ローマ帝国末期にさかのぼる古都ラヴェンナ、私は幾度も訪れたことがある。昨年秋、この分厚い訳書が白水社が出たので読んでみることにした。ジュディス・ヘリンというビザンツの研究者のことは知らなかった。ラヴェンナのモザイクにもいろいろあり、アリウス派のものがカトリックによって改ざんされたりした事情などを再認識できたり、ラヴェンナという都市が西ローマ帝国、ゴート族、東ローマ帝国、ローマ教会のもとで翻弄されてきたことも概観できた。

 メモするにあたり、この本の日本語訳を用いない場合もある(アマラスウィンタ→アマラスンタ、イルデバトゥス→イルディバルド、皇帝ゼノ→ゼノンなど)。

 

  序章: 第二次大戦末期、イギリス海軍情報部は「初期キリスト教芸術の中心として、ラヴェンナに並ぶものはない」としながら、連合軍は52回の爆撃によりラヴェンナを破壊した。ラヴェンナのモザイクが生まれたのはなぜか、どのように生き残ったのか、を知るためににこの著者が研究するようになった経緯について述べる。

 ラヴェンナはビザンツ都市であった。301年にディオクレティアヌス帝はモザイク職人の賃金を定めた: 大理石の床舗装や石壁職人と同額で、画家より低く、床モザイクや大工、石工よりは高かった。

 教会の後陣を飾るモザイクが金地の背景をもつようになったことがこの時代のモザイクの革新である。ラヴェンナのモザイク職人は署名せず、匿名である。

 ピーター・ブラウン『古代末期の世界』にて語られる古代末期を筆者は「初期キリスト教時代」と呼び換えると明言する。

 ゴート族の信奉したアリウス派の教義について: 三位一体説を受け入れない。イスラム教ではイエスは預言者のひとりであった、とも。「フィリオクエ」をめぐる東西教会の神学論争について。

 後期ローマ帝国において、コンスタンティノープルは地中海世界を主導し続け、法的、政治的、神学的に指導的役割を果たした。その時代、帝国の西部に出現した新たな存在は、テオドリック大王治下のラヴェンナであった。

 ホノリウス帝によるミラノからラヴェンナへの遷都について: そこにはローマの軍港クラッシス Classis[アウグストゥスにより潟の中に建設され、フォッサ・アウグスタという運河でラヴェンナと結ばれた軍港。250隻の船艦が停泊できた]があり、コンスタンティノープルに繋がっていた。

 

  第1章: 西の帝都ラヴェンナの登場: ディオクレティアヌス帝は、広大化した帝国統治のために新しい方法テトラルキア[四分割統治制]を考え出し、自らはニコメディアに、マクシミアヌスはミラノに拠すものとした。西の副帝であったコンスタンティヌスは、ライヴァルの皇帝たちを倒して324年、単独皇帝となった。さらに330年、帝国の東部にコンスタンティノープルを建設し、新しいローマとして遷都する。

 312年、コンスタンティヌスがマクセンティウスを破った時にキリスト教に改宗したとされている。翌年に出したミラノ勅令はキリスト教を公認したものにすぎなかった。大帝が改宗したかどうかは定かではないが、この際にラテラノの地にあった屋敷と敷地をローマ教会に下賜している。

 325年にニカイア公会議を招集し、信条を定めさせた。これはアリウス派の考え[父と子の一体説を受け入れず、キリストを神の被造物とする]を斥けたが、アリウス派の教義はゲルマン・ゴート族に支持を受け、既にミラノを中心とする西方に広がっていた。

 皇帝テオドシウス一世はこの混乱状態に終止符を打つ。381年、コンスタンティノープルの公会議にて司教アタナシウス三位一体説を正統つまりカトリック[普遍的]とし、392年、キリスト教を公的宗教と定めた。このテオドシウス一世は、帝都をラヴェンナに遷すことになるホノリウスと、そこで帝国を支配するガッラ・プラキディアの父親である。

 395年、亡き父の跡を継ぎ、ホノリウスが帝位に就いた。その後見人の[ヴァンダル族の血を引く]軍事長官スティリコが政治の実権を握り、娘を嫁がせる。

 402年、ラヴェンナへ遷都。西ゴート族の王アラリックの軍がイタリアに侵入し、ミラノ包囲に向かったからである。ラヴェンナは潟に築かれた難攻不落の要塞都市であり、その南方には軍港クラッシスを擁していた。クラッシスの初代司教はアポリナリスであった。ホノリウスは古都ローマをなるべく訪れるように努めた。

 

 第1部 390-450 ガッラ・プラキディア

 

