コロナ禍以前、金沢へは仕事で年に十回以上足を運んでいた。たいていは一泊して、兼六園、金沢城の石川門辺り、東茶屋街、長町の武家屋敷街、近江町市場などを訪れる観光であるが、たまには、SANAAの有名建築である 金沢21世紀美術館 や、忍者屋敷として知られる 妙立寺鈴木大拙館(谷口吉生の建築)などに行くこともある。もちろんひととおりのガイディングはする。お城になる前は、一向宗の金沢御坊があったこと、前田家のこと、珠姫のことなど。でももっとイメージを膨らませるために、何か小説を読んでみたいとも思っていた。この本はそのような私にとってうってつけの内容であった。次に金沢へ行く日が楽しみだ。メモる。

 

 母と娘: 加賀藩前田家の三代目当主、利常の生母、おちょぼの方の話。朝倉義景に仕える侍の一人であった父が、フクロウ狩をしていた時、巡礼の財布を拾い、返してやったところ、一族の繁栄を祈願すると言われたこと。その父の他界後、美人の後妻は加賀に移り住み、前田家の家臣の妻となる。その家の末娘、千世は、二十歳をすぎても嫁ぎ先がなかったため、金沢城の奥女中に応募し、お松の方に取り立てられる。「鬢削ぎ」についての説明。前田利家に千世姫がいたので、千世はおちょぼと呼ばれることになる。瓦の凍み割れについての説明[この本は雑学辞典のよう]。お鏡(きょう)という表使いの奥女中の下で働くこととなる。血判、馬針、奥右筆、側室

・・・前田家の城の奥には百人以上の女性がいたことがわかる。

 

 お猿さま: 福梅、食べたい。前田利家は豊臣秀吉に九州出陣を命じられる。朝鮮出兵である。軍船建造に要る銅と金箔を供出。金沢はもう既に金箔の産地であったのだ。その間、金沢城に石垣が築かれる。石垣普請の名人、篠原一孝。秀吉が好んだという鶴血酒とか鶴の吸い物って気持ち悪い。

 肥前名護屋城へ(現佐賀県)、「洗濯女」(つまり側室)として下る者はいないかとの、お松の方の問いかけに、このおちょぼが応じる。お鏡とあと二人の女中に伴われ、名護屋城へ(文禄元年)。当時、ツツガムシ病が恐れられていたことを知る(今でもあり!!)。大坂まで陸路、あとは瀬戸内海を通って船酔いに苦しめられつつ海路、である。その頃の船がまだ平底であったとはびっくりだ。かくしておちょぼは身籠もり、利家は腹の子を猿千代と名付けた。金沢に戻って十一月に出産する(1594年)。

 

 人質: 猿千代は乳母お信(のぶ)をつけられ、守山城の前田対馬のところに養育に出される。具足餅について。

 豊臣秀吉の弟、秀次の高野山への追放と青巖寺にて切腹については一般説を踏襲。

 前田利家は、お拾いの守役を命じられ、伏見城に入り、大納言となる。ほどなく、慶長伏見大地震が起きる(1596年)。別府湾の瓜生島沈没について。豊臣秀吉は、翌年に再び挑戦へ出兵し、1598年春には「醍醐の花見」を開催。前田利家は、寄生虫症に苦しめられたという説をとっている。

 1598年、猿千代は守山城にて大納言様と会い、大小を賜る。その翌年、五大老の一人であった前田利家が他界。その翌日に七将による石田三成襲撃事件勃発: これも一般説に準じている。利家は高徳院として金沢に埋葬される(遺体塩漬け説)。猿千代の生母は髪を下ろし、寿福院となる。葬儀に出席せず、大坂にあった利長は、家督相続の披露宴を行なうが、徳川家康は襲撃されることを恐れて欠席した。実際、家康が利家を見舞った時、次男の俊政は家康を斬る機会を窺っていた。利長は、高徳院から三年は大坂にいるように命じられていたが、家康に金沢へ戻ってよいと言われて従う[古狸による罠ですね]。その間に家康は大坂城西の丸に乗り込んで居座った。そして家康は利長討伐を決意したとして、加賀攻めを宣告する。利長は母と正室を人質にとられているようなものである。横山大膳を使者として和睦交渉が行われ、同時に金沢城を総構えとして防衛を強化する工事を行なう。

