私はガイドをやっているのでしばしば京都を訪れる。太秦にしろ伏見稲荷にしろ、聖徳太子の家庭教師にしろ、桓武天皇の遷都にしろ、この氏族の名前は絶対に出てくる。ネットなどではいろいろ知っていたが、お手軽なペーパーバックがあったので読んでみた。著者の田中英道氏の書いた西洋美術史の本を持っていたが、アンニバレ・カラッチのことをアンニバーレと書いており、私は迂闊にもそれを信じて自分の本にアンニバーレと書いてしまい、失敗した思い出がある。この本も初っ端5ページ目から眉唾したい気分に襲われた。ユダヤ人のディアスポラがネロ帝時代に始まっただって? もっと古いでしょう? 前8西紀にアッシリアにより北王国が滅ぼされた時のはずでしょう? この先生はアバウトなところがあるからツッコミを入れねばならないが、せっかくだから読んでみた。

 

 はじめに: 秦氏について: 応神天皇の時代[3〜4世紀?]に来日帰化、土木・灌漑による水田開発、養蚕・酒造により財をなす。聖徳太子の側近、秦河勝の存在は有名。

 その秦氏がユダヤ人だと断言する根拠: 太陽信仰により、は根拠が希薄。1世紀のユダヤ戦争でローマに敗れてからという説もいまいち。秦氏は、中央アジアの現カザフスタンあたりにあったと思われる弓月国というキリスト教(ネストリウス派景教)国を経て中国から朝鮮半島に渡り、渡来したようだ。「秦」とは漢民族にとって「外の人」という意味。秦始皇帝の肖像画に見られる相貌はユダヤ系人種的。

 遺伝子学的には、Y染色体のD2系統は、アジアでは日本以外にはほとんどなく、ユダヤ人と日本人がおもに持っている。ユダヤ的特徴をもつ埴輪? ふむ。

 日本に海外の先進文化をもたらしたのはユダヤ系渡来人。土木技術を以てして平安京の造営に尽力した(治水、古墳造営も)。また、全国の神社の大半は、八幡社しかり、稲荷神社しかり、秦氏がつくった(?)。確かに神社の構造はユダヤの神殿と似ているところがある。もともと日本は岩そのもの、山そのものなどを祀っていたのだから。

 

 第1章 平安京造営について語られていない真実: 平安京の面積[東西4,5×南北5,2km=23.4㎢=2340ヘクタール]は、2500ヘクタールの平城京とほぼ同じ。

 遷都した桓武天皇の母、高野新笠の祖先は帰化人(百済の武寧王の末裔)であったが、秦氏系だという説は検索しても見つからなかった。ともあれ、秦氏は用地と私財を投じて平安京造営に尽力した。大内裏は秦河勝の自邸があった土地に建てられた。右近の橘は秦河勝邸にあったものだという説あり。

 秦氏は山背国にあり、養蚕、機織り、酒造、鍛冶、土木の技術を以て財を成した。下位貴族ながら実務に長け、葛野大堰を建設するなど、京都盆地を土地改良した。

 日本の2/3は渡来人であり、そのうち2/3は縄文・弥生時代に既にやってきており「神別」(天津神・国津神の子孫)と称され、関東・東北に定住していた。

 平安京のヘブライ語訳は「平安な都」でエル・シャローム、つまりエルサレムである。桓武天皇は遷都した年11月8日に燔祭[生贄を焼く儀式]を行なった。

 菊花紋について: 皇室が使うようになったのは後鳥羽上皇以降(鎌倉時代)だから、これとユダヤ人の日本渡来の証拠とするのは、考え過ぎの気がする。

 平安京の人口(10万人くらい?):『新撰姓氏録』(816年)によれば、1/3を渡来人が占め、さらにその1/3が秦氏、つまり京都の1/9が秦氏系であった?

 

 第2章 日本「古代史」の通説の誤り: 渡来人の中には騎馬民族がいた。ユダヤ系の人が渡来したのは3、4世紀頃と言われるが、それ以前に入った可能性も高い。最も多く入ったのは5世紀後半から6世紀初頭の雄略天皇の頃。京都府葛野郡史概要(1922年編纂)によれば、秦氏は新しき文化と巨富の所有者とされている。平安遷都後は財務官僚として活躍。専門知識に長け、一族の惟宗氏以下は法律に明るかった。

 弓月(クンユエ)国: その位置はカザフスタンあたり。3世紀くらいに、弓月君が新羅による妨害を除いてもらって渡来したいと応神天皇に派兵を要請し、百二十県の民(19万人くらい)を率いて帰化を実現したと『日本書紀』にある。『日本三代実録』には、この人は秦始皇帝の十三代目の孫とある。その秦氏は、漢民族ではない遊牧民族であり、秦始皇帝(前3世紀戦国時代、秦の皇帝で、天下統一を遂行し、中央集権国家をつくり、万里の長城などの大規模な公共事業を行なう)の容貌は『史記』の記述は西域の人種を思わせる。その陵墓は兵馬俑

 この秦氏は、日本の皇位をのっとるようなことはせず、守り、多大な技術力と情報力を以て朝廷に尽くした。秦大津父のエピソード。

 