  第2章 ガッラ・プラキディア ー テオドシウス王朝の皇女: テオドシウス帝とウァレンティニアヌス一世の娘との再婚により390年頃、コンスタンティノープルで生まれ、394年にミラノに移り、402年の遷都によりラヴェンナに宮廷が移動。父の養女セレナによって教養を身につけたと思われる。

 406年、ゲルマン人の侵攻。スティリコはそれに抗するべく西ゴート族の王アラリックと同盟を結ぶ。

 408年にアルカディウス帝が没すると、テオドシウス二世(同一世の孫)の即位をめぐり、スティリコは皇位簒奪の噂を立てられて処刑された。妻のセレナも息子も。この年の冬、アラリックがローマを包囲する。ローマにあったガッラ・プリキディアは、おそらくラヴェンナへ逃げ帰ろうとした時、ゴート族に拉致された。アラリックは410年にローマを陥落させ、略奪し、南に向かったが、コセンツァで没した。その王位を継いだ義弟アタウルフは、人質のガッラを連れてガリアへと北上した。

 414年、ガッラはこのアタウルフとローマ式の結婚式を挙げた。翌年、西ゴート族はスペインに入る。彼女の息子は生後まもなく死に、夫は馬丁に殺された。

 

  第3章 ホノリウス帝とラヴェンナの発展: 西ゴート族によるローマ攻囲の間、ローマは軍備不足のために属州ブリタニアを放棄し、先住民ブリトン人はアングロ・サクソン人の侵入を受けることになった。

 ホノリウス帝は旧市壁の外に大邸宅を構えた[Basilica di Sant'Appolinare Nuovoの近くにある "Palazzo Teodorico" のことであろう]。造幣局と黄金の里程標をもつくった。9世紀の聖職者アグネルスによる『ラヴェンナ司教の書 Liber pontificalis ecclesiae Ravennatis』に書かれた46人の司教の記録は重要な史料である。

 ローマ都市には徴税を任務とする百人の市民よりなる参事会があったが、その職務を免れるために聖職者に叙されようとする人が多かった。

 402年のラヴェンナ遷都について、アグネルスは記していないが、司教ウルススによって建てられたウルシアナ聖堂(司教座聖堂)と洗礼堂[現ネオン洗礼堂]について述べている。

 

  第4章 西宮廷のガッラ・プラキディア: 南ガリアにあった西ゴート族は、ホノリウス帝の海上封鎖によって食糧供給が滞ったため、人質のガッラ・プラキディアを釈放し、彼女はローマに戻った(415〜416年の冬)。ホノリウス帝はガッラを、お気に入りの将軍コンスタンティウスと結婚させた。翌年、娘ホノリアが、419年には男子ウァレンティニアヌスが生まれた。421年、コンスタンティウスはホノリウスによって共治帝とされるが、コンスタンティノープルがそれを承認しないうちに同年他界する。ホノリウスは、寡婦となった異母妹に求愛し、妹の執事や乳母が皇帝に対して陰謀を企てているという告発があると、ガッラと従者を追放した。ガッラはコンスタンティノープルの甥、テオドシウス二世のもとにに逃がれた。

 423年、ホノリウスが他界し、ガッラの息子ウァレンティニアヌスが帝位を継承できるよう甥に働きかけて認められ、皇女と婚約し、帝位簒奪者として主席秘書官のヨハネを処刑してから、ガッラ・プラキディアはラヴェンナに戻った。彼女の息子の即位式は425年、ローマで執り行われた。鋳造された通貨により民衆は彼女の権威を知ることになった。こうしてその後13年間、ガッラは皇太后として宮廷を支配し、統治し、教会を運営し、法改革を行なった。437年、テオドシウス二世が「テオドシウス法典」を編纂し、翌年発布するが、筆者はガッラがこれに関与・貢献したと推察している。426年の皇帝演説の草稿におそらく関わった彼女は「皇帝は法に縛られる」という見解を持っていた。また、第16巻には、アリウス派のキリスト教徒の礼拝権利を擁護している。

 だが、税収は減り、軍事力も縮小した。その軍団は「蛮族」に依拠していた。ウァレンティニアヌス帝は将軍アエティウスに頼り切っていた。その間、ヴァンダル族が北アフリカを征服し、帝権の衰退に拍車をかけた。

 

  第5章 建設者として、母として: ガッラ・プラキディア廟についての説明: 425〜450年頃に彼女によって建てられた建造物で、サンタ・クローチェ(聖十字架)教会堂の南側に廊下でつながっていた礼拝堂であり(北側には聖ザカリア[洗礼者ヨハネの父]の礼拝堂があった)、墓廟ではなかった(彼女は450年にローマのヴァティカンのサン・ピエトロ聖堂の南側に異母兄が建てた皇帝廟に埋葬されたのだから)。建物内のモザイク画聖ラウレンティウスが描かれているので、この聖人に献じられたものかもしれない。沈下により床面が上がったので天井が低く感じられる。

