が行われた。そして、薩摩藩が動き、会津と薩摩の対長州同盟が画策される。帝も中川宮を介してこれに加担する。1864年、長州は政変に敗れ、京を落ちた。三条実美は「逆賊」とされた(禁門の変)。

 7. それから五年後。松平容保は大阪城にいる[時間が、鳥羽伏見の戦い後まで一気にぶっとぶ]。禁門の変の後、第二次長州征伐発動の前に、将軍家茂が大阪で病死し(1866年)、容保も病床についていた。1866年に薩長同盟が成る。長州藩は朝敵の汚名を解かれる。1967年10月、第十五代将軍徳川慶喜は大政奉還。そして帝は天然痘らしき病に倒れ、崩御された(1867年)。そして数日後、1868年の正月、鳥羽伏見の戦いが始まった。京に向かう幕軍に対し、薩長軍は攻め下り、開戦三日後、薩長軍の側に錦旗が上がると、幕軍は総崩れとなった。徳川慶喜は逆賊となることが恐怖であった。そして江戸へ逃げることに決め、数人を連れて海に出た。そして、将軍は京都に恭順したいと告げた。不思議なことに、容保に京都守護職をと望んだ松平春嶽は維新政府の議場職になっていた。

 ほどなく、容保は府外へ立ち退くべしとの慶喜の命を受け、会津若松へ戻り、謹慎した。そして、奥羽鎮撫総督の討伐を受けることとなる。容保は戦を覚悟し、官軍を迎えた。敗れて降伏。後に奥州斗南に移され、東京目黒の屋敷にて病没した[植松三十里の本にあった、日光東照宮の宮司となったことなどには触れていない]。

 なお、容保が晩年、竹筒を常に身につけていたという逸話を書いている。通夜の夜に遺族がそれをあけたところ、孝明帝からの宸翰であった。それを山縣有朋が買い取ろうとしたが、遺族は応じず、それはなおも東京銀行の金庫に眠っている、とのことである。

 

 加茂の水玉松操): 幕末維新の黒幕的奸物、岩倉具視にはさらなる黒幕がいたという話である。玉松操は公卿の次男に生まれ、醍醐寺で仏教と儒学を、さらに国学を学んだが、癇癪もちのために寺を逐われて還俗し、流浪の身となっていた。この人を、文書の書けない岩倉が三顧の礼を以て迎え、討幕と王政復古の覆面ブレーンとしたのであった。岩倉具視は皇女和宮[孝明天皇の妹]の徳川家茂への降嫁を推進したことで、宮廷を逐われ、岩倉村に幽棲していた。岩倉は、討幕の陰謀のため、前大納言中山忠能[明治天皇の外祖父]を巻き込む。玉松操は、その策謀のため、禁門の変のために朝敵となっていた長州を赦す宣旨および、討幕の密勅を起草し、錦旗をデザインしたのだ。錦旗は承久の乱建武の中興で使われたとの前例があるが、模範とすべき実物がなかったので、西陣で生地をあつらえ、長州と薩摩のため、二旒仕立てさせたのである。

 しかし、大政奉還をして恭順の意を示す徳川慶喜を、徳川家をつぶさねば、王政復古は名目だけのものとなる。徳川を排除すべく、四百万石の直轄領を朝廷に差し出させねばならないとした。それが小御所会議である。岩倉はこれを押し切った。

 これに対して幕府側は、陳情という名目で京を目指し、薩長とぶつかり・・・東寺に錦の御旗がひるがえったところで、撤退を開始した。

 玉松操は新政府の欧化政策に嫌気がさし、岩倉のもとを去り、明治五年に加茂川畔で病没したという。岩倉は他界する前に、井上毅を呼び、「己れの初年の事業は、皆彼(玉松操)の力なり」と言い、この人物のことを語り継がせた。

 

 鬼謀の人大村益次郎): 桂小五郎が、攘夷のため、長州藩の軍制様式化を図るために人材を探していたところ、村田蔵六という人物が見つかった。その人は、長州の村医者の息子で、蘭語に長け、大坂の緒方洪庵塾の出身で、宇和島藩と幕府(軍艦操練所の教授として)に仕え、加賀藩からも手当を受け、私塾(鳩居堂、銀座4丁目の文具店はもと薬種商だったらしい)を開いて、蘭語、兵学、医学を教えているという。長州だけがこの逸材を見逃していたのだ。

 桂小五郎は萩城下でこの人に既に会ったことがあった。竹島を早く押さえるべきだと[あら!!  日本は竹島をこの時に抑えておくべきだったのだ]。かなりの変わり者であったことが語られる。J. C. ヘボンに英語も習っていたようだ。

