続き: この本の後半は、ラヴェンナの美術史とはあまり関係がない。ラヴェンナの総督府[Esarcato]と大司教、およびラヴェンナに関わる諸勢力: ローマ教皇、東ローマ皇帝、ランゴバルド族、フランク族の政治史が主題となっており、中世イタリア史前半を概観するような内容になっている。特に、イスラム勢力の発展に対して弱小化していく東ローマ帝国というかビザンツ帝国(?)、東ローマ皇帝とローマ教会との聖像崇拝をめぐる対立、ローマ教皇領の成立とフランク族の動き、ローマ教会が「コンスタンティヌス帝の寄進状」を捏造・利用した経緯がよくわかる。

 

 第5部 568-643 アルボイン王とランゴバルド族の征服

  第19章 アルボインの侵入: 568年、ランゴバルド族が北イタリアに入り、フリウリを占領した。ゴート戦争に加わり、見知っていたイタリアへ進軍したのは、ナルセス将軍が召喚されようという時期であり、ナルセスによって招き入れられたわけではなかった。これにより、イタリアを直接統治しようという東ローマ帝国の企ては絶望的なものとなる。

 ランゴバルド族の王アルボインは、一族郎党家畜までも引き連れて移住してきたのだ。彼らに抵抗できる都市はなかった。572年まで三年間の攻囲に耐えたパヴィアが彼らの首府とされた。

 同じく568年、新たにロンギヌスがビザンツから送り込まれ、総督府の長官としてテオドリックの宮殿に入った。東ローマ帝国はペルシアとの戦争のため、西側にあまり注意を払うゆとりがなかった。ランゴバルド族のアルボインの頭蓋骨の酒盃のエピソードと妃ロザムンドの復讐による死(572年)について。

 ランゴバルド族は東ローマ帝国に征服者としての権利を承認させようとしたが拒否され、ローマを包囲するも、派遣されたビザンツ軍の抵抗を受ける。

 アルボインの没後、クレフィ、さらにアウタリがランゴバルド軍を立て直し、ラヴェンナ総督として送り込まれた司令官スマラグドゥスと戦い続ける。

 さらに、553年の第五回公会議における三章問題が東西教会の分裂を促した。578年、教皇ベネディクトゥスは、この三章問題にからみ、ローマ生まれの大司教ヨハネをラヴェンナに送り込み、地元の抵抗を受けた。

 

  第20章 ラヴェンナ総督府: 総督は軍事権と行政権を握り、慢性的な戦争状態に対応した。その任官はパトリキウスという称号を帯び、ラヴェンナとカルタゴに送り込まれ、正規部隊をもち、アドリア海の対岸地帯をも支配した。総督はギリシア語でコンスタンティノープルに情報を伝え、現地ではラテン語を用いた。

 東ローマ帝国は、対ランゴバルド政策にフランク族との同盟を結ぼうとしたが、行き違い、連絡不足などによりなかなかうまくいかなかった。

 

  第21章 グレゴリウス大教皇とラヴェンナの支配: ラヴェンナ総督は、ラヴェンナとローマを結ぶ「廊下」を支配していたが脆弱であった。

 590年、教皇グレゴリウスが即位する。先ず、三章問題の解決に取り組み、親ローマ派を確保しようと神学論についての書簡を送り続けた。また、ラヴェンナをローマ教会に服従させようと努力した。ランゴバルド族とは王妃テオドリンダとの文通により和平とカトリックへの改宗を実現させた。ランゴバルド族を軍事的に打倒できないラヴェンナ総督もランゴバルド族との和平の道を探った。

 

  第22章 イサク ー アルメニア人総督: 7世紀前半には有能なラヴェンナ総督が出た。皇帝フォカスについて: 602年、軍隊の反乱によって擁立され、ラヴェンナ総督スマラグドゥスもローマ教会もその支持に動き、即位を祝った。教皇ボニファティウス四世の時、フォカス帝は、パンテオンを教会堂に転用することを許し、ローマのフォルムにおける高々とした記念柱を献じられた。だがこの無能な皇帝は、不満をもつ元老院議員による計画により、カルタゴ総督の息子ヘラクレイオスによって帝位を奪われ、処刑された。ヘラクレイオス帝はローマ国家の破綻を知った: アヴァール人の侵攻、ペルシアの侵入、東西教会の分裂など。ラヴェンナ総督に任じられたイサクは、ラテラノ宮に押し入り、強盗を働き、財宝を強奪した。

