ずっと前からキリシタン大名、高山右近のことは気になっていた。この本は、キリシタン大名であったが改易されて金沢に暮らした高山右近が、国外追放されて没するまでの物語である。それ以前のことがらは、回想という形をとっている。

 徳川幕府の切支丹迫害が大阪の陣と連動したものであったこと、当時の長崎の様子などがひじょうによくわかる。村山等安という人物に興味がわいた。

 知的な文章であり、読みやすかった。

 

 1. さい果ての島国より: 来日したイエズス会士が妹に宛てた書簡という体裁をとり、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての日本の状況を説明している。書き手のファン・バウティスタ・クレメンテという人物は Treccani で検索したが実在が確認できなかった。ヴァリニャーノオルガンティーノペドロ・モレホンバルダサール・トーレスら、イエズス会の神父たちについて、帰国した天正遣欧使節が太閤秀吉に聚楽第で謁見したこと、1597年の長崎における二十六人の殉教についてなどが語られている。

 

 2. 降誕祭: 1613年のクリスマス、金沢にて同じイエズス会士から妹への書簡。金沢にキリシタン迫害はさほど及んでいない。[書き手が司祭となっている南蛮寺の前には紺谷坂があるとあるので、今はバス停近くの公衆トイレになっている辺りである。前田利家が、高山右近の妻ジュスタの影響でキリシタンとなった豪姫のために建立した。木造三階建。]天領以外でも幕府の迫害が始まっていた。

 ジュスト高山右近の家来たち: サンチョ岡本惣兵衛、ミカエル生駒弥次郎、ペトロ太郎右衛門などについて。南蛮寺にて、ノアの方舟の芝居が行われる。

 

 3. 豪姫: 金沢の伴天連屋敷の界隈(城の北西側)に住っていた。高山右近は豪姫を訪ね、包みを預かる。中にはロザリオのほかに『スピリツアル修行』(ロヨラの霊操をもとにした観想書)などがあった。金沢城の大手門を設計(1600年)したのは高山右近だとある。再び、右近の家来たち、岡本惣兵衛、生駒弥次郎らについて。

 高山右近、高岡城(右近による縄張り)に前田利長を訪ねる。山岡頭巾を被っていたとある[梅毒にかかっていたと考えられている]。

 

 4. 悲しみのサンタ・マリア: 高山右近は茶人としては南坊と称していた。1614年の元旦、茶会を開き、ジョアン内藤俊忠、トマス内藤好次、宇喜田久閑を招く。右近は清の病とのこと。越前屋より、京にて邪宗取り締まりが始まったと聞く[治部煮が、神父秘伝の南蛮料理だとは知らなかった]。床に「悲しみのサンタ・マリア」という南蛮画を掲げた。古田織部について、太閤秀吉に対するコエリョの不適切な発言について、大阪城に浪人が集められていることなど、話題となる。

 その後、右近は茶室にて沈思する: 自分が棄教せず、明石六万石を捨てた時のこと、九州箱崎に入った関白秀吉が、大砲を搭載したイエズス会のフスタ船に乗り込んできて、漕ぎ手の中に日本人奴隷がいるのを見つけ、その三日後に禁教を表明したこと、千宗易(利休)が秀吉の使者として右近のもとに遣わされたこと、関白の改易令を家臣に伝えたときのことなど。

 

 5. 金沢城: 1614年の正月。取りやめになっていた年賀伺候が急遽とり行われることとなり、高山右近も登城する [金沢城の天守閣は1602年に落雷で失われていた]。筆頭家老、本多政重(幕府の本多正信の次男)と横山長知(ながちか)について。幕府の前田家への疑念と態度について: 二代目の利長は、母の芳春院を江戸に人質として出さねばならなかった。幕府の出した伴天連追放令が、高岡の利長のもとに届き、それが金沢に届いた。

 横山長知は、高山右近の娘ルチアの舅である。1578年の切支丹禁制により、高山右近は明石を失い、博多の小島、小豆島、肥後を経て、前田利家に引き取られたのであったと想起する。右近は、このたびの追放令を紺谷坂の南蛮寺にあるパードレ・クレメンテに伝える。ルチアは、横山康玄(やすはる)との離縁を決める。南蛮寺にて最後のミサをあげ、神父とイルマンは京への身柄移送の旅に発った。

 

 6. 雪の北陸路: 横山長知が、右近とその一族の京への護送という幕命を伝えてくる[当時、金沢には6000人のキリスト教信者がいた、とある]。右近は、前田家に地行を返納する。マリア像の絵は弟の太郎右衛門に託した。護送隊の総指揮は篠原一孝である。内藤如安一家や岡本惣兵衛ら家臣を含む右近の一行は北陸路を南西に進む。厳寒の吹雪の中、まるで「八甲田山死の彷徨」だ!![白皚皚(はくがいがい)などという形容詞を初めて知った。]

 

