「挽歌」というくらいだから哀しいとは思ったが、大友家の末期は哀れであった。それにしても、フランシスコ・ザビエルと大友宗麟の出会いはこのように奇しきものであったのかと感慨を新たにした。

 

(上より続く)

 宗麟対島津義弘: 1571年、宿敵の毛利元就が他界。宗麟は家督を嫡男の義統(よしむね)に譲り、臼杵城に隠居していた。家臣の謀反に悩まされてきた宗麟は、激しやすい次男(親家)との確執を防止すべく、次男を僧侶にしようと考え、臼杵に禅寺を建てることとする。だが仏門に入ることを厭う次男は、教育係の入れ知恵により、切支丹になろうかという考えをもつ。

 日向の領主、伊東義祐は薩摩の島津義弘に攻められて敗れ、豊後に逃れてきた。臼杵にいたバプティスタ神父の書簡によると、戦争が落ち着くと、キリスト教に対する反感や誹謗が減ってきて、教会に入ってくる人が増えてきた。宗麟も教会を訪れ、日本人に対して反感を持っていたカブラル神父も、宗麟の次男の洗礼の意向を喜んだ。後日、受洗した次男は、クリスマスの夜、寺を打ち壊しにかかり、その結果、キリスト教は仏僧たちから敵意を抱かれることとなった。

 

 遠い太鼓: 日向は大友の保護国であったから、そこを攻めた島津は、大友が必ず攻めてくると考えていた。島津義弘の軍団は鍛錬を受けた精鋭であった。間者を放って集めた情報によれば、切支丹をめぐって内部に確執があった。宗麟は若者たちに、外に目を向けよと言い、若者たちは海外事情を教えられて興奮した。その中に、田原親虎という親賢(紹忍と改名していた)の養子がいた。本人は切支丹に改宗したいと思ったが、宗麟の婿となるため、養父の紹忍に反対される。妹である宗麟の正室が認めるはずはなかったから。宗麟はそのような正室を避けるべく、鷹狩りに逃げた。

 

 離別の日: 親虎の洗礼を阻止すべく、田原紹忍とその妹で宗麟の正室が臼杵の教会へ兵を差し向け、教会を焼こうとしていた。民衆による投石も激しくなった。ルイス・フロイスはその様子を『日本史』に書いている。信徒たちは神父たちとともに殉教したいと集まり、それを見た異教徒たち二十三人が浄福にあやかりたいと受洗したのだという。親虎は勘当され、宗麟の次男の親家が田原紹忍の養子に名乗り出る。

 正室とその兄が切支丹寺に兵を送ると聞いた宗麟は、正室に別離を告げ、臼杵の城を出て行った。五味浦に館をつくり、そこに住むこととする。

 日向北部を領する土持親成が薩摩の島津に寝返った。本人に本心を聞くという慎重論が採択されたが、意味ないことであった。

 宗麟の正室は正気を失い始めたが、宗麟は妻のヒステリーを避け、無視した。

 

 神の国: 臼杵教会のバス修道士の書簡は、宗麟が夫人と別居したことに加え、その侍女であった控えめな女性(露という)が宗麟の身の回りの世話をするようになり、夫人が嫉妬に狂ったと告げている。カブラル神父を招き、心を打ち明け、キリストと阿弥陀如来の違いなど、信仰について様々な質問をした。そして、新しい妻となった露とその娘は、五味浦の館で受洗した、とルイス・フロイスは述べている。

 宗麟は、北日向の土持親成の懲罰のため、嫡男の義統を総大将として軍を出すことにする。そしてそれは簡単に集結した。

 その頃、臼杵に出張していたルイス・フロイスが聞いたところでは、宗麟はようやく機会がきたと、[おそらくジョアン修道士に]受洗の決意を明かし、カブラル神父が豊後に戻るのを待って受洗した。宗麟の脳裏からザビエルの姿は去らなかった。それだからこそ、洗礼名をフランシスコとしてもらったのである。もと正室や保守派は怒ったが、息子の義統はこれに影響を受け、極端な寺社への迫害を始めた。

 宗麟は北日向に切支丹国の雛形をつくりたいと考え、軍を率いて南下し、その理想郷を、西洋の音楽にあやかり、ムジカ(無鹿)と名付けることにした。

 