 村田蔵六は、第二次長州征伐の頃から長州の軍で活躍し始め、幕府軍を破った。かつて幕府に仕えていたのでこの頃より「大村益次郎」と名乗るようになった。

 江戸開城後にも、将軍の恭順を不服として結成され、上野の寛永寺に拠して不穏な動きを見せていた将棋隊との戦いを、江戸市中を戦禍に巻き込むことなく壊滅させた[私はこのへんの詳細を知らなかったのでとても面白かった]。

 大村益次郎は、西洋式軍隊の軍制を取り入れ、諸制度と諸施設をつくり上げた。そして明治2年9月、京都の旅館にて、狂信的国粋主義者の暗殺団に襲撃され、敗血症をおこして他界した。司馬遼太郎は「歴史がかれを必要としたとき忽然としてあらわれ、大急ぎで去った。神秘的でさえある」と述べている。

 

 英雄児河井継之助): 古賀茶渓という漢学者の塾「久敬舎」にて学ぶ鈴木虎太郎(無隠居士)という人物による、河井継之助についての遺談から始まる。古賀茶渓は、儒学者ながら洋学、外国貿易、船舶の必要性を説いていた。無隠によれば、河井はかなりの奇人であったが、長岡藩の参政となってからは藩の財政を立て直し、藩を重武装化した逸材であった。河井は薩長の動きを陰謀とみなしていた[そのような見方をする佐幕派は少なくなかったことだろう]。1868年、戊辰戦争が始まると、長岡藩の軍備強化のため、横浜でオランダ商人スネルから抜け目なく多くの武器を買い付け、速射砲など、武器は新潟港に水揚げされた。官軍の総大将、岩村精一郎と慈眼寺にて会談し、会津藩との調停を申し出たりしたが、相手にされず、開戦。緒戦は装備にものを言わせたが、銃弾を膝下に受け、戦闘指揮が不可能となり、戸板に載せられて会津に落ち延びるも、破傷風のために他界した。

 

 人斬り以蔵岡田以蔵):  土佐藩士の上士、郷士、足軽の身分差について[土佐はこれほど身分差がひどかったのか!! ]。この本では岡田以蔵は足軽となっているが、本家は郷士であった。以蔵は、二天様(宮本武蔵)に倣い、樫の木刀で朝から晩まで素振りをして鍛えた。学問がなかった。剣客になりたかった。猫などの生き物も斬った。そして武市半平太の道場へ入門。ルールのない独習による我流の剣術を披露するも、武市半平太に対してはおもねった。武市半平太はそれから江戸で修行しなおしたいと思った。武市はその藩外留学に以蔵を伴う。選んだのは、坂本龍馬の学んだ北辰一刀流千葉貞吉の道場ではなく、鏡心明智流桃井春蔵の道場。翌年、塾頭となった武市は、桃井春蔵に、岡田以蔵は剣術をやらぬ方がよいと言われる。品がわるいから、と。

 数年後、武市半平太は土佐にて、改革派であった吉田東洋を暗殺せしめ、京都にて土佐勤王党の領袖となっていた。当時(1862〜3年頃)の京都は攘夷浪士のために無警察状態であった。以蔵は武市に飼い犬のように従っていた。

 以蔵は、大坂にて、吉田東洋殺害犯を捜索する勤王派の下横目(下級警吏) 井上佐一郎を道頓堀で暗殺してから、人殺しの快感が病みつきになる。京では多田帯刀を殺した。だが、天誅について、師の武市半平太と、無学の岡田以蔵の間にはわだかまりがあった。石部の宿にて、渡辺金三郎ら四人の与力を斬るという天誅計画について、武市は以蔵に命じなかったが、以蔵は現地に駆けつけて渡辺を斬った。その時、以蔵は同志に斬られそうになり、名乗りをあげたので、まずいことに、土佐藩士の仕業だと世間に知れてしまった。

 坂本龍馬に頼まれて、勝海舟の護衛をした時、勝に、人を殺すのを嗜むのはやめた方がよい、と言われたりした。以蔵は、酒色のために金が要った。人殺しとして慰労金をもらうようになり、人斬りを稼業とした。

 その後、土佐藩主による勤王党の弾圧があり、会津守護職の駐屯、新撰組の誕生があった。以蔵は浮浪者のように成り果て、捕縛された。土佐藩の警吏が人物鑑定にやってきたが、知らぬふりをした。よって、無宿人として洛外追放の処分となる。それを土佐藩の警吏が捕え、本国へ送還する。逮捕された武市らは搾木(しめぎ)で拷問されても白状しなかった。以蔵は、天祥丸という毒薬をのまされてもけろりとしていたが、自分を利用するだけした師に何を思ったか、すべてを白状し、梟首となった。武市らは断罪されて切腹して果てた[飼い犬に手を噛まれたように]。

 

 幕末維新には面白い人物がたくさん現れたものだ。