 福音者ヨハネ教会 S. Giovanni Evangelista : 425年にコンスタンティノープルからの帰途に嵐にあった時、航海人の守護聖人である同聖人に請願してガッラ・プラキディアが建立したもの。碑文と浮き彫りをもつ玄関は16世紀のゴシック様式。第二次大戦で聖堂は破壊されたが再建された[国鉄駅の西側にあり]。

 ガッラ・プラキディアの尽力により、また司教ペトルスの支持により、ラヴェンナはミラノとアクイレイアに次ぐ司教座をもつようになった。

 だが、彼女は過保護のひどい母親であったと次世代の史家カッシオドルスが書いている。過度の平和により軍隊を弱体化させた、とも。

 ウァレンティニアヌス三世は「月桂樹園 reggia ad Laureta」という王宮を造成した。ラヴェンナの競技場を見下ろしていたというが現存しない。

 皇帝の妹ホノリアは三十歳の時、執事の子を妊娠したという醜聞が立ち、449年、フン族の王アッティラに救出を求める書簡を送る。この醜聞は、母親が娘を元老院議員ヘルクラヌスと結婚させて収拾させた。ホノリアの書簡は451〜452年、フン族のイタリア侵攻を招いた。フン族はローマをも脅かしたが、ラヴェンナには至らず、ホノリアを救出することもなかった。

 ガリアのオセールの司教ゲルマヌスのラヴェンナ訪問にも言及している。

 ウァレンティニアヌス三世は娘をヴァンダル族の王ガイセリックの息子に嫁がせたが、同帝が暗殺された後、これはヴァンダル族のローマ劫略を招いた(455年)。

 ラヴェンナの司教ペトルスはコンスタンティノープルの総主教ネストリウスの弾劾に与し、エフェソスの公会議で、(聖母)マリアはテオトコス(神の母)と認められた。

 450年、東の皇帝テオドシウス二世が乗馬事故で他界すると、帝姉のプルケリアは軍司令官マルキアヌスを即位させるべく結婚した。二人は451年、カルケドン公会議を催し、キリストの両性とマリアの称号テオトコスを再確認させ、エウテュケスの唱える単性論を異端として排斥した。

 

 第2部 450-493 司教たちの台頭

  第6章 ウァレンティニアヌス三世と司教ネオン: ウァレンティニアヌス三世はローマ贔屓であり、教皇レオ一世と親密な関係を保ち、宮廷をローマに移そうとした。453年にアッティラが死ぬと、嫉妬心からか、それまで軍功のあった将軍アエティウスを除こうと殺害を命じ、455年、自らも暗殺されて他界した。寡婦となった皇后エウドクシアはローマの元老院議員ペトロニウス・マクシムスと再婚させられ、この人が帝位に就いた。同年、ヴァンダル族が動き、ローマは劫略され、簒奪皇帝は殺された。ローマが悲惨な状況に陥っている間、ラヴェンナにはネオン(在位450〜473年頃)のような精力的な司教が現われ、都市を活性化させた。

 当時、ラヴェンナの富はシチリアの所領からの農産物によって支えられていた。これに終止符を打ったのは9世紀のアラブによるシチリア征服であった。皇帝不在のラヴェンナで司教ネオンによって「正統信仰の洗礼堂 (ネオン洗礼堂、Battistero degli Ortodossi,)」のモザイク装飾が行なわれた。同司教はクラッシスのペトリアーナ聖堂も完成させた。司教座聖堂に隣接する食堂も建てた(現存せず)。

 アリウス派のキリスト教徒は、公的な弾劾にもかかわらず、独自の聖職者と教会堂をもつもう一つのキリスト教世界をラヴェンナにつくり上げていた。

 

  第7章 ラヴェンナのシドニウス・アポリナリス: この人は、在位の短かったアウィトゥス帝の娘婿である。その書簡により、5世紀のラヴェンナは既に地盤沈下が進行していたことがわかる。ラヴェンナの市参事会は、このような問題や法的決定などに直面しつつ、運営された。構成員は聖職者となることで義務を免れようとしたが、司教となることはそれ以上の義務を負うことを意味していた。

 

  第8章 ロムルス・アウグストゥルスとオドアケル王: 帝政末期、イタリアには多くの蛮族が侵入し、定住したが、ラヴェンナは比較的ローマ風の伝統を維持した。帝国の軍事面はますますアリウス派を奉じる蛮族の軍団に依存するようになっていた。それでも元老院は蛮族を帝位に就けなかったので、彼らは高官としてパトリキウスの称号に甘んじた。マヨリアヌスリウィウス・セウェルスアンテミウスが、蛮族の高官リキメルの顔色を窺いながら入れ替わり立ち替わり帝位を引き継いだ。