 ラヴェンナ総督アルメニア人イサクは、ロタリ王麾下のランゴバルド族と戦わねばならなかった。ヴェネト地方からアドリア海の島嶼部に逃れた人々は、ヴェネツィアやトルチェッロを建設し、それらの教会堂建設にはラヴェンナ総督の支援があったとのこと。イサク総督は、部下のマウリキウスの反乱をも鎮圧せねばならなかった。

 

  第23章 医師アグネルス: テオドリック大王の時代、7〜8世紀のラヴェンナは医学の中心地でもあったことについてカッシオドルスが言及している。最も高名な医者アグネルスは、ガレノスの著作についてラテン語で講義し、シンプリキウスという受講生が講義録を残した。

 

 第6部 610-700 イスラームの拡大

  第24章 アラブ人の征服活動: 筆者は630年のヘラクレイオス帝による「真の十字架」の奪還について述べる[ピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画を思い出す]。次いで、ムハンマドによるイスラム教の成立について述べる。アラブ勢力の拡大により、ビザンツ帝国は税収入を破滅的に失った。8世紀末には北アフリカをも版図に組み込む。

 コンスタンス二世は、祖父ヘラクレイオスに倣い、単意論に肩入れした。しかし、ローマ側では教皇ヨハンネス四世以降、単意論に対する反対が激化し、キリストの人格には、神性と人性の両意志が具わっているとする両意論を主張した。教皇テオドルス一世も単意論と戦い続けた。

 647年、ビザンツ帝国の摂政会議は「テュポス」という勅令を発し、単意論についての論争を禁じた。これに対し、教皇マルティヌスは、ラテラノ宮で公会議を招集し、単意論に対する破門を東西すべての管区に送ると、ラヴェンナ総督はこの教皇を逮捕しようとするも、その時、兵士が盲目になるという奇跡のために失敗する。コンスタンス二世は教皇逮捕のために別の人を送り込み、コンスタンティノープルに連行させ、死刑を宣告した。この教皇はクリミア半島に流されて他界する[東西教会の確執の激しさを思い知らされた!! それをめぐってビザンツ帝とローマ教皇がくりひろげる争いはすさまじく、ラヴェンナは両者の間で揺れ動いた]。

 

  第25章 シチリア島のコンスタンス二世: 7世紀半ばすぎ、ラヴェンナの大司教マウルスたちはローマ教会への従属から解放されたいと願っていた。その叙任にはローマに赴く必要があったのだ。

 コンスタンス二世は、シチリア行きを思い立つ。663年ターラントで上陸し、ベネヴェント、ナポリへと進軍し、ローマで略奪を働いた。パンテオンの青銅の屋根瓦も持ち去った。落ち着き先のシラクーサでは嫌われた。そこからラヴェンナの教会の独立を認め、今後は叙任のためにローマに赴く必要なしとした。

 

▽聖アポリナーレ・イン・クラッセのモザイクでは、666年、皇帝コンスタンス二世がこの司教マウルスに特許状を手渡している(Ravenna Anticaのサイトより)。

 

 アラブ軍は667年末からコンスタンティノープルを攻囲し、二年間続けた。コンスタンス二世はシラクーサの浴場で撲殺され、若いアルメニア人が皇帝に祭り上げられたがラヴェンナ総督軍によって殺害された(668年)。

 9世紀の史家アグネルスは、ヨハニキスというバイリンガルの優秀な青年がラヴェンナ総督の書記となったことに言及している。この書記が仕えた大司教テオドルスは、ラヴェンナの聖職者を全面的に敵にまわした[この時期のラヴェンナ総督もテオドロスという名なのでややこしい!]。この大司教の時にラヴェンナの教会の独立は危機に瀕した。教皇レオ二世は、ローマ教会へのその従属を再確認した。

 総督テオドロスの方は敬虔なキリスト教徒で、聖アポリナーレ・ヌオヴォの隣に、助祭聖テオドルスの礼拝堂を建てたと伝えている。

 

  第26章 第六回公会議: コンスタンティノス四世のもと、コンスタンティノープルは667〜668年のイスラム軍の攻囲に耐え、677〜678年にはレバノン海域でアラブ海軍を破った。

