直木賞をとった作品である。織田信長から離反した荒木村重と、その有岡城に幽閉された黒田官兵衛を軸にしたミステリーである。現在形の短文で綴られており、文にはスピード感がある。どんどん読み進めることができる。面白かった。メモる。

 

 序章: 時代は戦国時代、舞台は北摂、伊丹の有岡城。そのあるじは荒木摂津守村重。そこへ小寺(黒田)官兵衛が訪ねてきて、織田に背いても、毛利は信ずるには足らず、この戦は勝てないと言う。荒木村重は官兵衛を土牢に幽閉する。

 

 第1章 雪夜灯籠: 猛将中川瀬兵衛が織田に降参したという情報が入る。さらに、大和田城も降ったといういう報せが入る。安部兄弟の息子二右衛門の裏切りによるもので、その二右衛門の一子自念は人質として有岡城にあり、殺されるのが道理であったが、村重は殺さず、牢に留めおくとする。土牢は塞がっていたので、奥の納戸に入れることとする。その人質が殺された。矢傷はあるが、矢は見つからない。このミステリーをどう解き明かすか? 村重は土牢にある官兵衛を訪ねて事の仔細を語るも謎は解けず。去る村重の背に「あら木弓いたみのやりにひはつかず、いるもいられず引もひかれず」という歌が投げかけられた。村重はついに謎を解く。三間鑓を二つ繋ぎ、灯籠の火袋でその揺れを抑えて、矢を刺し、引き抜いたのである。火袋には血痕も残っていた。下手人として名指しされた森可兵衛は成敗されなかったが、後日、織田との戦いに死した。

 

 第2章 花影手柄: 村重のもとに矢文が届く。信長が鷹狩りをするので、供をせよという内容であった。城内の諸将は憤る。雑賀衆を束ねる鈴木孫六が信長を撃ち抜きたいと言えば、高山飛騨守大慮(高山右近の父)も出陣を訴える。村重は挑発には乗らないと断言する。

 有岡城の東側の沼沢地に陣が築かれ、それが誰の陣か探らせると、大津伝十郎のものとわかる。兵の数は百足らず。村重は、鈴木孫六と高山大慮を連れて夜討ちを決行する。挙げた大将首は四つ、うち二つは皺首、二つは若いが、どちらが大津伝十郎のものかはわからぬ。首実験の時には尋常の顔つきをしていた若い人の首の片方が大凶相に変わっている。その噂が城中に広まる。村重の挙げた首もあったはずだが、大凶相のために見せられず、すり替えられたことのようである。

 村重は、孫六と大慮を別々に茶室に招き、首を挙げた時の仔細を尋ねる。折しも城下では、南蛮寺に放火があり、南蛮宗への猜疑がわだかまっていたいたことを知る。

 村重は再び土牢を訪ねる。牢番に逆賊と罵られて斬ってかかられ、危ういところを命拾いする。村重は官兵衛に、首の話をする。

 軍議の場で。孫一と大慮は等しく褒美を賜る。だが、大津の首をとったのは村重であり、大津は兜をつけていなかったのだと語る。

 だが、例の矢文には、宇喜多が織田に寝返ったとあり、そうなると百年待っても毛利からの援軍は来ないこととなる。村重はその矢文を焼いた。

 

 第3章 遠雷念仏: 煙硝蔵が放火されそうになり、曲者二名が討ち取られる。守りを懈怠した足軽は打首となる。村重は軍議にて宇喜多が織田についたことを告げた。

 有岡城には使者が足りず、村重は山伏や旅僧を使ってきた。その一人に無辺という高徳の僧がいた。村重は、その無辺に、信長との和議をとりもつよう頼む石田三成への書状を託し、名物の茶壺「虎申」を託す。松永弾正が信長に出し惜しんだ平蜘蛛の茶釜について語られる。

 城内に入った曲者が捕まる。官兵衛を救うために忍び込んだ黒田家中の栗山善助であった。この者は、官兵衛が殺されなかったがために荒木に通じたとして、信長が人質にとっていた官兵衛の息子、松寿丸を殺したと訴える。

 使者の役を帯びた無辺が草庵にて殺された。現場から「虎申」が消えていた。警護の侍は後ろから斬られていた。無辺は誰に殺されたのか? またしてもミステリー!!