 猿千代の老女としてお鏡が守山城へ入り、和睦交渉の結果を報じる。前田家は芳春院(お松の方)を江戸へ人質として送り、徳川家からは、秀次の次女を、猿千代の正室とすることになった、と。その子々(ねね)姫はまだ二歳であった。

 

 珠姫きたる: 猿千代はお鏡に母の話をねだった。

 直江状について[直江兼続、痛快ですね]。激怒した家康は会津攻めに諸将を召し出す。だが、石田三成の動きを見つつ、前田軍は越前の辺りで戦をしていた。そして、利長は猿千代を養子として犬千代とし、人質として、丹羽家の小松城に入るようにとの命を下す。犬千代は、小松城に行く前に金沢城にて養父となった異母兄および生母と対面。小松城の門前にて人質の交換。犬千代と対面した丹羽長重、その才気煥発と気量を見抜く。ところが、関ヶ原の戦いは、犬千代が金沢城に立ち寄っている間に終わっており、人質の必要は無くなった。徳川家康は天下人となり、敗将らは斬首される。利長は加賀百万石のあるじとなり、弟の利政は嵯峨野に隠棲、犬千代には小松城が与えられる。

 犬千代と子々姫の縁談が進み、結納を交わし、1601年七月、姫は江戸城を発つ。数百人が同行とのことなので、輿入れ先は金沢城と決まる[兼六園の百間堀に面した茶屋の辺りは従者の住宅街として江戸町と呼ばれるようになる]。

 一方、宇喜多秀家に嫁していた豪姫は、金沢に引き取られる。細川家に嫁していた妹の千世姫も然り。

 珠姫は、近江、越前経由、915kmの旅をして金沢に入る。輿入れの際の貝桶渡しの説明など、面白い。利長は、この行列のために一里毎に珠姫茶屋を建てさせた。

 

 藩主の座: 婚儀を終えて小松城に戻った犬千代は、珠姫の乳母を好かぬ、とお鏡に報告する[この小説では、珠姫死後の乳母の蛇責めによる処刑には言及していない]。

 犬千代は十歳の時、養父とともに江戸(もちろん舅の秀次にも謁見するが、外様扱いされる)、大坂[大坂城の蛸石などは大阪の陣の後のものなのに、秀頼と会ったときに見たことになっている?!]、京などを見聞し、養父から「籌を帷幄の中に運らし、勝ちを千里の外に決す」などの帝王学を教えられた。

 1602年、金沢城天守閣は落雷にあって焼失し、煙硝蔵に燃え移って大爆発した。奥にいた女性たちは無事であった。犬千代と利長は翌年再び伏見城に戻り、征夷大将軍就任の祝いを献上した。帰途、小松城へ戻り、老女と乳母に再会した。彼女らは犬千代に性教育を授けた。

 利長は、犬千代に家督を譲り、引退することを決める。犬千代の元服式で家康に烏帽子親を務めると言われる。それは、前田家は徳川家の手駒であると周知させるためだと前田対馬は犬千代に説明した。1605年、犬千代は家康から松平筑前守利光という名を授かった。利長は六月、隠居して富山城に移る。

 