 そして680年、コンスタンティノープルで第六回公会議を招集し、両意論の復活を定める: この公会議には、教皇代表団とともに、ラヴェンナの司祭も随行出席した。これにより、東西教会は一体性を回復した。

 同帝の没後、長男がユスティニアノス二世として帝位を継いだ。

 

  第27章 ラヴェンナの逸名世界史家: この時代(7世紀末)、ラヴェンナに『世界地誌 Cosmografia』全五巻を著した逸名の著者が現われた。この人は旅行家でも探検家でもなく、ラヴェンナにあった書物を読んで世界地誌概論をまとめたのである。発想の源を聖書とし、カストリウスの著述を参照し、5000以上の都市を詳述している。その重要さは300年頃にさかのぼるポイティンガー地図 Tabula Peutingeriana に比肩する。また、ゴート族の地理学者三人にも言及している[シチリア史家として、私は、イドリーシーの著書『ルッジェーロの書』を思い出したが、それよりずっと早いではないか!! ラヴェンナ恐るべし、である]。

 

 第7部 685-725 ユスティニアヌス二世の二度の統治

  第28章 トゥルロ公会議: 8世紀には北アフリカからイベリア半島にかけてイスラム圏が拡張していた。692年、皇帝ユスティニアノス二世は「トゥルロ公会議」を催した(トゥルッロとは丸天井をもつ広間のこと ): 様々な教会法が規定されたが、キリスト教芸術のあり方としては、キリストを神の子羊としてではなく人間の姿に描くよう促した。聖職者の独身制、片膝をついての祈りなども。その写しは6つつくられ、ローマにも送られてきた。ローマでもラヴェンナでもこれに同調しなかった。教皇セルギウス一世が署名を拒むと皇帝は軍隊を送ってその逮捕を命じたが、ラヴェンナの軍隊が妨害した。またコンスタンティノープルでは、軍官僚がクーデターを起こして皇帝の鼻と耳を公開の場で切断し、島流しにしたので、公会議の決定は棚上げとなった。

 697年、カルタゴ総督府がイスラム勢によって陥落した。アフリカは失われたが、豊かな農業生産をもつシチリア軍管区がまだビザンツには残っていた。

 ユスティニアノスは帝位を奪還すべく、遊牧民ブルガール族にも協力を求め、水道を通って入場すると反乱の首謀者たちを斬首し、関係者を処刑し、再び皇帝となった。教皇逮捕を妨害したラヴェンナ総督府には、シチリアのテマ(軍管区)長官を送って、大司教以下、有力市民を逮捕させ、コンスタンティノープルに連行させた。

 この動きに対してラヴェンナは市民軍団を組織して防衛システムをつくる。ユスティニアヌス二世は新たな総督を送り込むが、その市民団に殺された。

 こうして、トゥルロ公会議の決定は西方では承認されなかった。そして711年、皇帝ユスティニアノス二世は軍事クーデターにより倒された。その報せにラヴェンナは沸いた。新帝は、西方属州に前帝の頭を槍に刺して送り、謝罪とした。

 

  第29章 英雄的な大司教ダミアヌス: この時代、ラヴェンナでは大司教ダミアヌスが聖俗両面における英雄的指導者とみなされた。奇跡を起こす力を持っていたとアグネルスが伝えている[まあ、どうでもいいかな・・・]。

 ランゴバルド族の王クニペルトは、第五回公会議の決定を教義として受け入れることにし、アクイレイアにランゴバルド領の司教を集め、ローマ教皇の主導権を受け入れることとした。700年にこの王が没すると、十年に及ぶ内乱の末、精力的で野心的なリウトプランドが王となる。敬虔な面もあり、728年、ストゥリなどラツィオの領土をローマ教会(「ペテロとパウロに」)に寄進し、イスラムの脅威にさらされたサルデーニャから教父聖アウグスティヌスの聖遺物を取り出してパヴィアに聖堂 Sant'Agostino in Ciel d'Oroを献じた。だが、相争う公たちをまとめることも、彼らによるラヴェンナ、シラッシスへの攻撃を止めることもできなかったし、敬意をもちつつローマをしばしば攻囲して脅かした。

 大司教ダミアヌスの時代、クラッシスの聖ヨハネ・ティトゥス修道院がしばしば暴徒に襲われるに及び、修道院長はコンスタンティノープルに直訴しに行き、皇帝の勅令を授かって、夜間飛行で修道院の屋根の上に立ち戻り、ラヴェンナ総督は勅令受理を余儀なくされたという話が述べられている。なおも帝権が有効であったことを示す話だが、三ヶ月で往復したという話は誰にも信じてもらえなかったようだ。

