私のPC (MacBook Pro)はどうやら液晶が壊れたようで、今修理中である。これは古いPCで書いている。先日、仕事で新倉山浅間神社の忠霊塔に登ったら、展望台の後ろに明治天皇の銅像が立っていた。イタリア人たちが説明を求めたので、大まかな説明をしたが、この人がどういう人であったかについてもっと知りたく思い、昔、ドナルド・キーンさん(実家のご近所さんでもある)の新書を買ってあったことを思い出した。読み直してメモる。

 

 第1章 一万ページの公式記録: 『明治天皇紀』全13巻という公式記録があるが、それだけでは人柄を知ることはできないが、謁見した外国人の記録がある。特に、明治天皇と親交を結んだアメリカのグラント将軍に同行した作家ジョン・ラッセル・ヤングの記録は興味深い。

 暮らしぶりは和洋折衷であった。身長は167cm。1886年以降は洋装となる。海の魚は食べない。風呂が嫌い。洋食、肉料理、酒(ワインやシャンパン)、ジェラートが好き。能を好む。

 生母は、権典侍(最高位の女官)の中山慶子であったが、皇太后を慕い、その死後、英照皇太后という尊称を贈った。

 

 第2章 時代の変革者: 父の孝明天皇が36歳で薨去(毒殺された?)し、16歳で践阼し、翌1868年に即位式を行ない、明治の元号となった(以後は一世一元)。その元号は『易経』という占いの本より「聖人南面して天下を聴き 明にむかいて治む」にちなみ、この天皇の治世の性格そのものを表すこととなる。

 皇后となった一条美子(はるこ)は、健康で英明な才女で、3歳歳上であった。子供はできなかったが、和歌の名手。「金剛石も磨かずば 珠のひかりは そはざらむ」など、華族女学校の校歌となったほど。小柄だが威厳があり、天皇を輔け、国民に慕われた。洋装を着続けた。広島の大本営に二人の側室を伴って出かけ、傷病兵を慰労したエピソードがある。

 天皇は一人で教育を受けた。特に儒教、和歌が大切であった。儒教の講師は元田永孚であり、国家に役立つ人間形成を教え、明治天皇に義務感と克己心を与えた。天皇であることは特権ではなく責務であるという考え方をもった。

 父の信念である攘夷を支持しなかったことへの罪悪感に苦しんだが、様々な外国公使らを積極的に謁見した。大津事件で負傷したロシア皇太子ニコライには丁重な態度で接した。ハワイ王国のカラカウア王は、天皇にアジア同盟の結成とその中心となることを求めたが、辞退した。グラント将軍は、西欧列強からの借款に注意せねばならないと進言した。英国からはガーター勲章を贈られた。

 明治天皇のもとで西洋化が図られ、太陽暦(グレゴリオ歴)が採用され、日曜日と土曜日午後は公式な休日となる。新聞記事が嘘を書いていることに閉口した。

 

 第3章 己を捨てる: 日本各地に天皇のための別荘ができたが、避暑地にも避寒地にも出かけず、民衆が耐えている寒さ暑さを共有したいと願った。

 質素で、軍服などもあまり新調せずに、ツギハギをして着用し、靴に穴があいても修理させて履き続けた。物を捨てるのはよくないと考えていたようである。

 常に第一線の兵士を思い、傷痍軍人を優しくねぎらった。

 蚊に刺されても、民衆は蚊帳を使わないとして刺されて我慢した。

 陸海軍大学、東京帝国大学などの卒業式に出席した。

 戦争は嫌いであったが、軍事演習を見るのは好きで、自分も乗馬が好きであった。金華山号という落ち着きはらった御料馬は有名。

 自分の意思が無視されて物事が決められると怒った。

 自分の目で初めて富士山を見た天皇である。3300人を従えて東海道を進んだ九月の東京行幸の際に、初めて農作業を目にし、初めて太平洋を目にし、漁を目にし、富士を歌に詠むよう側近に命じた。二度目の行幸では、伊勢に詣でた。窮屈な輿の中で正座して揺られての行幸は苦しいものであったと推察できる。だが、北海道から九州まで津々浦々行幸して民衆を視察し、民衆も天皇の存在を知らしめた。