 村重は、天守の地下牢へとまた向かう。官兵衛に、栗山善助が城内に現れたことを告げ、今度のミステリーについて語る。官兵衛は三つの名分を挙げ、それを持たぬ城主の末路は哀れ、と言う。

 軍議に集まる諸将が堀にかかる橋で足止めされている。瓦林能登入道に上意が告げられる。「無辺、ならびに秋岡四郎介を殺したな。仔細を聞こう」と。村重は謎を解く。僧形の曲者は表口から入り、無辺を殺してから、無辺になりすまして、安堵していた護衛の兵を斬ったのだ、と。おぬしの顔を見た唯一の男、処断されていたはずの草庵の寺男が現われ、証言する。村重が言う。「おぬし、織田に通じていたな」と。能登が刀を振り上げた時、轟音と閃光。能登は雷を打たれて死んだ。虎申の茶壺は戻った。

 

 第4章 落日孤影: 村重は城内を巡見している時に解死人を見た。野村丹後と池田和泉の家中の者どうしに諍いがあり、野村が池田に解死人を送ることになったという。

 村重は、能登が死んだ時、近くに鉄砲の玉がめりこんでいるのを見つけていた。それを撃ったのが誰か突き止めるよう、御前衆の組頭、十右衛門に命じる。その者は謀反人である。城内には毛利の不実をなじる声が多くなっていた。それは毛利につくときめた村重を責めることであった。

 村重の室、千代保が念仏を唱えている。十右衛門から報告が入る。本曲輪に鉄砲を持ち込んだ者はおらず、撃った場所は三箇所に絞られるという。結論ででていないのに目通りを願い出たのは、中西新八郎が敵方の滝川家より酒の進物を受け取り、返礼に鱸を送ったという風聞を耳に入れようとしたからである。それは有岡城に隙があることを敵に知らしめることであった。だが成敗はしなかった。

 村重はまたしても土牢に下りる。酒を飲みながら、瓦林能登を撃とうとした者がいたことを語る。能登入道の死の後、御仏の罰という風聞が流れた。「摂州様は罰の正体をご存知にござろう」と官兵衛は言った。

 村重は考える。御仏の罰という風聞に通じる三点の怪異事件: 人質の生害、手柄首の異変、鉄砲放。すべてを画策できたのは千代保であった。千代保は罰はあるのだということを民に信じさせるために企てていたのである。民は死をもってすらこの苦しみが終わらぬことを恐れるのだ、千代保は伊勢長島にてそれを見たと言う。進めば極楽、引かば地獄という文句に民は縛られている、と。村重は地下牢でこれを官兵衛に語る。謀反人はいなかったのだ。官兵衛は策を披露する。摂州が直々に毛利の本国安芸に赴き、談判することだ、と。奇瑞が人を救うという千代保の言葉を思い出す。

 村重が牢番に斬られそうになった時、官兵衛は、牢の中からひとを殺すのは存外難しいことではござらぬなと言っていた。城から大将一人が抜け出すという話は聞いたことがなかった。官兵衛にまんまと乗せられるところであった。松寿丸を殺された官兵衛の恨みは尋常ではなかった。十月も経った今となっては織田への帰参は叶わない。官兵衛は、家中の者が村重を見限る日を待っていたとも言う。官兵衛は問う、なにゆえ織田に背いたか、と。織田は殺しすぎる、あれは尋常ではない、民や家中が下す罰には誰も抗うことはできない、と答える。

 そして荒木村重は九月、有岡城を抜け出す(1579年のことであった)。

 

 終章 果: 村重、少ない供を連れて尼崎を目指す。足軽に襲われた後、郡十右衛門を有岡城に帰す。雑賀衆の下針が、能登入道を撃ったのは自分だと告白する。村重は、「虎申」を背負った乾助三郎と二人で行く。

 因果は巡り、十月十五日、有岡城は落城。武将らの妻子親族の多くが処刑された。千代保は京の六条河原で斬首された。

 その三年後、織田信長は京の本能寺にて最期を遂げる。

 黒田官兵衛は、落城した有岡城から救い出され、静養する。ある日、松寿丸の殺害を命じられた竹中半兵衛の義兄が訪ねてきて、実は生きていた松寿丸と対面させる。後の黒田長政である。