 ゆく人くる人: 御老公利長は、篠原一孝を介して、金沢城に入った利光の藩政を指導した。利光は金沢城にて生母とも暮らせるようになった。

 豪姫の夫、宇喜多秀家は久能に幽閉されていたが、1606年、八丈島への配流が決まる。前田家は隔年で入用の品々と米を送ることとなった。

 また、駿府城のお手伝い普請を命じられ、それに従わなかった者二名を斬首した。若輩者の利光を軽んじる傾向は、横山大膳ら古参にも見られた。利光は名護屋城のお手伝い普請も命じられる(これには二十万の家臣団が集まった)。その頃、利長は梅毒を病みつつつも、金沢に高山南坊(右近)に命じて用水路(辰己用水など)を建設させたりしていた。

 ともあれ、利光も珠姫も成長著しく、珠姫も元服式を行ない、夫婦となった[雄蝶雌蝶など、このへんの記述はとても詳細である]。利長の病気については、後陽成天皇の譲位と即位式に、家康が立ち会うので利長に供奉すべしとの命を断るため、徳川に隠しておくことはできなかったからである。代わりに、利光が新帝のための内裏造営にあたることとなり、京へ。だがそれは宮大工に任せ、すぐに帰国することができた。

 ここで、本多政重の話になる。様々な主君に転々として仕えた: 直江兼続の婿養子となり、最後は前田利光のブレーンとなる切れ者なのだ。本多政重は、徳川家康が諸侯に内裏の普請を命じたのは、豊臣秀頼を大坂城から引っ張り出して、会見するためであったと解釈する。彼は、何かと利光を軽んじる古参の横山大膳、奥村河内らに代えて、利光の右腕として召し抱えられた。

 

 豪姫の涙: [この章はキリシタンに関わる。]大野治長から、秀頼のために黄金一千枚の要求があった時も、本多政重の叡智により、その書状を徳川家康に転送し、うまく切り抜けることができた。秀頼は多くの寺社仏閣を再建したために蓄財を蕩尽していたのである。

 ところで、加賀藩では煙草の売買が禁じられていたとはびっくり: 健康のためではなく、防火目的であったそうだが[この禁煙令は全国に広まる]。

 珠姫の乳母は、徳川の権威を笠に着て、利光と仲良くせぬよう姫をしかったりしていたようだ。三男五女をもうけて、二十四歳で他界することになるが、死因は、この乳母により、利光から隔離されたことによるものであったようだ。

 さて、1612年以降、徳川幕府による禁教令が徹底され始めた。あの南禅寺の金地院崇伝が書いた伴天連追放令によって、多くのキリシタンが逮捕され、棄教を強いられ、あるいは国外追放されることとなったが、金沢もこれに巻き込まれた。利家の時代、キリシタン大名、高山ジュスト右近は、高山南坊(みなみのぼう)として前田家扶持を受けていた。彼の屋敷があった土地は、今、21世紀美術館が建つ辺り、彼が建てた南蛮寺は、広坂にあるカトリック教会の前身である[2017年、右近は列福された]。利家が改宗しなかったのは、側室がいたから、とのこと。この右近は、国外に追放されてマニラに至り、ほどなく他界したが、異母姉にあたる豪姫と彼女の側近たちは問題であった。彼女が内藤ジュリアによって受洗し、マリアとなったことを本多政重は知っていた。[加賀藩のキリシタンには、津軽藩に流罪となった者もいた。弘前の教会堂とのつながりはなさそうである。]利光は、豪姫に、八丈島への物資調達と、棄教を提示し、彼女は、夫たちへの物資調達の継続を望んだ。[宇喜多秀家の子孫は、明治時代に加賀藩に引き取られたそうだ。]

 [1629年、諱を利光から利常と改める。1623年に三代将軍となっていた(甥でもある)家光に遠慮してのことであったと考えられている。]

 

 この小説には、利常の奇行については言及されていない。徳川が、磐石な権力基盤をつくるために、いやらしいほどのイケズをやったことがわかった。その徳川を鼻にかけて珠姫を早死にさせた乳母も恨めしい。そして、キリシタン弾圧が、前田家にこれほど関わっていたとは。その他いろいろ日本史の勉強になった。