 

  第30章 大司教フェリクス ー 波乱万丈の生涯: ラヴェンナの第38代目の司教フェリクスの話。ラヴェンナの歴代司教の説教をまとめ、応答唱歌を改訂した。この司教はシチリア海軍に攻撃され、コンスタンティノープルに連行され、盲目にされ、クリミア半島に流されたが、そこで起きた反乱によって命拾いし、クーデターで政権を奪ったフィリッピコス帝によりラヴェンナに戻ることができた。

 

 第8部 700-769 辺境に戻るラヴェンナ

  第31章 レオン三世とアラブ人の敗北: イスラムの脅威が迫ったコンスタンティノープルでは、テオドシオス三世が退位を求められ、小アジアのイサウリア出身のレオンという有能な将軍が皇帝に担ぎ上げられた。その五ヶ月後にやって来たイスラム軍に対し、皇帝軍は「ギリシアの火(往年のナパーム弾ですね)」を浴びせて撃退した。他にも勝因はあるが、以後、撤退したイスラム軍はオスマン・トルコの時代まで襲ってくることはなかった。

 帝都の陥落を予想したシチリアでは、反乱が起きてティベリオス帝が祭り上げられたが、本国から派遣された官僚によりほどなく鎮圧された。

 半島部ではランゴバルド族の圧力が増していた。ビザンツ側は、増税を課し、ローマ教会の財産にも手をつけたので、大きな反発を受けた。ランゴバルド軍はローマ教皇への忠誠を示す。ラヴェンナ総督が殺害され、東ローマの権威が危機に瀕す。その一方、リウトプランド王はストゥリなどの寄進により、北イタリアにおける正当な支配者としてのお墨付きを教皇から雕ることができた。

 725年、ラヴェンナは地震に襲われた。クラッシスのペトリアーナ教会、聖マルティーノの聖堂(現聖アポリナーレ・ヌオヴォ)の後陣が壊れた。

 総督が殺されたラヴェンナでは大司教の権威が増したが、市内では親教皇派と親皇帝派が敵対しており、大司教ヨハネは亡命させられたことがあった。新たに赴任した総督エウテュキオスは贈り物を受けて、大司教をを帰還させて和解した。

 アグネルスは、ラヴェンナ市民とビザンツ軍との戦いがあり(730年頃か?)、ギリシア人の死体を捨てたポー川の魚は六年間にわたって食べなかったと伝えて伝えているが、確かなことはわからない。創作かもしれないとのこと。

 

  第32章 イコノクラスムスの始まり: 皇帝レオン三世は、イスラムの攻囲を退けたにもかかわらず、聖像破壊(イコノクラスム)の煽動者として悪名が高い。726年、エーゲ海での海底火山の噴火は、偶像崇拝に対する神々の怒りだとみなされ、レオン三世は旧約聖書20章十戒の偶像禁止項目を指摘し、五大司教座に聖像の撤去を命じた。イコンについて。ローマ教皇グレゴリウス二世はこれに反発する。よってイタリアにおいては聖画像が破壊されたり漆喰で塗り込められたりすることはなかった。ラヴェンナでもその記録はない。なお、イスラムでも視覚芸術は拒絶している。

 

  第33章 教皇ザカリアスとランゴバルド族のラヴェンナ征服: 698年にランゴバルド族はローマ教皇の権威を認めた。だが、スポレートとベネヴェントの公(ドゥクス)は王を宗主としては戴かなかった。ランゴバルド族の王は、教皇に対する敬意と、ローマを軍事支配する「ローマ公国」に対する敵意の間に立っていた。一方、ローマ教皇グレゴリウス三世は、聖像破壊令に対する抵抗にもかかわらず、ビザンツ軍がランゴバルド族に対してローマを守ってくれるよう期待していた。

 741年に即位した教皇ザカリアスは積極外交を展開する。ランゴバルド族に奪われた四つの要塞とナルニ、アンコーナなどの教皇領の返還を認めさせ、チェゼーナの返還も迫る。そのために教皇はパヴィアにも乗り込んだ。ザカリアスはラヴェンナ総督とは連携せず、総督から事実上ローマ公領を奪還拡大する形となった。