 明治天皇は生前、一切銅像をつくらせなかった。国民の尊崇の念は、長い治世の間に自然と培われたものであった。

 御真影は、エドアルド・キヨッソーネの描いた肖像で、写真撮影は嫌いで、あるのは二十歳前後の2点のみ。画家は襖の陰から描き、それが御真影となった。ただし、錦絵の中には多く描かれており、それを許していた。

 蓄音機を気に入り、映画鑑賞も楽しんだ。

 

 第4章 卓越した側近に支えられて: 贅沢を嫌い、質素な生活に甘んじ、 1873年、皇居が火災で焼失してからは赤坂御所で10年ほど過ごしたが、国家君主としての面子を保つべきとの進言に屈して新築を許した。東宮御所(今の迎賓館)ができた時は贅沢だと怒り、誰にも使わせなかった。ただし、フランスの香水は好きでよくつけていた。ダイヤモンドも好きであり、高いものを買ったと伝えられている。

 

 皇后から後嗣が生まれないため、側室をもった。柳原愛子(なるこ)は大正天皇を産んだ。十五人の子供ができたが、3歳まで育ったのはたったの5人であった。嘉仁親王(大正天皇)はわがままな悪い子であり、西洋かぶれであった。一方、日本に留学してきた韓国の皇太子、李垠(イウン)は理想的な子供であった[赤坂プリンスの別館を見ると思い出す]。

 側近の中では、大久保利通、伊藤博文のことを好きであり、親密であった西郷隆盛については、西南の役(1877年)を起こしてからも憐憫の情を抱いていたようである。睦奥宗光、尾崎行雄を嫌い、おそらく乃木希典のことも好きではなかった。日露戦争で多くの戦死者を出したことが赦しがたかったようである。側近の佐々木高行(土佐の人)とは親しかったようである。当時の貴族、三条実美、侍従長の徳大寺実則らは嫌われたが、岩倉具視は信用されていた。薩長閥による組閣はよくないと考えていた。キーンさんは星亨について、下層階級出身の現代的な政治家として評価している。

 

 第5章 天皇という存在: 明治天皇は医者嫌いで健康に無関心であった。晩年は肥満ぎみになり、糖尿病と腎臓炎にななり、61歳で心臓麻痺で薨去し、伏見桃山に埋葬された(1912年)。死後、その偉業は内外において讃えられた。

 幕末の日本人は世界情勢に通暁していた。おそらく出島におけるオランダ人から提出される「風説書」を介しての知識であろう。危機感を募らせ、海防の必用を画した。ヴィクトリア女王在位五十年の式典に参加した彰仁親王は、日本が小国として軽んじられていることに憤った。世界が日本の存在を認めたのは日清・日露の戦争に勝利したことによる。日清戦争について勅書を出したが、明治天皇はそもそも開戦に反対であった。戦勝後も両国の関係回復についての詔を出した。日露戦争に勝った時も、ロシア将軍ステッセルの名誉を大切にせよと指示した。旅順陥落の報に接しても、多くの日本兵が戦死したこと、ロシアの軍事力をあなどるなかれ、と喜びはしなかった。「むかしよりためしまれなる戦に おほくの人をうしなひしかな」と詠んだ明治天皇を、キーンさんは、ドイツやロシアの皇帝を引き合いに出し、世界に本物の皇帝は明治天皇一人しかいない、と断言している。
 明治天皇は総司令官にして大元帥であったが、作戦に干渉したことは一度もなかった。ただし、征韓論が起きた時、岩倉の帰国を待てと言うなど、朝鮮への出兵は見送りとなったことなど、外債を発行させず、倹約を勧めたなど、言うべきことは言った。明治天皇は、天皇の存在が日本に統一性を与えるものと考えていた。国民を大切にせねばならない、他国から馬鹿にされてはならない、とも考えていた。

 

 キーンさんは、明治天皇を馬鹿にするような外国人の手紙や記録を見たことはないと言う。絶大な権力をもちつつ、それを行使しなかったところが大帝たるゆえんだとも言う。横暴な言動は一切なく、キーンさんは伝記を書きつつ、人物に感心し、世界で唯一の皇帝であったという結論に達したとのことである。

 

 ああ、読み直して、このように文字の残してよかった。