 主よ、私は、疲れました: 1578年晩秋、大友軍団は高城を攻囲した。島津義久の援軍は雨にたたられて動きが遅かったが、大友軍が手をこまねいているうちに、攻勢に出て、総大将の田原紹忍を敗走させ、大友軍に多くの戦死者を出した[耳川の戦い]。切支丹の理想郷をつくるための聖戦は失敗し、兵士たちは天罰だと神父たちを罵った。敗戦の将、紹忍も敗戦を切支丹のせいにしたが、宗麟は信念を変えず、敗戦を主の受難になぞらえた。一方、息子の義統は信仰を捨てようと考える。

 宗麟は余生を信仰に生きようとした。フロイスはそれに感動すらしている。

 だがそれは許されなかった。大友の弱体化に乗じて、肥前の龍造寺隆信が反乱を起こしたのである。田原本家も紹忍の力をそごうと企てた。家臣たちは、宗麟に臼杵に戻ってもらいたいと願う。

 

 ヴァリニャーノ神父の野望: 臼杵の教会は迫害され、危機に瀕しており、義統はもはや教会を守ろうとはしなかった。

 国東半島では田原一族の争いが起きる。二人の息子の確執を懸念していた宗麟は、次男の親家を田原本家の養子としてはどうかと考え始める。

 その頃(天正7年、1579年)、日本での布教の実情を調査すべく、イエズス会のヴァリニャーノ神父がやってきた。有馬に神学校を開設し、布教拠点の一つである豊後をを訪れ、宗麟に会い、会士たちが日本語と文化に疎いことが布教の妨げになっていることを知ると、日本人のラテン語習得、西欧人の日本語習得のため、臼杵に修練院(ノビシャード)を設立することにした。

 

 天正少年使節: 1580年、国東半島での謀反が鎮圧された。豊後では切支丹に対する嫌がらせが減り、この頃最も切支丹が盛んになり、多くの改宗者を出した。

 ヴァリニャーノ神父は、物乞いをしていて教会に引き取られた少年と会った。日向の領主の親戚であるが、戦争孤児となった、後の伊東マンショである[アマゾンprimeで見たドラマの冒頭はまさしくこの記述そっくり]。後に、天正遣欧使節となる四人の少年は、有馬の神学校でラテン語をはじめ、西洋の音楽まで、さまざまなことを学んだ。ヴァリニャーノ神父は、織田信長への謁見を求めようと、宗麟の所有する船で堺に向かった。この時に連れてきた黒人に信長が興味を持ったというエピソードが、信長公記に記されている。神父は五ヶ月安土に滞在し、神学校を建ててから、豊後に戻った。宗麟はその頃、津久見に住まい、臼杵に美しい教会堂を建て、信仰を篤くしていた。ルイス・フロイスも布教は臼杵と府内でめざましく発展し、府内のコレジョでは百五十六人の日本人が学び、その近郊の町々でも二千人以上が受洗したと述べている。ヴァリニャーノは布教にあたり、日本の風習を尊重すべしという警告書をしたためた。有馬の神学校の校長モーラ神父に、ヴァリニャーノ神父は、少年たちをローマに送るという計画を語る。神父の決意は固く、伊東マンショを宗麟の甥だと偽装し、宗麟からローマ教皇に宛てた信書を捏造することにした。

 

 最後の闘い: 天正十年(1582年)の二月二十日、使節団は船に乗った。その二年後、有馬は隣国佐賀の竜造寺隆信に攻められると、大友義統は頼りなしとして、薩摩の島津義久に助けを求め、隆信を討ち殺すことができた。このように大友を見捨てて島津につく国人が多くなってきた。大友軍を支えていた立花道雪が他界すると、大友軍の士気はますます衰えた。宗麟は、堺の天王寺屋宗達に畿内の様子を聞くと、本能寺以後の覇者は羽柴秀吉だと理解し、その関白様に援助を乞うこととし、自ら大阪に赴くこととした。天正十四年三月、宗麟は臼杵を発つ。

 一方、島津は秀吉のことを見くびっていた。援軍の四国勢が豊後に到着し、秀吉の到着までは功を急ぐべからずという命令を忘れて、島津勢に討たれた。

 

 矢乃の死: 島津軍の狼藉が激しかったことはルイス・フロイスが書いている。秀吉からの援軍到着の知らせが入る。臼杵城の中には、宗麟が離縁した妻の矢乃がいた。黒田長政軍の反撃を恐れた島津軍は、何かの呪術か、鶏を殺して足を上に出して地に埋め、姿を消した。豊臣軍団が上陸すれば、九州の国人は島津を捨てて、秀吉に内応するのは明らかであった。秀吉勢は、武具や装具も光り輝き、立派であった。秀吉自身は天正十五年三月一日に出陣し、総勢十八万六千であった。激戦の末、島津軍は撤退を余儀なくされた。戦勝を知らされた宗麟は津久見に帰ることにする。その数日後、矢乃の容態は悪化し、孤独に息を引き取った。