 7. 英雄たちの夢: 出羽守(篠原一孝)は、ミサをあげることを許す。途上、戦国時代の武将たちの城跡、戦地などを見ながら往年を想起する: 賤ヶ岳の戦い、彦根城、長浜城址、安土山(右近は、オルガンティーノ神父とともに訪れた時のこと、安土のセミナリオを創建した時のこと、光秀軍に攻められ、神父らが沖島に逃れたこと、などを想起する)。

 

 8. 湖畔の春: 右近らは白装束の囚われ人として、明智光秀の城下であった坂本の小寺に入る。内藤如安について。右近は、イグナチオの霊操を行なうのを日課とする。内藤好次は、右近の伝記を書こうとして、取材していた。

 出羽守より、右近らは大坂へ向かうよう、子女は釈放されること、と告げられる。京では、内藤如安の妹ジュリアらの比丘尼と合流するとも知らされる。

 

 9. 花の西国路: 右近たちは同心雑色二十余人を引き連れた与力に護送され、京へ入り、桂川を越えていく。山崎の合戦を想起する。右近の城であった高槻は内藤信正の城となっていた。荒木村重の謀反について、父飛騨守のこと、織田信長、ヴァリニャーノ巡察師のことを想起する。

 安治川河口の波止場に着く。内藤好次から、このたびの伴天連追放は、大坂城側にキリシタン大名が加勢するのを防ぐためだという話がでる。

 

 10. 長崎の聖体行列: この章は、またしてもクレメンテ神父から妹への書簡という体裁をとっている。それによれば、禁教令が金沢に着いたのは1614年2月20日、翌日に神父らは金沢を発ち、それに右近らの一行が続いたという。神父らは十日後に京都に入った。天主堂で何度もミサを行なったとも書いている。4月初めに大坂を出て、瀬戸内海を経て、一ヶ月の船旅の後に長崎に着いた。出迎えてくれた人々の中に、メスキータ神父、ペドロ・モレホン神父、ヴィエイラ神父、原マルチノ、中浦ジュリアンらがいた。宣教師やキリシタンとして捕縛された人々は長崎にてかなりの自由を満喫できたようである。右近はトドス・オス・サントス教会附属の宣教師館に住まい、メスキータ神父のサンティアゴ病院にて癩病患者の介護にあたった、妻と娘も然り、とある。

 さらに、長崎にて、聖体行列が大々的に行われたとも報じている。フランシスコ会、ドメニコ会に倣い、イエズス会も。長崎の代官アントニオ等安については、ローマ総督ピラトも無視できないヘロデ王のような存在だとも述べている。この聖体行列は5月9日から29日まで続いたが、突然に鎮火し、迫害の予感が迫ってきた。

 

 11. キリシタン墓地: 代官の村山等安に案内されて、右近はキリシタン墓地を訪れる。父ダリオ飛騨守(日本人ロレンソにより受洗した時のこと、フロイスから語学を学んだことなどを想起)。ザビエルとともに日本にやって来たコスメ・デ・トーレスについて。ガスパール・コエリョ、ルイス・フロイス、カブラル布教長のことなど。

 港には、ポルトガルのナウ船が錨をおろしている。

 太閤により長崎の西坂の丘で磔刑に処された人々の遺骨はマニラに運ばれたという。右近は、村山等安の屋敷に招かれる。大坂城に拠す浪人は十万ほどで、そのうち一万がキリシタンであろうという。

 

 12. 遣欧使節: 長崎入りしてから五ヶ月が過ぎ、秋になる。右近はイグナチオの霊操を実践している。すると、キリストと同じ聖痕、stigmata が四肢と脇腹に現れた!! [これは史実か、小説上の話か?]メスキータ神父は病床にあり、原マルチノに看病されている。大阪の陣が始まろうとしており、徳川幕府はオランダとの交易に傾きつつあった。メスキータは『ドン・キホーテ』を神学書として愛読している。伊東マンショが既に他界していたことが話題となる。原マルチノは活版印刷技術を会得し、多くの出版物を世に出していた。中浦ジュリアンが千々石ミゲルを見つけてくる。衰弱して物乞いをしていたのだ。メスキータに終油の秘蹟を授けられ、千々石ミゲルは天に召された[もしかしたらこの部分はかなり創作されているかもしれない]。

 

 13. 追放船: 右近らの配流先は、フィリピンの呂宋(ルソン)へと決まる。右近は長崎奉行、長谷川佐兵衛藤広に挨拶し、餞別として鎧兜一式を受ける。幕府の禁教令と彼らの配流は、豊臣方にキリシタン大名が加勢するのを恐れてのことかと思われた。乗船まで十数日留め置かれ、古ぼけたスペイン船に乗せられる。メスキータ神父は天に召され、クレメンテ神父と中浦ジュリアンは小舟に乗り換えて長崎に潜伏した。

 船旅の難儀。船酔い、嵐、海水の流入、船体の破損など。

 

 14. 迫害: 1614年のクリスマス。またしても、雲仙に潜伏したクレメンテ神父から妹への書簡という体裁にて、当時の状況が語られる。

 ヴァリニャーノ師が日本に導入したグーテンベルクの活版印刷機は、ポルトガル船にてマカオに送られることとなった。秋には宣教師たちの国外追放令が伝えられた。追放される人たちには五隻の船が準備され、そのうち右近やイエズス会士の乗る船は三百人にふくれあがり、三隻がマカオへ、二隻がマニラへ向かうことになった。十一月にはメスキータが昇天した。自分と中浦ジュリアンは潜伏することになった。