 リウトプランド王が他界し、後継者のラトキスはローマに行って修道生活に入る。次の王アストルフは、ラヴェンナ総督府を滅ぼす。

 ビザンツ帝コンスタンティノス五世は、シチリア・テマ[ビザンツの属州制度: 軍管区]とカラブリア・テマ[サレント半島を含むプーリア地方もカラブリア・テマであった]もランゴバルド族に脅かされるであろうと考え、その支配を強化する。

 

  第34章 大司教セルギウスが支配権を握る: ラヴェンナでは、大司教ヨハネが没すると、俗人の貴族が後継者に選ばれた。このセルギウスは妻を離縁し、叙任されるべくローマに向かう。この俗人の司教は、ラヴェンナがランゴバルド族に征服されたとき、アストルフ王との交渉に立つ。アストルフは地震で被災したペトリアーナ教会の再建に着手し、ラヴェンナの司教座聖堂の祭壇に飾りを献じた。

 そのアストルフ王は次にローマへと向かう。教皇ステファヌス二世は、ランゴバルドの王に、征服したすべての地域をローマ教会に返還するよう要求し、密かに、フランク族に軍事支援を求め、ピピンから招待状を受け取った。753年、教皇は、アストルフ王の制止を振り切り、アルプスを越えると、宮宰であったピピンを王として承認した。ピピンはキルデリク王を修道院に入れ、王位を簒奪していたのである。

 一方、東方における聖像破壊は活気づき、787年に否定されるまで続けられた。

 755年、ピピンはイタリアに遠征して来た。翌年、ランゴバルド族は再びローマを攻囲する。ピピンのもとに援軍を催促する手紙が届き、コンスタンティノープルからは、ラヴェンナ総督府を皇帝に返すようにとの使節がローマに入る。ランゴバルド族はラヴェンナを返すつもりはないし、ピピンも征服地を皇帝に渡す気はなかった。

 756年の二度目の遠征の後、ピピンは教皇にラヴェンナをはじめとする征服地を寄進した。だが、ランゴバルドの王となったデシデリウスはラヴェンナの実効支配を放棄しない。

 一方、ラヴェンナの総司教セルギウスはローマで裁判にかけられ、三年間勾留されていたが、ステファヌス教皇が没して赦免され、ラヴェンナに復権した。

 

 第9部 756-813 カール大帝とラヴェンナ

  第35章 デシデリウス王の長い治世: ラヴェンナに戻った大司教セルギウスは、ランゴバルド王デシデリウスと対峙する。この王は総督府を皇帝にではなく教皇に返すと宣言しつつも、対立教皇コンスタンティヌス二世を支援したりしたが、768年、ステファヌス三世が教皇となると、ローマから撤退した。

 翌769年、この教皇は教会会議を招集し、聖像破壊に対する西方教会の反対の立場を明確にする。そして対立教皇コンスタンティヌスを追放し、教皇の選出に関する教会法を定め、委員会、のちのコンクラーヴェとなるものを設立した。

 しかるにラヴェンナではリミニ公の軍事圧力のもと、俗人のミカエルが大司教に担ぎ出された。教皇庁はその叙階を拒否する。

 ピピン王の寡婦は、嫡子カール(後のカール大帝=シャルルマーニュ)とデシデリウスの王女との結婚を取り決めていた。教皇はこれに激怒する。

 770年、デシデリウス王はローマへの進軍を開始し、大混乱となるが、772年、ハドリアヌス教皇が即位する。

 

 ▽余談だが、ブレーシャのこの博物館: サンタ・ジュリア修道院は、ランゴバルドの遺産としてみごとである。デシデリウス王の十字架が収蔵されている。

 

 ステファヌス三世のフランク族に対する軍事要請に応じて、773年、カールはイタリアに遠征してくる。ランゴバルド族はこれに抗しきれず、ランゴバルド王国を滅亡させることになった。鉄の王冠▽を戴き、ランゴバルド王となったカールはローマへ向かい、デシデリウスをフランク王国へ連行し、修道院に入れた。王の息子アデルキスはコンスタンティノープルへ亡命した。

wikipediaより

 

 ラヴェンナの大司教レオは独自にフランク王と接触しようとアルプスを越えた。この訪問を知った教皇は激怒する。ラヴェンナ市もフランク王を君主とみなし、ピピンの寄進にもかかわらず、教皇の支配を認めなかった。