 

 臨終の頃: 秀吉は九州征伐を終えたら、朝鮮と明に遠征することを決めていた。宗麟にはもはや欲や野心はなかった。剃髪して赦しを乞うた島津義久は赦された。宗麟には日向が隠居料として与えられたが、宗麟はそれを拒んだ。微熱を出した宗麟はラグーナ神父を呼ぶように求めた。疫病にかかっており、告解を望んだのである。

 ラグーナ神父は、大友義統がゴメス神父により洗礼を受けたと伝えた。

 豊臣秀吉はコエリョ神父の船に乗り、南蛮人のことについて考えを巡らせていた。その夜、秀吉が切支丹を禁制としたという知らせがコエリョ神父のもとにもたらされた。宣教師は二十日以内に国外退去を命じられた。その布告が出る一ヶ月前、大友宗麟は、秀吉による切支丹禁制を知らず、安らかに他界していた。

 

 失ったもの: 世俗的野心を捨て、五十八歳の生涯を終えた宗麟はフランシスコ・ザビエルのことを忘れがたく思い続けたのであった。葬儀は津久見の教会堂で荘厳に行われた。秀吉の禁教令が出された後であったら、宗麟はほかの大名たちのように棄教しただろうか、と著者は問う。棄教せず、領土領民を返上した高山右近のように信仰を貫いたかもしれないと私は思う。

 大友義統は聚楽第にて秀吉に謁見し、茶会に招き、後陽成天皇の御行幸に供奉させ、秀吉の吉を与えて、吉統と名乗ることを許した。大友家を朝鮮出兵に利用するためである。そして秀吉は吉統に切支丹の志賀親次誅殺を命じた。

 だがやがて、秀吉の禁教はさほど危惧したほどのことはなく、南蛮貿易を考慮して、形骸化していった。1590年、ヴァリニャーノ神父は天正少年使節とともに帰国し、秀吉への謁見を願い、まずは、豊後の君主、吉統に会う。吉統は、太閤天下の御沙汰に従ったまでのことで、棄教は本意ではなかったと言い訳をした。[秀吉に聚楽第で謁見した使節一行は西洋の音楽を奏でたことが知られている。]

 

 豊後の臆病者: 1592年、武将たちは朝鮮出兵のため、秀吉の大本営、名護屋城に集められる。秀吉は横暴な独裁者と化しており、弟の羽柴秀長千利休らが自害させられていた。先陣を命じられた小西行長は、秀吉には内密のまま和平交渉に入ろうとする。初めは快進撃を続けたが、第二陣に加藤清正、第三陣に黒田長政が投入されてから、朝鮮側の抗戦が始まる。和平交渉の前に漢城の王宮は燃え、王は逃れ、やがて明が援軍を送ることを決め、奥地に入った日本軍は冬将軍に苦しめられる。雪以外に口にするものはなく、飢えて痩せ衰えた日本兵たちは敗戦を自覚する。大友義統はうき足立ち、小西行長を助けることができなかった。ともあれ、日本軍はなんとか明軍を退けることに成功し、休戦の機運となる。戦況を聞いた秀吉はその中で、「大友勘当」の朱印状を出す。それは「豊後の臆病者」という言葉で始まり、吉統は豊後を没収されたのである。

 

 父と子: 大友の豊後改易の実情について: 秀吉は戦費捻出のために改易したようだ。吉統の身柄は毛利輝元へ預けられることとなる。大友家の一行は山口により集まり、お家再興を願いつつ秀吉の死を待つ。秀吉は豊後の卑怯者を常陸の水戸へと移す。

 慶長三年八月、太閤秀吉が他界。関ヶ原に際しては、毛利輝元の誘いに乗り、大友吉統は西軍に付くことを決める[石垣原の戦い]。敗戦後、吉統は出羽国、湊城に幽閉され、秋田の冬を過ごすことになった。二年後、城主の秋田実季の転封に伴い、吉統も常陸国へ至る。晩年は切支丹の祈りと苦行の中で過ごしたようだ。

 

[大友宗麟に讃美歌を捧げたい。今度は高山右近の本も読んでみよう。]