 長崎奉行、長谷川佐兵衛は、十一の教会、司教館、コレジヨなどを破壊させた。

 大坂では戦争が始まった。バルダサール・トーレス神父はその戦乱に挺身した。

 

 15. 城塞都市: 右近らはルソン島に至り、沿岸航海を続けていたが、無風と逆風にいたぶられていた。クレメンテの旧友クリタナ神父[検索できず]が落命し、遺体をマニラに埋葬するため、手漕ぎで運ぶこととなり、ファン・デ・シルバ総督に到着を告げることができる、とペドロ・モレホン神父は言う。そして翌々日、右近らの到着を知った総督によって差し向けられた歓迎の出迎えとして、ガレウタ船がやってきた。

 これに乗り移った右近たちを、副総督ドン・ファン・ロンキリヨが歓迎し、マニラに向かう。マニラの中心部におけるスペイン人の居住区、城塞都市(Intramouros)についての説明。総督邸の描写。馬車で昼食会場へ。大聖堂(Iglesias Metropolitana)を目にする。そこでは、オルガンの演奏による Te Deum Laudamus in gratiarumactionem が響き渡っていた。着いたイエズス会のコレジヨでもテ・デウムが奏された。

 マニラの日本人街について。蚊の多さについて。贈り物、大司教ら、来客について。総督ファン・デ・シルバ自身も訪ねてくる。スペインの敵はオランダだという。総督は右近ら、キリシタン大名について、ルイス・デ・グスマンの本によって知っていた。そして通ってくるようになった。右近は、長崎奉行からの餞別であった鎧兜を総督に贈ることにする。茶の湯でもてなしたりもした。総督は、宮廷基金から右近に援助金を出したいと提案してきたが、右近は辞退した。

 ◀︎マニラ大聖堂: 高山右近は生誕祭のミサに参列した

 

 

 16. 南海の落日: 早起きになった右近は、惣兵衛を伴い、早朝の散歩にでて城壁に登る。日本人居住区ディラオについて惣兵衛が説明する。獄舎につながれたフィリピン人反乱者の悲鳴や呻きを耳にする。城壁の外には鰐がうようよしている。

 内藤好次が高山右近伝を脱稿したと持参してくる。モレホン神父はスペイン語にして出版したいと言っている。

 からだがだるく食欲の失せた右近、死期を悟り、モレホン神父を呼びに行かせ、終油の秘蹟を授かる。高熱を出して寝込む。

 モレホン神父から、総督の配慮により右近の家族に年金が支給されることになったと聞かされる[蚊の感染症にやられたように思える]。

 

 17. 遺書: またしてもクレメンテ神父から妹への書簡。1614年の大追放後に起きた大坂戦争は翌年に再燃し、キリシタン武将は壊滅した。

 禁教令は金沢の庶民にまで及んだことを、前田家おかかえ商人、越後屋ディエゴの番頭より知る。また、右近と親交のあった家老横山長知と息子の康玄は、隠棲していたが、大坂の陣に際して前田家に返り咲きを許されて活躍し、家老としても再び重用されていると知った。バルダサール・トーレスは戦地を辛くも逃れ、和泉に至って病気に倒れた後、長崎に現われた。海外に追放されたイエズス会士のうち七人が再び日本に潜入してきた: ジョヴァンニ・バッティスタ・ゾラ神父、セバスチャン・ヴィエイラ神父らである。ヴィエイラ神父からは、ジュスト右近の訃報がもたらされた。総督と大司教により壮大な葬儀が営まれたという。右近の家臣、岡本惣兵衛は浜辺で切腹して殉死した。シルバ総督は、オランダに対する遠征軍を率いたが、作戦中に熱病に倒れて急死した。

 長崎奉行所の取り締まりはますます厳しくなり、密告者に褒美を与える制度を考え出し、代官のアントニオ等安もそれによって失脚した。とはいえ、長崎の住人のほとんどがキリスト教徒だったので、根絶やしにすることは不可能であった。

 イエズス会日本管区長パシェコも逮捕され、ゾラ神父も逮捕された。

 この書簡を遺品の中から見つけた中浦ジュリアンは、クレメンテ神父の他界は1626年、パシェコ管区長、ゾラ神父、トーレス神父は1626年6月20日、長崎西坂にて火刑に処されたと本部に報告している。本人は1633年、穴吊りの刑により殉教した。

 

 解説 (若松英輔): 加賀乙彦は、右近によって生きられたイエスの生涯を描き出したとしている。彼には『ザビエルとその弟子』『殉教者』という著作もある。

 2015年、ヴァティカンのローマ教皇庁は高山右近を福者とした

 

 ▼高山右近が金沢城の一隅に建てた南蛮寺、今は公衆トイレになっているわ。

高山右近について: https://www.touken-world.jp/tips/46491/