 事実上の支配者リキメルの跡を継いだのはゲルマン人のオドアケルである。475年までに、グリュケリウス、ユリウス・ネポスが帝位に就いたが、将軍オレステスはユリウス・ネポス支持せず、ラヴェンナへ進軍し、この都市を掌握すると、息子ロムルスを帝位に就けた。その間、ローマ、シチリア、サルデーニャはヴァンダル族に侵攻された。

 ロムルスのもとでは、傭兵軍団が土地を要求し、それが拒否されると反乱を起こした。傭兵隊長に祭り上げられたオドアケルはロムルス・アウグストゥルスを廃し(476年)、ローマ帝国の西側を滅亡させた。なお、コンスタンティノープルの皇帝ゼノンは、彼にパトリキウスの称号を与えたのみであった。

 オドアケルは493年まで14年間統治できた。アリウス派を擁護し、優遇したが、カトリックを弾圧した形跡はない。ローマ教会の指導権を認めつつも、アリウス派とカトリックはラヴェンナにおいては争乱なく共存していたようである。また、シチリアを、貢納を条件にヴァンダル族から奪回した。

 

 第3部 493-540 ゴート人テオドリック、ラヴェンナのアリウス派王

  第9章 東ゴート王テオドリック: 480年代、テオドリックに率いられた東ゴート族の軍がイタリアに近づいていた。テオドリックの半生について: 461年から人質として少年時代をコンスタンティノープルの宮廷で過ごし、ローマ的伝統と学問を身につけ、宮廷儀礼や戦術を学んだ。その宮廷では、アリウス派のゲルマン人アスパルが軍隊と文官職を掌握しており、帝位にも影響力を及ぼしていた。アスパルの権勢に取って代わったイサウリア人ゼノンは皇女と結婚し、その子が帝位を継いだ(レオン二世)。帝国のヴァンダル族への遠征と失敗も目の当たりにした。テオドリックは18歳の時パンノニアに戻ることができた。その後、パトリキウスの称号を受けたり、帝国の軍司令官に任じられたり解任されたり、いろいろ政争と反乱があった後、堪忍袋の尾が切れたテオドリックの率いるゴート軍は487年、コンスタンティノープルを攻囲し、水道を切断する。すると、皇帝ゼノンはテオドリックに和解の提案を行い、テオドリックを副帝として西ローマ帝国の統治を委ねる代わりに、イタリアを手にしているオドアケルの討伐を依頼する。テオドリックはこの提案に合意し、488年、イタリアへ向けて出発した(総勢数万)。途中ルギイ族などが加わった。

 489年、ジュリア・アルプスを越えてイタリアに入り、イゾンゾ川でオドアケルの軍を破るとミラノに入り、パヴィアに本陣を構えた。490年には西ゴート族に救援を求め、オドアケルの軍を破る。ラヴェンナを攻囲し、共同統治という合意に至るも、陰謀があったとしてテオドリックはオドアケルを殺し、493年、イタリアの支配者となると、シチリア、南ガリア、イストリア、ノリクム、パンノニア、ダルマツィアなどに版図を広げた。

 同時代の記録によると、テオドリックは友好的な男で、カトリックを攻撃しなかったし、彼の母はカトリックに宗旨替えをした。テオドリックはギリシア語もラテン語も話し、自分の偉業を東の宮廷やローマの元老院に認めてもらおうと努力し、ローマ人の所領に手を付けなかった。ゴート族は少数派だったのである(14%以下)。

 彼はラヴェンナにアリウス派の司教座聖堂洗礼堂(ネオン礼拝堂に倣ったモザイクをもつ)を建てた。▽モザイクに描かれたキリストは若く、神と同質ではないが「似ている」ことを示している。アリウス派の聖職者は司教館を与えられた。

 東の皇帝アナスタシウスは、テオドリックを西の皇帝とすることを拒否する。四年の交渉の末、象徴の衣と器物がラヴェンナに送られ、498年からテオドリックは紫衣をまとい始めたが、帝冠と帝錫は身につけなかった。

 ゴートとローマの要素を組み合わせたその統治下、在地のローマ人は武器の携帯を許されず、武器をとるのは軍事に特化したゴート族のみということになった。

 ゴート族の中にはローマ風の名前を帯びるようになることもあったし、カトリックに改宗する者もいた。テオドリックは、コンスタンティノープルの宗主権のもと、ゴートとローマの要素を組み合わせ、西方ローマ帝国の再建に取りかかった。

 