 コンスタンティヌスの寄進状: これは15世紀に捏造文書であることが看破されるまで、ローマ教皇の優位を裏付けるものであり続けた。ローマはそもそも、聖書に基づく聖ペテロの首位権をもっていた。教皇ハドリアヌスはこの寄進状の存在をカール宛の書簡において仄めかしたのであった。

 

  第36章 イタリアのカール、774〜787年: 750年代にラヴェンナにおけるビザンツ帝国の権威は失墜していた。フランク王カールは780年、二度目にローマを訪問する。そこへビザンツの摂政を務める皇太后エイレーネーからの使節が、彼女の息子コンスタンティノス六世とカールの娘ロトルドの結婚を提案して来た。婚約が成立するが、それは六年後に破談となった。それは王位の継承を脅かす孫の誕生の可能性があったからかと推察される。

 784年、皇太后エイレーネーは東方教会はイコノクラスムを放棄すると教皇ハドリアヌスに伝えてきた。787年、ニカイアにおける第七回公会議にてそれは確認された。ところがカールの支配下では787年、その決定を断罪し、東方との対立姿勢を鮮明にする。それが娘の婚約を破断にした背景だという見方もある。

 一方、皇太后エイレーネーは、息子の皇妃コンクールを開催する。それを利用して各国の情勢を探ることができ、皇帝への忠誠心を育むよう仕組んだとも言えた。また、彼女はカールの影響力を削ぐため、774年にコンスタンティノープルに亡命して来たアデルキスを南イタリアへ送り、ベネヴェント公との同盟を図らせる。ベネヴェント公の息子グリモアルドは人質としてカールのもとにあったが、釈放されてサレルノに至り、アデルキスの軍と衝突。勝つと独立の公となった。

 787年、カールはラヴェンナに立ち寄る。フランク族の王領地 アーヘン(イタリア語ではAquisgrana)に建てる宮殿と聖堂のための石材を調達するためであった。その時に見たであろう聖ヴィターレ教会は八角形のプランとドームなど、アーヘンの王室礼拝堂によく似ている。皇帝の権威を示す装飾も影響を与えた。

 ビザンツとの確執を明らかにしていた教皇ハドリアヌスが薨去すると、後継者のレオ三世もフランク王国との同盟を継続する決意を示した。

 

  第37章 カールがラヴェンナの石を求める: カールはもはや西方世界の宗主となっていた。ビザンツでは、エイレーネーが息子の目をつぶし、女帝として君臨していたが、イスラムの脅威を前に、カールとの講和を結ぼうと使節を送って来た。カールは、イェルサレムの聖地をめぐり、独自にバグダッドと交渉し、象を贈られていた。エイレーネーは今度は自分とカールとの結婚を提案してくる。だが、その使節が本国に戻った時にはすでに彼女は廃位されていた。

 799年夏、カールはローマ教皇レオ三世の訪問を受ける。教皇は冬を過ごしてからローマに戻り、翌800年にはカールがローマを訪れる。その滞在中のクリスマスに、教皇は聖ピエトロ聖堂にてカールを「ローマ帝国を統べるアウグストゥス」に加冠した。そして三度目のラヴェンナ訪問。カールは、石材のほかに、テオドリックの騎馬像(高さ3m、鍍金された青銅、皇帝ゼノンのものが利用されたと考えられている)をアーヘンに持ち出したとアグネルスが述べている。それ以外のテオドリック大王の彫像類・画像などはすべて記憶抹消のために破壊されている。ラヴェンナはもはや資材調達場となっていた。

 816年、教皇ステファヌス四世が即位し、フランク王国を訪れた帰途、ラヴェンナに立ち寄り、ウルシアーナ教会(司教座聖堂)でミサをあげた。

 ラヴェンナは、クラッシスの港湾施設、運河の保全が行われなかったため、港として使われなくなり、次第にヴェネツィアに取って代わられることになる。ちなみに14世紀には詩聖ダンテが亡命して来て客死し、今もラヴェンナに永眠している。

 

  終章 ラヴェンナの輝かしい遺産: まとめ。カッシオドルスの『ゴート人の歴史』、大司教マクシミアヌスの『ラヴェンナ年代記』、『雑録』、アグネルスの『ラヴェンナ司教の書』などがあったが散逸したものもある。ともあれ、ビザンツ帝国の影響はラヴェンナを拠点として広がったのであった。