来月、オットと会津若松への旅をする。東山温泉に泊まり、レンタカーで大内宿にも行く予定だ。そこで、暇を見て、会津関係の本を読んでみようと思った。

 この本は会津藩主、松平容保の話であるが、幕末の状況がとてもよくわかった。松平容保が明治維新下、日光東照宮の宮司となったことは知らなかった。しかも、松平容保の孫と秩父宮殿下の婚礼によって、会津の義が認められたという結末もまったく知らなかった。さらっと読めたが、いろいろと勉強になったし、感慨深いものがある読書であった。メモる。

 

 1章 鳥羽伏見から: 慶応四年(1868年)の一月三日、伏見奉行所にて、京都守護職にあった松平容保は幕府本営からの武力行使許可を待っていた。鳥羽街道で戦闘が始まり、弟の定敬(さだあき)が進軍していた。そのうちに薩摩軍の攻撃が始まった。

 第十五代将軍徳川慶喜の大政奉還に、松平容保兄弟は反対した。朝廷は、慶喜に将軍辞職の承認のみでなく、官位と幕府直轄地の返上を求めてきた。だが直轄地は朝廷から賜ったものではないから、返すいわれはなく、慶喜は拒んだものの、京都を離れた。京都には薩長が居座り、朝廷を操っていた。松平兄弟の進軍を受け入れた慶喜は、奸臣に対する誅伐を発表し、京都進軍が始まり、兄弟がそれぞれ軍を率いた。だがそれは足止めをくらってしまった。翌日には敵軍に錦旗がひるがえり、勝手に退却が始まってしまった。慶喜は大阪城で仮病に臥せっていた。

 錦旗の信ぴょう性は怪しかった。容保の家臣、神保修理が退却して出直しとてはどうかと唱える。慶喜は出馬するようなそぶりを見せ、一同はその気になった。出陣の詳細を打ち合わせると言われるまま、一同は船着場へと導かれ、淀川を下らせられ、開陽丸に乗り移らせられようとした。慶喜は江戸に帰ろうとしたのである。慶喜は、松平兄弟の進軍を後悔していた。自分には戦う意志はなかった、と。松平兄弟は、慶喜は、有栖川宮の外孫なのだから、公家なのだと思うことにした。

 

 2章 左近衛中将: 松平容保の生い立ちについて。祖父は水戸徳川家の次男に生まれ、その子が会津松平家の藩主となり、その息子が容保。藩祖、保科正之が定めた会津の家訓について。ペリー来航と、幕府の台場建設について。六か所のみつくられ、幕府は弱腰だとみなされたこと。容保は江戸湾の海防を命じられた。

 尊皇攘夷運動がなぜ水戸で生まれたかについて: 水戸黄門の歴史編纂にさかのぼる。開国派の大老、井伊直弼桜田門街の変について: 水戸藩士によるピストルと刀の襲撃暗殺事件。幕府による水戸藩への出兵を、容保が撤回させ、水戸藩存亡の危機を救ったことで、その政治手腕が評価された。朝廷も評価し、左近衛中将の官位を授けた。

 久光の代になった薩摩藩が千人の軍を率いて上京する。薩摩は政治改革を標榜している。皇室と幕府の関係改善のため、公武合体が画策される。

 尊皇攘夷の浪士が横行していた。京都の治安維持のため、外様の薩摩に京都に居座られるのを潔しとしない幕府により、容保は京都守護職を引き受けさせられる。その本陣は東山の金戒光明寺に定められた。攘夷派は、幕府に譲位を誓わせるべく、天皇の下鴨神社、そして石清水八幡宮へ、春日神社への行幸を画策するが、失敗する。

 長州藩は、御所の門で狼藉を働く(禁門の変)。長州藩と攘夷派の公家き京都を追放された。夏には、容保は、三十人ほどの浪士を預かる。壬生に拠した彼らは新撰組と呼ばれることになる。池田屋の変、長州藩士の上京。蛤御門の変。幕府による長州征伐と将軍家茂の他界。第十五代将軍となった徳川慶喜は、幕府がなくなってもよいという考えの持ち主であった。

 

 3章 和田倉門内: 話は慶応四年一月に戻る。大阪から逃亡した将軍の一行が品川沖に至る。浜御殿に上陸した一行のもとに勝麟太郎がやってくる。

 幕末には大名の人質制度、参勤交代が緩和された。

 朝敵とみなされた将軍に対する追悼令が出される。容保の官位剥奪と領地没収も宣告された。鳥羽伏見の戦いに際して撤退を提案した臣下の神保修理が追い詰められており、容保はその身柄を勝海舟に託そうと考える。弟の定敬も城を失い、桑名藩の飛地である柏崎へ身を寄せようとしていた。兄弟は、徳川慶喜が恭順を決めたら従うしかないと覚悟する。