  第10章 テオドリックの王国: テオドリックは蛮族の指導者であったが、コンスタンティノープルからパトリキウスの称号を得て、帝国軍の司令官に任命されたこともあり、広大な王国を擁することとなった。その権威は、パンノニアから南ガリア(プロヴァンス)、シチリア島にまで及んでいた。

 テオドリックは王としての権威を示すべく、REX(王)と刻んだ通貨を鋳造させた。王の軍司令官は側近集団を成し、王に付き従った。ゴート族主体であったが、リベリウスというローマ人の軍司令官が任命されて活躍したという記録もあるし、文官や外国官として取り立てられたローマ人もいた。カッシオドルス一族は最重要: ローマの元老院議員階級に属し、シチリアの属州長官であった父親はテオドリックの傘下に入り、息子はテオドリックの広報担当を担い、法務長官、近衛長官ともなる。その著『雑録』や年代記は重要な史料となっている。ラヴェンナに移ってきたローマの下級貴族はテオドリックの宮廷におけるエリート集団となった。

 テオドリックはラヴェンナのインフラを整備し、アリウス派のための宗教建造物を建てた。救世主キリストを奉じた聖堂(Domini Nostri Jesu Christi: 9世紀からの呼称は 聖アポリナーレ・ヌオヴォ聖堂)は王宮に近く、黄金の屋根をもち、堂内のモザイク装飾により「黄金の天国」と称された。その身廊の両端にはラヴェンナとクラッシスの町が描かれ、ラヴェンナの宮殿部分の中央にはテオドリックと高官たちが並んでいた▽(560年代にカトリックの聖堂に改変され、消去された)。

 また、身廊最下段のモザイクに描かれた諸聖人と殉教者の行列の先頭にも王と王妃が描かれていた可能性があると著者は推論している。これらの建造にあたり、王はコンスタンティノープルから石材を輸入し、ローマから石工と職人を招き、ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ聖堂の様式に倣った。

 一方、自らの宮殿はおそらくホノリウスのものを拡張したであろうとしている。宮殿の正面に置かれていた騎馬像は、カール大帝がアーヘンに持ち去ったとある。騎馬像はパヴィアの宮殿にあったともアグネルス(既述した9世紀の司教)が伝えている。

 テオドリックはローマの市壁や建造物、その他の都市の建造物をも修理再建した。

 ラヴェンナの宮廷は文化庇護の拠点となり、貴重な古典文献を翻訳したボエティウスら、優れた学者や芸術家、医師、金融業者らを惹きつけた。福音書もゴート語に翻訳された(ウプサラ写本)が、後に焚書とみなされ、ほとんど遺っていない。カッシオドルスは、王女アマラスンタ、姪アマラベルガらの教養と知的水準を讃えている。

 テオドリックは大都市の民衆に対する穀物供給と娯楽にも配慮していた。

  

  第11章 テオドリックの外交: ラヴェンナは西ローマ世界のネットワークの中心とし、フランク族、西ゴート族、ヴァンダル族との政治的講和を強化すべく、結婚をうまく利用した: 自らクロヴィス王の姉妹アウドフレダを娶っている。外交は軍事介入ほど効果的ではなかったが、多くの有益な情報をもたらした。ラヴェンナへは外交使節や他国の司教たちもやってきた。王は、テッラチーナ北側の湿地帯の干拓について訴えたり、災害や飢饉の被災者支援を訴えたりする人々にも耳を貸した。

 テオドリックはカトリックの司教たちに対し、帝国内に様々な宗教の見解が受容されるべきだと主張した。同時に、カトリックの司教たちにラヴェンナにおいて独自の信仰を守ることを許した。それにより司教ペトルス二世は、聖アンドレア礼拝堂を建設した。司教エレクシウスはこの事業を引き継いだが、聖堂は現存していない。この司教エレクシウスは聖ヴィターレ教会の建造を計画した。

 テオドリックはユダヤ人共同体に対しても寛容を示した。正義、公平、効率の良い統治、平和外交などがローマ人から評価されていたと言える。

 

  第12章 立法者テオドリック: 王はローマ系住民と非ローマ系住民の融合を図るため、500年に法律書『勅令集』を発布した。一方、ローマ教会はカトリック信仰を「正しい」とし、それ以外には異端という烙印を捺した。ただし、6世紀初めまで、ローマ教会がテオドリックを異端とみなしていたという記述は見当たらない。それどころか、ローマ教皇の座をめぐる二人の司教の争いにテオドリックの裁定が仰がれたという例すらあった。この介入の結果、テオドリックは500年にローマを公式訪問し、長期滞在し、教皇シンマクスによって歓迎され、妹アマラフリダをカルタゴにおけるヴァンダル族の王トラサモンドに輿入れさせた。