 第3章 太秦と秦河勝: 秦氏が酒造と絹織物により、ウズマサという姓を賜り、朝廷に官職を得るようになった。ヘブライ語のウズは「光、東、文化」、マサは「賜物」という意味。処刑された救い主、という意味にもとれる。

 「君が代」はヘブライ語の空耳だと、立ち上がり神を讃えよ、シオンの民、神の選民、喜べ残された民よ、神の預言は成就された、全地に知らしめよ」となる。10世紀の古今和歌集からとられ、1869年に日本の国歌となったそうだけれど。

 聖徳太子の側近であった秦河勝は欽明天皇(6世紀)の夢に現われた神童だった? ネストリウス派キリスト教を奉じていたが棄教し、仏教導入を支持し、神社を建立し、優れた軍人でもあった(反対派の物部氏の大連の首を斬った)。新興宗教「常世の神」に人々が惑わされるのを見て、富士川の教祖、大生部多を討伐した。

 申楽は「神」のつくりを残したもの: 能楽者世阿弥は『風姿花伝』にて、秦河勝が能の始祖だとし、自分たちは秦河勝の子孫だとしている。

 秦河勝は赤穂の大避神社あたりで他界し、正面の海上に浮かぶ生島に葬られた。

 

 第4章 祇園祭とユダヤ人・秦氏: 京都の祇園祭は八坂神社(旧名 祇園社 879年〜)で、薬師如来がインドの神で祇園精舎(という僧院)の守護神 牛頭(ごず)天王を奉じていたが、1868年に八坂神社と改称させられた時、牛頭天王がスサノオに置き換わり、やはり疫病封じの祭りとして引き継がれたもの。ヤサカは「神の小屋」を意味するヘブライ語で、祇園はシオン(エルサレム南東部の砦)であり、この祭りは聖地エルサレムへの巡礼だというこの本の説明はいまいち判然としない。山鉾巡行は、アララト山に聖櫃が漂着した七月十七日に行なわれる。山鉾に飾られているタペストリーが秦氏の持ち込んだものとあるが、徳川家に大金を貸し付けていた豪商への下賜品で、オランダ商人がもたらしたもののようだから、いまいち説得力に欠ける。

 

 第5章 秦氏と京都の寺社: 八坂神社の縁起に、創建と秦氏のつながりは記載されていない。656年、高麗より来朝した伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山(ごずさん)に座した素戔嗚尊を当地に奉斎したことにはじまる、とあるが、伊利之がユダヤ人だとか秦氏だという文はいくら検索しても見つからなかった。

 祇園社は、平安京の貴族・武家の崇敬を受け、あつく信仰されてきた。

 伏見稲荷大社は、八世紀初頭に秦伊呂具が奉献した。九世紀には公共の神社となる。伊奈利は万葉仮名で書いた外来語であり、「稲荷」としたのは空海だとされる。よって、その語源はINRIではないかという説もある。日本に根付かすことのできなかったキリスト教的なものを呼称にこめたのではないかというのである。鳥居はヘブライ語の門(トラ)にちなむという説もある。神は民に、子羊を屠って、その血を門に塗ると災いを免れるというようにしたという話と朱塗りの鳥居が関係あるか?

 平安京建設の都市計画は805年に中断されることとなる。東北制圧の軍隊派遣も中止される。以後、秦氏は、神社仏閣づくりに専心することとなる。

 上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社は、賀茂氏による創建。この賀茂氏と、渡来系の秦氏は婚姻関係にあった。

 賀茂社の祭り、葵祭では、早馬や流鏑馬が披露されるが、それらは騎馬民族の武芸である。この指摘は実におもしろい!!

 松尾大社: 太古の昔より松尾山の山霊、大山咋神(おおやまいくのかみ)を磐座に祀っていたが、秦氏はこれを氏神とし、秦忌寸都里(はたのいみきとり 秦氏の首長、秦氏の婿となった賀茂氏の人間?)が701年に社殿を奉献。

 大避神社には、農地開発、灌漑、堤防、酒造などを行った秦酒公および弓月君、秦始皇帝が祀られ、後に大酒神社となった。十月十日に牛祭が行なわれる。京都三奇祭のひとつ。紙面をつけた摩多羅神が牛に乗って練り歩き、青鬼・青鬼の面をつけた四天王と厄払いをする。

 石清水八幡宮: 820年、山岳信仰の地に清和天皇により社殿が造営された。和気氏の氏寺でもある。939年には京都を守護鎮護する寺となり、勅祭が斎行され、御鳳輦という神輿など23基の神輿が出る。動く古典と言われる。

 木島坐天照御魂神社: 本殿の東隣に鎮座する蚕養神社は、この秦氏が招来した養蚕・機織・染色技術に因むと推測される。弥生時代の集落遺跡がある。

 

 筆者は最後に平安文化とフランス文化がともにユダヤ人的なものによって形成されているという考察を述べているが、なんだかよくわからない話に思えた。

 ともあれ、古代日本において大量に渡来した帰化人の役割を再認識できた。特に秦氏が弓月国からやって来たと自称していることには注目すべきであり、この帰化人グループは民族のアイデンティティを保持してきた頭脳集団であったのだ。