 上様に謁見した兄弟は、慶喜に彼らを大阪から連れ出したことを詫びた。慶喜は上のの寛永寺に蟄居し、江戸城開場は勝海舟に委ねられた。神保修理は成り行きに追い詰められて切腹し、それを知らされた容保は心を痛めた。

 

 4章 泣血氈へ: 鶴ヶ城では、恭順派と抗戦派が激論していた。そして仙台藩に対して会津征討命令が下る。そこに江戸城開場と、徳川慶喜の水戸蟄居という知らせが届く。会津藩に対しては、恭順するならば、容保と養子の喜徳の首を差し出せという条件が出される。だがそれは、家名の断絶と藩の消滅を意味した。ようやく徹底抗戦という心が決まる。

 部隊編成は、年齢により、白虎、朱雀、青龍、玄武と分けた。詳細▼

 宇都宮の戦い、白河城の戦いと西郷頼母の活躍、鎮撫隊の世良修蔵が仙台藩士によって殺害されるに至り、奥州から越後にかけての諸藩は、武力により、賊軍という汚名をそそぐことで徳川家への忠義を果たすことに同意するに至る。

 土方歳三もやってきた。近藤勇は出頭し、斬首されたという。

 飯盛山の山裾、滝沢村に本陣を移す。戸ノ口原の苦戦に、援軍として白虎隊を出す。本陣に残った容保を敵は見つけられず、空き家だと思って撤退する。

 鶴ヶ城に籠城を決める。攻囲される。西郷頼母は、死なずに、生きて、会津の正義を世に問うのだと言い、姿を消す。家老の萱野は、敵が手加減しているようだと言う。アームストロング砲も使わず、空砲を使ったりしていたから。

 白虎隊が自害したという知らせが入る。その遺体は、伊惣治という者が妙国寺に葬ったという。苦渋の決断により白旗を上げる。藩主親子は、緋毛氈に座らせられ、降伏状を提出し、謹慎先の妙国寺へと護送された。容保は白虎隊が埋葬された場所で手を合わせた。開場式で敷かれた緋毛氈は切り刻んで藩士に配られ、泣血氈と呼ばれることになる。八ヶ月後、家老の萱野権兵衛が切腹し、容保親子は他藩への幽閉ということになった。

 

 5章 やませ吹く地: 会津開城の後、容保らは鳥取藩の預かりとなり、その江戸藩邸に幽閉された。その間に、容保の二人の側室がそれぞれ女子と男子を産んだ。三ヶ月後、その男子容大(かたはる)を後継として家名再興が認められた。家臣たちも謹慎を解かれ、下北半島に移封とされた。その地は斗南と名付けられた。

 明治四年七月、容保らを乗せた蒸気船は北に向かい、荒波にもまれて陸奥湾に入り、函館で準備してから、預け替えとなった斗南に至った。だが着いた途端に廃藩置県となる。やませ吹く寒さと不作に耐えられず、会津に戻ろうとする者もいた。

 弟の定敬は、函館から上海に逃亡した後、帰国して出頭し、桑名藩の預かりとなった。

 養子の喜徳は、徳川慶喜の弟であった。そして最後の会津藩主となった。翌明治五年、親子は斗南藩の預かりを解かれ、東京藩邸に移り、細々と暮らしていたが、喜徳の実家、水戸藩で世継ぎが他界したので、容保と離縁して、水戸の徳川を継いだ。

 明治十年の西南戦争で、旧会津藩士は活躍し、その記事は喝采を受けた。

 その三年後、明治十三年、中川宮が年始にやってきて、容保を日光に誘った。日光東照宮はいろあせていた。その晩、宿で、容保は西郷頼母と再会する。ここで、容保に東照宮の宮司を務めてほしいという話がでた。会津戦争の際に、佐幕派とみなされたことから鎮撫総督にさせられた公家の九条道孝が、あの成り行きをずっと憂えており、掌典職となった今、容保を日光東照宮の宮司にしようと考えたのであった。容保は引き受けることにした。西郷頼母は、禰宜として容保を支え、東照宮の修復事業を進めた。

 容保が五十九歳で他界してから三十五年後、九条道孝の娘の節子が大正天皇に嫁いで貞明皇后となり、容保の孫の節子が、大正天皇の次男秩父宮に嫁ぐこととなった。妃殿下となり、勢津子と改名した。伊勢の勢と会津の津を組み合わせたのである。こうして会津開城から六十年を経て、会津の名誉は回復されたのであった。

 

 解説 松平保久(会津松平家14代もりひさ): これを書いたのは松平容保の曾孫である。秩父宮のおしるしが「若松」であることも偶然ではないと語る。会津の義は、九条道孝の思いを継いだ貞明皇后の強い意志と周到な準備により成し遂げられたのだと語る。