 テオドリックは法を発布することを控え、ローマ風の法行政を進め、腐敗や不正を斥けたが、500年にローマで過ごした間に平和と秩序を目して、小型の勅令集を発布し、石に刻ませ、ゴートとローマ双方の共通法とした。それは『テオドシウス法典』に依拠したもので、強姦から女性を守るなど、人道的な面もあった。遺産相続などにも言及していた。

 また、ローマ教会とコンスタンティノープルの間に生じていた亀裂が広がった。皇帝ゼノンは『統一令(ヘノティコン)』で妥協解決を図るも、519年にそれが撤回されるまで、カトリック教会の統一は回復しなかった。皇帝ユスティノスは、コンスタンティノープルのアリウス派に対して不寛容を始める。東方におけるアリウス派教会の閉鎖接収は明らかな迫害であった。それを知ったテオドリックは激怒し、調査のための使節を派遣する。和解の成果なく戻った使節の一人、教皇ヨハンネス一世は獄中に没した。叛逆の陰謀を疑われたボエティウスも投獄され、その獄中で『哲学の慰め』を著した。彼を弁護したシンマクス家にも処分が及んだ。

 

  第13章 アマラスウィンタとテオドリックの遺産: テオドリックは526年、七十歳くらいで他界し、ラヴェンナでの統治は33年間に及んだ。その墓廟は、イストリア産の白い大理石により、一枚岩の丸屋根をもっている。葬儀についての記録はない。パヴィアの司教エンノディウスは、彼を最良の元首と讃えている。

 その後、王女アマラスンタが、亡き王の孫アタラリックの母后、摂政として国家を切り盛りした。

 テオドリックはカッシオドルスにゴート人の公式な歴史書を書くよう命じていた。『ゴート人の起源』の原文は残っていないが、それを用いて551年にヨルダネスが『ゴート史 Getica』(ゴート族の起源と業績)を書いており、テオドリックの融和的な態度、寛容な姿勢について言及している。

 カッシオドルスは母后アマラスンタを賞賛し、自分がしっかり支えたと主張している。東ローマの歴史家プロコピオスも彼女の賢明な治世を讃えている。彼女は古典文芸の教育を重視し、正義を強調し、非軍事的なものであった。クラシス港からは常に富が流れ込んでいた。

 教会も豊かであり、司教エクレシウスは、さらに金融業者ユリアヌスからの支援も受け、自分の敷地内にサン・ヴィターレ聖堂(第15章に詳述)の建設を計画したが、アマラスンタがこのようなカトリック信徒たちの建築計画を妨害するようなことはなかった。彼女は自分の敷地内に「孤児院」と呼ばれた礼拝堂 monasterium があった(?)。

 アドリア海のイストリアはラヴェンナの倉庫であった。農産物、海産物の産地にして、快適な避暑地であった。アタラリックは若年にかかわらず大酒飲みであり、反感を買った、ともある。

 534年、このアタラリックが18歳で他界すると、アマラスンタは従兄弟のテオダハドを招いて共治者とした。だがうまくゆかず、テオダハドは従姉妹に対する陰謀を企て、彼女をボルセーナ湖の島に幽閉し、暗殺させた(535年)。東ローマ帝国はこれを口実として軍隊を送ることにする。

 

 第4部 540-570 ユスティニアヌス一世と北アフリカ・イタリア戦役

  第14章 ベリサリオス将軍のラヴェンナ占領: 秘書官・法律顧問として将軍に従軍したプロコピオスによりこのゴート戦争の記録が残されている。ちなみに、この史家は対サーサーン戦争にも従軍しており、532年に起きた反皇帝暴動ニカの乱にも言及している。この反乱を鎮圧した将軍ベリサリオスが西方遠征の将軍に選ばれた。

 東ローマはヴァンダル王ゲリメルの追放を求められていた。対ペルシアの52000に比べれば、16000の兵は大軍ではなかったが、533年、大艦隊は速攻でカルタゴを制圧し、ゲリメルを捕え、凱旋した。ユスティニアヌス帝は征服した七つの属州にそれぞれ行政官と軍官を配した。

 ヴァンダル族の次はゴート族との戦争である。ベリサリオスは535年、シチリアを占領して半島部に向かったが、ナポリで激しい抵抗にあい、攻囲は二十日間に及んだ。ローマは平和的な入城を求め、東ローマの総督を受け入れた。

 一方、ゴート族はテオダハドを無能とみなし、ウィティギスを王にすげ替えた。ウィティギスはアマラスンタの娘マタスンタと結婚し、戦争を回避できるかと期待した。それに失敗すると、537年、ローマを攻囲し、それは一年以上に及んだ。ベリサリオスの一司令官がリミニを占拠すると、ウィティギスはローマ攻囲を断念する。

 援軍を求めたベリサリオスのもとに、皇帝は財務役人の宦官ナルセスを送り込む。539年末、ラヴェンナ攻囲が始まり、数ヶ月にわたる和平交渉の末、540年五月にベリサリオスはラヴェンナ入城を果たす。プロコピオスによれば、数に勝ったゴート族は降伏して恥じなかった。ゴート族がベリサリオスを王にしようとしているという噂を耳にした皇帝は彼を召喚し、王族を捕虜として連行した凱旋将軍を冷遇した。

 ゴート族はヴェローナの司令官イルディバルドを王に祭り上げ、さらに十二年間戦い続けたが、ラヴェンナを奪還することはできず、ラヴェンナは東ローマ帝国の直接支配下に入ることとなった。

 

  第15章 聖ヴィターレ教会 ー 初期キリスト教芸術の精髄: 東ローマ帝国の支配下に入った時、カトリックの司教ウィクトルはこれを歓迎したが、アリウス派は庇護者を失なうことになった。司教ウィクトルはカトリックのウルシアーナ司教座聖堂に銀の天蓋などを設えた。

 特筆すべき事業は、金融業者ユリアヌスの支援を受けた聖ヴィターレ聖堂の建設である(コンスタンティノープルのハギア・ソフィアとほぼ同時期)。八角形プランは、着工者の司教エクレシウス(13章に既述)によるもので、その姿は後陣上のモザイクに描かれている。聖堂の八角形プラン、丸屋根についての比較や考察いろいろ。聖ウィタリスは3〜4世紀頃の殉教者で、やはり殉教した二人の息子とともに、ミラノ司教聖アンブロシウスにより喧伝され、生地ミラノと殉教地ラヴェンナで崇められている。堂内を飾るモザイク画についての説明。マルマラ海の大理石、柱や柱頭は東方で加工されたものが輸入された。

 この事業を引き継いだ司教ウルシキヌスは、聖アポリナーレ・イン・クラッセ聖堂の創建者としても知られている。

 その後は司教ウィクトルが引き継いだので、皇帝ユスティニアヌスと皇后テオドラのモザイク画はウィクトルの時代の制作だと推察できるが、皇帝の右側には大司教マクシミアヌスがキャプション入りで描かれているのは、おそらく後に前任者ウィクトルの像を自分に置き換えたのであろうと著者は推察している。

 このマクシミアヌス大司教は、ポラの生まれで、コンスタンティノープルの宮廷人であった。ウィクトル司教の没後、皇帝はラヴェンナに大司教座を置き、自分の支持者を送り込んだ。ラヴェンナにとってこの人はよそ者であったので、市内に入る前に町の有力者に晩餐や贈り物をして支持を得なければならなかったが、ひとたび入ると、このモザイクを改ざんして自分の権威を示した。

 マクシミアヌスはさらに聖アポリナーレ・イン・クラッセの聖堂モザイクを完成させ、郷里ポラにもラヴェンナにもいくつか聖堂を建設した。

 聖母マリア賞賛のため、皇帝はパレンティウム(ポレチ)にもエウフラシウス聖堂を奉献させた。

 聖堂の後陣に、皇帝と皇后の図像を置くということは、皇帝の権威、帝権を示す雛形となった。聖堂に王や皇帝像を描くことは、テオドリックが救世主キリストに献じた聖堂(現 聖アポリナーレ・ヌオヴォ聖堂)の前に、ガッラ・プラキディアによって奉献された福音者ヨハネの聖堂玄関の例があった(第二次大戦でひどく破壊された)が、奇異なことであった。そして、ラヴェンナが東ローマ皇帝から直接支配されていることを強調すべく、以後二世紀にわたって続けられることになる[聖アポリナーレ・イン・クラッセにはコンスタンティノス四世(668〜685年)が描かれている]。

 

  第16章 ナルセス将軍と「国事詔書」: 聖ヴィターレ聖堂が建設されていた540年代にも、ゴート戦争は続いていた。ゴート族の王に祭り上げられたイルディバルド(540〜541年)が殺されると、イラーリコが、次いでトティラが王になり、552年まで粘り強く戦い続けた。

 一方、東ローマではペルシアの侵入があり、542年には黒死病(ペスト)の大流行があった。ラヴェンナに送り込まれた官僚は、不当な税を要求するのに吝嗇な卑劣感との悪評が立っていた。

 544年、ユスティニアヌス帝は将軍ベリサリオスをイタリアに戻すことにしたが、549年までに、トティラはローマを占領し、イタリアとシチリアを奪回しており、ベリサリオスは召喚され、552年、今度はアルメニア人の宦官将軍ナルセスを送り込んだ。この有能な将軍は軍を北から進め、沿岸ルートをとってゴート軍を出し抜き、ラヴェンナに現われた。552年初夏のタギナエの戦い(Busta Gallorumの戦い)でトティラは戦死したものとされた。ゴート軍はウンブリアにおける戦闘でナルセス軍の弓矢隊に敗れる。現マルケ州に落ち延びていたトティラは、そこで負傷が元で死亡した。ナルセスはラヴェンナに凱旋し、イタリアの属州は東ローマの支配下に戻ったが、ゴート戦争による荒廃はすさまじく、税の徴収など不可能であった。

 皇帝は実効支配を立て直すべく『国事詔書』を西に送った。それは、トティラ以前の土地所有状況を再確認するものであった。ユスティニアヌス帝は541年にローマの執政官制度を廃止し、ラヴェンナにおける近衛長官に服属する軍事総督(警察長官のようなもの)で統治されることとなり、ローマ司教はローマの福利厚生により大きな責任を負わされた。

 属州は、司教および地方の名望家が統治官を選び、皇帝および近衛長官によって任命されるものとしたが、中央集権化のため、統治官は該当する属州から選ばれることはなかった。

 ラヴェンナの都市行政はなおも市参事会によって自治が行なわれていた。

 一方、ナルセスは占領政策のために占領地に総督を送り込み、軍団を駐留させた。北部が553〜554年にフランク族の侵攻を受けたのでラヴェンナに移り、その後はローマに戻った。561年にはゴート族の牙城ヴェローナが降伏した。北アフリカでも反乱に見舞われた。ビザンツの駐留軍は歓迎されざる客であったのだ。

 565年にユスティニアヌス帝が没すると、ナルセスを告発する書簡を受け取った皇帝ユスティヌス二世は568年、彼を解任し、その後任にロンギヌスを指名した。ナルセスはナポリに向かったものの、教皇によってローマに呼び戻され、そこで574年、95歳で他界した。亡骸は東方に戻され、自分の墓として設立していたビテュニアの修道院に埋葬された。

 

  第17章 大司教マクシミアヌス ー 西方の砦: ゴート戦争によりイタリアは経済的に破綻した。一方で、キリスト教世界は553年、コンスタンティノープルにおける第五回公会議において「三章」を異端とし、弾劾した。だが教皇ウィギリウスを含む西方教会がカルケドン公会議の決議を修正するものとして抵抗を示したことを知ったユスティニアヌス帝は、自分のお気に入りの廷臣マクシミアヌス(第15章に既述)をラヴェンナの大司教に叙任させようと図り、この大司教は三章問題をラヴェンナに持ち込んだ。教皇ウィギリウスは虐待を受けて公会議の決定を強要された。

 ラヴェンナの司教座聖堂博物館にある象牙の司教座は、マクシミアヌスが皇帝から恩賞として下賜されたものではないかと考えられている。

 

  第18章 大司教アグネルスとアリウス派教会の接収: マクシミアヌスの没後、ラヴェンナでは地元の土地貴族であり、軍務経験もある妻帯者アグネルスが大司教に選ばれた(557年)。ユスティニアヌス帝はアリウス派の全財産をカトリックに移管するよう命じる。大司教アグネルスはその命令をつつがなく執行した。

 聖アポリナーレ・ヌオヴォ聖堂(第10章に既述)は、トウールの聖マルティヌスに献じ直された。モザイク画の改ざんは、テオドリック王と王妃の図像が抹消されるなど、露骨である。ファサード裏には、皇帝ユスティニアヌスのモザイク画の断片が置かれているが、725年の地震によって壊れた後陣にあったテオドリック王のものを改ざんしたものだという説がある。筆者は、大司教アグネルスは自分の図像も加えたとしている[諸聖人の行列の筆頭にいる人物か?]。

 アリウス派のゴート族は財政的にも逼迫していたことが、アリウス派の司教座聖堂であった聖アナスタシア教会[アリウス派の洗礼堂の隣に建つ現サント・スピリト聖堂]の領地をカトリック教徒に売ったという記録からもわかる。

 既に527年、ユスティニアヌス帝はカトリック教徒以外の異端に遺言書の作成を禁じていた。ゴート族も遺産相続ができなくなっていたので、アリウス派の信仰を維持するのはひじょうに困難になっており、カトリックへの改宗を余儀なくされていた。

 また、ラヴェンナは、古典ラテン文学といった世俗的教育学問を受けることのできる地であった。筆者は、大司教アグネルスの時代にラヴェンナで学んだ詩人ウェナンティウス・フォルトゥナートゥスに言及している[讃美歌の作者として知られている]。聖マルティヌスのご利益により盲目が治ったことで、同聖人に帰依した。

 

 ※メモが長くなったので、第5章以降は別スレとします。

 

 

 ラヴェンナの地図: DLできる